前編
男爵家の庶子は、王太子を誘惑しがち。
――だからって、みんな一緒にしないでほしい。
※『クズ男が連れていかれるのは東です!』と『悪役令嬢が送られるのは南です!』と同じコンセプトのシリーズ作品です。舞台や登場人物はそれぞれ別なので、こちらからでもお楽しみいただけます。
※マリエルの出生とアルヴェーン家の家族関係について、設定に一部矛盾があったため修正しました。
オリヴィアはアルヴェーン男爵ロベルトの兄の娘で、兄の死後、家を継ぐことになったロベルトが兄嫁ベアトリスと結婚した設定に変更しています。
マリエルの母とロベルトの関係は、それ以前のものです。
物語の本筋に変更はありません。
「それは、あっちの男爵家です!」
王都の夜会に、悲痛な声が響いた。煌びやかな大広間では楽団が優雅な曲を奏でていたが、その一瞬だけは音楽よりもその声のほうがよく通った。周囲の貴族たちが一斉に振り返る。
マリエル・アルヴェーンは、恥ずかしさに頬が熱くなるのを感じながらも、目の前の子爵令息から視線を逸らさなかった。
「し、失礼しました。てっきり、あなたが噂の……」
「違います」
「ですが、桃色の髪で、男爵家の庶子だと」
「私の髪は桜色です」
「桃色では?」
「違います! よく見てください!」
淡い桜色の髪が、勢いよく揺れた。灰紫色の瞳には、いい加減にしてほしいという感情がありありと浮かんでいる。
「王太子殿下と噂になっているのは、ハートリー男爵家のミレイユ嬢です。私はアルヴェーン男爵家のマリエルです」
「……どちらも男爵家ですよね?」
「王国に男爵家がいくつあると思っていらっしゃるのですか!」
子爵令息は慌てて頭を下げ、逃げるように去っていった。
マリエルは大きく息を吐いた。
「五人目」
背後から聞き慣れた声がした。
振り返ると、端正な顔立ちの青年が壁にもたれ、こちらを見て笑っている。
「数えてたの?」
「暇だったから」
「伯爵家のご子息が壁際で暇そうにしてないでよ」
「幼馴染が、他人のやらかしを五回も自分のせいにされてるからな」
「……まだ五回だから」
「今夜だけで?」
「今夜だけで」
「それは怒っていいな」
「もう怒った」
「聞こえてた」
エドガー・ベルフォール。隣領を治めるベルフォール伯爵家の次男で、マリエルとは幼いころから十年以上の付き合いになる。
マリエルは十七歳。背中まで流れる淡い桜色の髪と、薄曇りの夕空を思わせる灰紫色の瞳を持つ。髪は飾り立てるより簡素にまとめることを好み、華美なドレスを着て夜会に出るより、作業着姿で魔道具工房に籠もっているほうが性に合っている。
そして――マリエルは、アルヴェーン男爵家の庶子だった。
別に、それを恥じたことはない。
マリエルの父、ロベルト・アルヴェーンは、もともと男爵家を継ぐはずの人間ではなかった。彼にはコンラートという兄がいた。兄はアルヴェーン男爵家の跡取りとして育てられ、家格の釣り合う男爵家の次女ベアトリスを妻に迎え、その間には娘のオリヴィアも生まれていた。
家督を継ぐのは兄。次男であるロベルトには、兄よりも自由に自分の人生を選べる余地があった。
そんなころに出会ったのが、マリエルの母だった。
魔道具作りを得意とする女性で、貴族の令嬢ではなかったが、自分の仕事に誇りを持ち、誰かに頼らず生きていこうとする芯の強い人だった。
二人は惹かれ合い、いつか結ばれることを願っていた。ロベルトが次男のままであれば、それも叶わない望みではなかった。
だが、その未来は突然失われた。兄のコンラートが若くして亡くなったのである。
残されたのは、妻のベアトリスと幼い娘オリヴィア。そして、跡取りを失ったアルヴェーン男爵家だった。
次男だったロベルトが、新たな後継者として家を継ぐことになった。同時に、兄の妻だったベアトリスを妻として迎えることも決まった。
アルヴェーン家を存続させるため。そして、兄の忘れ形見であるオリヴィアの立場を守るため。
ロベルトとマリエルの母は、別れるしかなかった。
けれど、そのときすでに、彼女のお腹には新しい命が宿っていた。そのことを、彼女はロベルトに告げなかった。
これからアルヴェーン家を背負う彼には、新しい責任がある。夫を亡くしたベアトリスと、父を失った幼いオリヴィアもいる。そこへ自分が身重であることを告げれば、ロベルトが苦しむことは分かっていた。
だから彼女は何も言わず、身を引いた。
そうして一人で土地を離れ、魔道具製作者として働きながらマリエルを産み育てた。
もともと優れた技術を持っていた母の魔道具は、少しずつ評判になっていった。派手なものではない。日々の暮らしを少し便利にする、実用的な魔道具ばかりだった。
やがて、その製作者の名が遠く離れたアルヴェーン領にまで届いた。その名を偶然目にしたロベルトは、目を疑った。かつて愛した女性と同じ名だったからだ。
それが気にかかり、所在を調べさせたところ、思いもよらない事実が判明した。彼女には娘がいる。そして、その年齢を考えれば――自分の娘である可能性が高かった。
ロベルトはすぐに母娘を訪ね、事情を確かめた。そこで初めて、マリエルという娘がいることを知ったのである。
彼はマリエルを認知し、せめて生活の援助だけでもさせてほしいと申し出た。だが、母はそれを断った。
「この子を育てるだけの収入はあります。今さらあなたのご家庭を乱すつもりもありません」
頑なな拒絶ではなかった。ただ、自分の力で築いた暮らしを手放すつもりがなかったのだ。
ロベルトも、それ以上強くは求めなかった。すでに妻と娘がおり、二人との家庭を疎かにするつもりもなかったからだ。それでも、遠く離れた地で暮らすマリエルのことは折に触れて気にかけていた。
そうして数年が過ぎたころ、母が病に倒れた。
マリエルが七歳のときだった。
病状は思いのほか重く、ほどなくして母は帰らぬ人となった。残された娘を一人にするわけにはいかない。ロベルトは正式にマリエルをアルヴェーン男爵家へ迎え入れることを決めた。
そのとき、父の妻――現在マリエルが「お母様」と呼ぶベアトリスは、幼い彼女をしばらく無言で見つめていた。整った顔立ちにはほとんど表情がなく、その視線も静かで、七歳のマリエルにはひどく冷たく感じられた。
「亡くなったお母様を忘れる必要はありません。けれど、今日からあなたは私の娘でもあります」
マリエルは、はっと顔を上げた。
ベアトリスは淡々と続けた。
「学ぶことも、身につけるものも、将来のことも、あなたにだけ不自由をさせるつもりはありません」
「……ありがとうございます、奥様」
「奥様ではありません」
「え?」
「お母様と呼びなさい」
マリエルは、目の前の女性を見つめた。
母を亡くした自分に、もう一度「母」と呼んでいい人ができるなど、思ってもいなかった。
「……お母様」
おそるおそる呼ぶと、胸の奥に張りつめていたものがほどけた。視界が滲み、みるみるうちに大粒の涙が両目に浮かぶ。
ベアトリスはそんなマリエルを見つめ、ほんのわずかに表情を和らげた。
「それでよろしいわ」
そうしてマリエルには、新しい家族ができた。
父。
厳格だが公平な母ベアトリス。
そして三歳年上の姉、オリヴィア。
血縁だけを見れば、オリヴィアはマリエルの姉ではない。オリヴィアは亡きコンラートとベアトリスの娘であり、ロベルトの姪だ。つまり、ロベルトの実娘であるマリエルとは、血縁上は従姉妹にあたる。
けれど、そんなことを気にしていたのは、どうやらマリエルだけだったらしい。屋敷へやってきた日、オリヴィアはマリエルをしげしげと眺めた。
「あなたがマリエル?」
「……はい」
「私の妹なのね」
「……妹?」
思わず聞き返すと、オリヴィアは不思議そうに首を傾げた。
「違うの?」
「いえ、その……私たちは従姉妹だと聞いています」
「そうね」
「では……」
「でも、今日から同じお父様とお母様の娘でしょう?」
あまりにも当然のことのように言われて、マリエルは目を瞬いた。
「だったら、姉妹でいいじゃない」
オリヴィアはそう言って、にっこりと笑った。
「だから、私のことはお姉様とお呼びなさい」
「……お姉様?」
「そう。それでいいわ」
どことなくベアトリスに似た物言いだった。
マリエルは少しだけ目を丸くして、それから小さく笑った。
父も、母も、姉も、自分を家族の輪から遠ざけようとはしなかった。むしろ、戸惑っているのはマリエルのほうだった。
それまで実母と二人で暮らしてきた彼女にとって、突然できた家族との生活は、何もかもが新しかったのである。
最初のころ、マリエルは何かにつけて遠慮した。新しいドレスを仕立てると言われても、自分のためにわざわざ用意してもらう必要はないと思っていた。
「お姉様のお下がりで構いません」
「なぜ?」
「だって……私には、こんなに綺麗な服はもったいないです。お姉様のお下がりで十分です」
するとオリヴィアは眉を寄せた。
「ダメよ」
「え?」
「私とあなたでは、似合う色も雰囲気も違うもの」
「でも……」
「それに、あなたの服なのよ。あなたに似合うものを作ってもらえばいいでしょう」
あまりにも当然のように言われて、マリエルは返す言葉を失った。
「だから、妙な遠慮はしないの」
「……はい、お姉様」
それ以来、姉妹仲はずっと良い。
それは、ベアトリスも同じだった。
マリエルだけに何かを我慢させることもなければ、反対に、母を亡くした可哀想な子として特別扱いすることもなかった。
必要な教育を受けさせ、必要なものを与え、間違ったことをすれば叱った。
それだけだった。けれどマリエルにとっては、その「それだけ」が嬉しかった。
成長するにつれ、二人の得意なものははっきりと分かれていった。オリヴィアは領政に秀で、マリエルは魔道具に秀でた。
オリヴィアは幼いころから数字に強く、成長すると父の執務室へ顔を出しては、書類を整理したり、簡単な計算を手伝ったりするようになった。
一方、マリエルが夢中になったのは魔道具だった。母が遺した道具を分解しては組み立て、術式を書き写し、失敗してはまた試す。
「私は土地と数字。あなたは魔石と術式。それでいいでしょう」
オリヴィアはそう言って笑った。
誰かと比べられることも、何かを譲ることも要求されない。ただ、自分の得意なことを伸ばせばいい。
だからマリエルは、自分が「男爵家の庶子」であることを、これまでほとんど気にしたことがなかったのである。
――最近までは。
「踊ろう」
エドガーが手を差し出した。
「嫌」
「即答?」
「あなたと踊ったら、今度は『伯爵家子息まで誘惑した』って言われるかもしれないじゃない」
「俺、婚約者いないけど」
「そういう問題じゃないの」
「じゃあ何が問題なんだ」
マリエルは、うんざりしたようにため息をついた。
「……桃色の髪」
「お前は桜色だろ」
「エドガー!」
「何だよ」
「今、ものすごく素晴らしい人に見えた」
「今だけか?」
「今だけ」
「ひどいな」
だが今、王都の社交界で「桃色の髪をした男爵家の庶子」といえば、一人の少女を指した。
ミレイユ・ハートリー。
ハートリー男爵家の庶子である。
鮮やかな桃色のふわふわした髪。若草色の大きな瞳。華奢な身体つきながら、胸元だけはやけに豊か。小首を傾げて微笑めば、多くの男性が守ってやりたくなるような美少女だった。
そして――恐ろしいほど頭の中がお花畑だった。
「だって、好きになってしまったんですもの」
それがミレイユの常套句である。
最初は子爵家の嫡男だった。婚約者がいた。
「でも、その方が私を好きだと言ってくださったんですよぉ?」
次は伯爵家の三男。やはり婚約者がいた。
「好きでもない人と結婚するなんて、可哀想ではありませんかぁ?」
その次は侯爵家の次男。 当然のように婚約者がいた。
「本当に愛する人と結ばれるほうが、幸せですよねぇ?」
婚約者を奪われた令嬢は、誰一人幸せそうではなかった。
だが、ミレイユにはそれが理解できなかった。
悪意は薄い。
薄いからこそ、なお厄介だった。
ミレイユの価値観は、幼いころから母親によって丁寧に育てられたものだった。
ハートリー男爵には、もともと正妻がいた。非常に優秀な女性だった。夫が領政を放り出し、遊び歩いている間も、帳簿をつけ、領民からの陳情を聞き、商人と交渉し、領地を守り続けた。
その一方で、夫は別の女性と関係を持っていた。
その女性との間に生まれたのがミレイユである。
やがて正妻は過労で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
残された嫡女クラリッサは、母から領政を学んでいた聡明な少女だった。
だが正妻の死後、男爵は愛人だった女を屋敷へ迎え入れ、後妻に据えた。そしてミレイユもやってきた。
後妻となった女は、クラリッサに何度も言った。
「あなたはお姉さんでしょう?」
「ミレイユはこれまで何も持てなかったのよ。少しくらい譲ってあげなさい」
「そのドレス、ミレイユに着せてあげましょう」
「その髪飾りも、ミレイユに似合いそうね。あなたは他にも持っているでしょう?」
「今度の夜会にはミレイユを連れていきます。また次の機会があるでしょう?」
何でも姉から妹へ。
クラリッサのドレス。
クラリッサが大切にしていた髪飾り。
友人たちに会えることを楽しみにしていた夜会。
最初のうち、ミレイユは母から与えられるものを素直に受け取っているだけだった。
けれど、それが何度も繰り返されるうちに、いつしか彼女自身も、姉が自分に譲ってくれるのは当然なのだと思うようになった。
「お姉様は何でも持っているんだから、一つくらい私にくれてもいいでしょう?」
そう言う娘を、母は咎めなかった。それどころか、笑って肯定した。
「欲しいものは遠慮しなくていいのよ、ミレイユ。欲しいなら、欲しいと言っていいの」
欲しいと言えば、与えてもらえる。
自分より多く持っている人なら、一つくらい譲ってくれて当然。
そして、自分が望んだものを手に入れるために誰かが我慢することにも、次第に疑問を抱かなくなっていった。
やがて成長すると、その考えは物だけではなく、人に対しても向けられるようになった。
自分が好きになった男性が、自分を好きだと言ってくれる。
ならば、たとえその人に婚約者がいたとしても、自分が諦める必要はない。
選ばれなかった婚約者のほうが、身を引けばいい。
ミレイユにとっては、それも姉がドレスや髪飾りを譲ってくれたことと、さほど変わらないことだったのである。
一方、同じ庶子であるマリエルは、姉から何かを奪おうなどと考えたことすらない。
同じ男爵家の庶子。
同じピンク系統の髪。
年齢も近い。
けれど、それ以外は何もかも違った。
――にもかかわらず。
「マリエル」
エドガーの声で、彼女は我に返った。
「今日、三人の令嬢から『婚約者には近づかないでください』って遠回しに言われた」
「全員の名前教えて」
「何する気?」
「誤解を解いてくる」
「やめて。余計疑われる」
「何を」
「伯爵家の次男まで誑かしたって」
「俺は別に困らないけど」
「私は困るの」
マリエルはため息をついた。エドガーが再び手を差し出す。
「踊ろう」
「だから――」
「俺が踊りたい」
その一言に、マリエルは黙った。周囲から視線を感じる。けれど、エドガーは気にする様子もない。
「ほら」
「あとで後悔しても知らないから」
「お前と踊ったくらいで後悔するほど繊細じゃない」
マリエルはようやく笑い、彼の手を取った。
悪意ばかりだった夜会が、この一曲の間だけ、ただの綺麗な夜に戻った気がした。
♢
アルヴェーン男爵のもとに、立て続けに三通の手紙が届いた。
いずれも、マリエルに持ち上がっていた縁談を辞退したいというものだった。
その日の夕方、父は家族を執務室へ呼んだ。
「先月までマリエルに三件あった縁談が、すべてなくなった」
重々しく告げられ、マリエルは目を瞬いた。
「全部ですか?」
「ああ」
「理由は?」
「どの家も明言はしていない。だが、『昨今の社交界における風聞を鑑みて』だの、『家の将来を考慮した結果』だの……似たようなことが書かれている」
父が苦々しげに三通の手紙を机へ置いた。
「どうやら、男爵家の庶子を巡る最近の噂を気にしているらしい」
「……私、何もしていないのですが」
父はしばらく黙って娘を見つめ、それから重々しく頷いた。
「分かっている」
そこでベアトリスが静かに口を開いた。
「例のハートリー男爵家の令嬢でしょう」
オリヴィアが眉を寄せる。
「でも、家名も違うわよね?」
「ええ」
「髪の色も厳密には違う」
「ええ」
「瞳の色も違う」
「ええ」
「顔だって違う」
「ええ」
「母親も違う」
「当然ね」
「父親も違う」
「もちろん」
「それなのに、どうして同一人物みたいに扱われるの?」
「私が知りたいわよ、お姉様」
オリヴィアはしばらく黙り込み、本気で理解できないという顔をした。
「……社交界って、思っていたよりずっと、人を見ないのね」
「オリヴィア」
父が困ったように娘を見る。
そこへベアトリスが涼しい顔で口を挟んだ。
「いっそ夜会用の扇子に『それはあっちの男爵家です』と刺繍してしまいましょう」
「お母様」
「裏側には『私はアルヴェーンです』と」
「……ちょっと欲しいです」
「マリエル」
父が止めた。
「冗談です」
マリエルが答えると、ベアトリスは何食わぬ顔で扇子を開いた。
「私は本気ですわよ」
父はますます頭を抱えた。
しばらく黙っていたが、やがてマリエルを見つめ、ぽつりと言った。
「……すまない、マリエル」
「なぜお父様が謝るのですか?」
「お前には何の責任もないのに、私の娘であることでこんな目に遭わせている」
マリエルは少し驚いて父を見つめた。
「でも、私を娘として迎えてくださったのも、お父様でしょう?」
父が黙る。
「それで十分です」
マリエルは笑った。
ロベルトはしばらく何も言えなかった。
隣に座っていたオリヴィアが、そっとマリエルの肩を抱く。
「縁談がなくなったくらい、何よ」
「お姉様?」
「あなたには魔道具があるでしょう」
「……うん」
「だったら今は、新しい魔道具でも考えていればいいのよ」
「それ、励ましてる?」
「もちろん」
ベアトリスも頷いた。
「オリヴィアの言う通りです。縁談はなくなっても、身につけた技術はなくなりません。男なんていなくても、自分の力で生きていけるくらいでちょうどいいのです」
「お母様まで……」
ロベルトが小さく咳払いした。
「……男なんていなくても、と言われると、私の立場がますます弱くなる気がするのだが」
ベアトリスは夫へ視線を向け、平然と答えた。
「あなたは別です。もう捕まえてありますから」
「……そうだな」
マリエルは思わず吹き出した。オリヴィアも笑っている。父も、やがて苦笑した。
この家にいる限り、自分は大丈夫だと思えた。
♢
ところが、ミレイユ・ハートリーの恋は、それで終わらなかった。
侯爵家の次男との噂が消えたころには、さらに大物へ近づいていた。
王太子フェリクスである。
もちろん、婚約者がいた。
カトリーヌ・セインフォード公爵令嬢。
王国でも指折りの名門であるセインフォード公爵家の令嬢で、幼いころから未来の王妃となるべく教育されてきた女性である。
ミレイユにとっては、それすら障害にはならなかった。
ある日、王太子の婚約者であるカトリーヌに呼び止められても、彼女は悪びれる様子もなく言った。
「殿下は私といるときだけ、本当の自分でいられるとおっしゃいました」
「殿下には、私という婚約者がおります」
「でも、カトリーヌ様は殿下を愛していないのでしょう?」
「……家名でお呼びください」
「え?」
「親しい間柄でもない方に、名を許した覚えはありません」
「でも、殿下はいつもカトリーヌ様と――」
「殿下とあなたでは立場が違います」
ミレイユはわずかに目を瞬いたものの、すぐに首を傾げた。
「そんなことより、カトリーヌ様は殿下を愛していないのでしょう?」
「なぜそう思うのです?」
「だって、殿下に厳しいことばかりおっしゃるそうですもの」
公務をしろ。
予算を守れ。
他国の使節を待たせるな。
カトリーヌは、王太子として当然の節度と責任を求めていただけだった。
しかしミレイユにとって、それは「愛のない束縛」にしか見えなかった。
そしてフェリクスにとっても、自分を甘やかし、何をしても「殿下は素晴らしい」と褒めてくれるミレイユは心地よかった。
そして半年後。
王立学園の卒業祝賀会で、とうとう事は起きた。
大広間に、フェリクスの声が響き渡る。
「カトリーヌ・セインフォード! 私は今日をもって、そなたとの婚約を破棄する!」




