第25話 雨は空だけで作られない
第25話です。
今回から第三部に入ります。
第2部「砂漠再生編」では、オルドアとハディル村を中心に、水・塩・熱・風・土の循環を少しずつつなぎ直してきました。
深井戸を強く動かし続ける都市。
枯れた井戸と崩れた地下水脈。
塩の海を支え続けていた白塩竜。
地下と地上を呼吸させる風脈。
そして、砂の中で眠っていた風留草。
砂漠は完全に救われたわけではありません。
けれど、都市、村、避難路をつなぐ《生存回廊》が生まれ、砂漠ヘックス単独でのエターナル出現条件は回避されました。
しかし、砂漠の水不足は砂漠だけで完結していません。
川は上流から来ます。
地下水も、雨も、土の保水も、さらに上の山と森に支えられています。
北方山麓ヘックスでは、森林帯が大きく失われ、雲が生まれにくくなり、源流が断続化していました。
今回は、澪たちが砂漠から上流へ向かう、第三部の始まりです。
サフラ中継井の夜は、静かだった。
昼間の砂嵐が嘘のように、空には星が出ている。
壊れた石囲いの内側では、避難民たちが布にくるまり、浅い眠りについていた。
井戸そのものは枯れている。
水桶も壊れている。
それでも、今夜のサフラ中継井は、ただの廃墟ではなかった。
低い防風格子。
陶片を並べた結露板。
小さな土壌床。
その中へ移された風留草の根付き小片。
そして、陶片の縁に生まれた、ほんの数滴の夜露。
神代澪は、その水滴を見つめていた。
「少なっ……」
思わず本音が漏れる。
隣でライカが小声で笑った。
「でも、ゼロじゃないよ」
「うん。ゼロじゃない」
澪は頷いた。
水滴は、指先で触れれば消えてしまうほど小さい。
それでも、乾いた道の途中に生まれた水だった。
都市のものでもない。
村のものでもない。
通る者すべての命を、一晩だけつなぐための水。
調律核には、サフラ中継井の状態が表示されている。
《生存回廊:第一接続維持》
《夜間結露:微量》
《風留草根圏:安定待機》
《避難路死亡リスク:微低下》
微量。
微低下。
どれも小さい。
けれど、今の澪には、その小ささが現実的に見えた。
大きな魔法で一瞬にして緑が広がるよりも、小さな水滴が消えずに残ることの方が、ずっと大事に思える。
「ミオさん」
アオイが、少し離れた場所から声をかけた。
彼女は避難民の子どもたちが眠る日除けのそばに立っていた。
「交代の時間です」
「もう?」
「はい。セラフィナさんの休憩計画では、ミオさんは今から三時間寝ることになっています」
「三時間……」
短い。
だが、ここ数日の睡眠時間を考えれば贅沢でもある。
セラフィナは本当に休憩計画を作っていた。
誰が何時に見回り、誰が水量を測り、誰が風向を記録し、誰が休むか。
砂漠の再生にも、休憩表は必要らしい。
「セラフィナ、怖いなあ」
澪が呟くと、通信石板から声が返ってきた。
『聞こえています』
「聞こえてた」
『睡眠不足は判断力を低下させます。第三部へ入る前に、最低限の回復が必要です』
「第三部って言い方、ちょっとメタい」
『主調律者がそう表現しました』
「私か」
澪は苦笑した。
その時、調律核が淡く光った。
サフラ中継井の地図が縮小し、砂漠全体が表示される。
オルドア外周。
ハディル旧集水槽。
サフラ中継井。
三つの土壌拠点が細い緑の線で結ばれている。
その北側に、新しい警告が浮かんだ。
《北方山麓ヘックス:降雨形成低下》
《上流森林帯:消失率 68%》
《雲形成核:不足》
《河川源流:断続化》
《広域食料供給網:不安定要因》
澪は表示を見上げた。
「やっぱり、次は山か」
ライカも地図を覗き込む。
「森がないから雨が降らないってこと?」
「それだけじゃないと思う」
澪は言った。
「雨は空だけで作られるわけじゃない」
「空だけじゃない?」
「地面から上がる水分。森から出る蒸散。冷える場所。雲の粒になるきっかけ。雨を受け止める土。全部が必要」
ライカは少し考えて、耳を傾けるように地図を見た。
「雨って、空から降ってくるだけじゃないんだ」
「うん。空へ戻るものがないと、降りにくくなる」
砂漠で水を戻し始めた。
だが、その水の多くは本来、さらに上流から来る。
山に森があり、土が水を抱え、川が季節を越えて流れる。
その前提が壊れていれば、砂漠の修復はすぐ限界へ突き当たる。
澪は遠く、北の暗い地平線を見た。
夜でも、山脈の影だけはわかる。
黒い壁のように連なる稜線。
そのふもとで、森が消え、雨が弱まり、川が途切れている。
「休めないじゃん……」
澪が呟く。
アオイが少し困った顔をした。
「それでも、今は休んでください」
「はい」
澪は素直に頷いた。
世界は待ってくれない。
でも、倒れたらもっと遅れる。
それも、この数日で学んだことだった。
***
翌朝。
サフラ中継井には、小さな会議の輪ができていた。
澪たち六人。
サディク。
避難民代表。
オルドアから来た水務局の記録係。
そして、通信石板の向こうにナジーム、ザヒーラ、リハラ、マーディ。
砂漠側の引き継ぎを終わらせるためだ。
澪は、砂地図の上に六つの印を置いた。
「私たちは北へ向かいます。でも、砂漠の作業を止めるわけにはいきません」
サディクが頷く。
「ハディル旧集水槽は、こちらで見る」
「水を入れる条件は守ってください」
「わかっている」
彼の声には、以前のような刺々しさは少なかった。
ただし、完全に柔らかくなったわけでもない。
それでいい。
信頼は急に完成しない。
「一斉発芽は禁止。発芽させる場合は、土壌温度、塩分、保水、遮光、防風、維持担当を確認してから」
サディクの隣にいた若い男が、黙って記録板へ書いている。
予定外に水を流し、一斉発芽を起こした男だ。
彼はいま、発芽制御記録係の一人になっていた。
罰としてではない。
自分が何を起こしたかを、最後まで見続けるために。
澪は彼へ視線を向ける。
男は顔を上げない。
ただ、筆を止めなかった。
「オルドア外周防風帯は、水務局と廃棄区画で共同管理」
通信の向こうで、マーディが答える。
『燃やさずに済む有機物は、選別して回す。ただし危険物は炉へ送る』
「はい。無理に全部を土へ戻さないでください」
『わかっている。腐敗と循環を混同するな、だろう』
「その通りです」
マーディの口調は相変わらず硬い。
けれど、言っている内容は変わっている。
彼女はもう、すべてを燃やすだけの管理者ではない。
燃やすものと、戻すものを分ける入口になっている。
「サフラ中継井は、避難民代表と通行者で交代管理」
避難民代表の男が頷いた。
「通る者から、一人ずつ記録係を出す。水を受け取るだけではなく、次の者のために石を積む」
「無理のない範囲で」
セラフィナが付け加える。
「衰弱者、子ども、病人へ作業を強制してはいけません」
「わかっている」
「作業できる者が、作業できない者を支える仕組みとして記録してください」
「細かいな、天使殿は」
「秩序です」
避難民代表は苦笑した。
「悪くない」
最後に、ミルカが風塔と水路の管理表を確認する。
「昼夜風向の切替は?」
通信からリハラの声。
『西方第六風塔は、手動切替手順を三名へ教えた。朝と夕方に風圧を見て切り替える』
「砂分離格子の掃除は?」
『毎日二回。砂嵐後は追加点検』
「下部戻り管と白塩竜の監視は?」
ナジームが答える。
『中央貯水宮の圧力、熱塩分離核の塩分、白塩竜負荷の三項目を記録する。数値は村側にも共有する』
サディクが少しだけ目を細める。
「ごまかすなよ」
ナジームは静かに答えた。
『ごまかせば、また都市ごと壊れる。それはもう理解した』
短い沈黙。
それからサディクは頷いた。
「なら、見る」
「見られるようにする」
二人の間に、ようやく最低限の橋がかかっていた。
澪は全員を見回した。
「私たちは、たぶんまた戻ります。でも、戻るまで何もしないで待つ場所にはしないでください」
「わかっている」
サディクが言った。
「俺たちの土地だ」
避難民代表も続ける。
「俺たちの道でもある」
ナジームが言う。
『そして、都市の水にもつながっている』
澪は頷いた。
「だから、全部つながっています」
調律核が淡く光る。
《砂漠ヘックス暫定運用:成立》
《水・塩・熱・風・土壌監視:地域移管》
《主調律者依存度:低下》
《生存回廊:維持可能性上昇》
主調律者依存度、低下。
その表示を見て、澪は少しだけ安心した。
自分たちがいないと動かない仕組みでは、修復ではない。
現地の人が見て、記録し、直し、判断できる。
それができて初めて、次へ進める。
「行こう」
澪は北を見た。
第三部の始まりだった。
***
北へ向かう道は、乾いた川底に沿っていた。
かつては、山から砂漠へ水を運んでいた川。
今は、石と砂だけが残っている。
川底の中央には、白い塩の線がうっすらと続いている。
ところどころに、乾いた泥のひび割れ。
水が流れた痕跡はある。
だが、常に流れている川ではない。
「ここ、川だったんだよね?」
ライカが石の上を跳びながら言う。
「そうみたい」
澪は地図を見る。
《旧サフラ川》
《現在流量:断続》
《基底流量:ほぼ消失》
《洪水時表層流出:高》
「基底流量って?」
ライカが聞く。
「雨が降っていない時でも、地下から少しずつ川へ出てくる水の流れ」
「それがないと?」
「雨が降った直後だけ流れて、すぐ乾く」
「じゃあ、川じゃなくて一時的な水路?」
「今はね」
アオイが川底の石を拾う。
丸い。
長い時間、水に削られた形だ。
「昔は、水が常に流れていたのでしょうか」
フィリアが石に手を触れる。
「声があります。ゆっくり流れていた水の記憶です」
「今は?」
「走って、消える水」
その表現に、澪は乾いた川底を見た。
水がないわけではない。
ただ、留まらない。
山へ雨が降る。
森がなければ、水は土へ染み込まず、表面を一気に流れる。
川は短時間だけ濁流になる。
その後、すぐに乾く。
水は通り過ぎるだけで、土地に残らない。
「砂漠と同じ構造だ」
澪は呟く。
「水がないのではなく、留まれない」
ルシェリアが空を見上げる。
「北の空に、雲の断片があります」
澪も見る。
山の方角。
青白い空の下に、薄くちぎれた雲が浮かんでいる。
だが、厚みがない。
山肌へ届く前に、風にほどけていく。
「雲ができないというより、育たないのかも」
ルシェリアが言った。
「水蒸気が上がっても、集まる場所が足りない」
「森があれば変わる?」
「木々の上は、風が細かく乱れます。葉から水分も上がります。地表より冷えやすい場所もできます」
フィリアが続ける。
「森の土は、水を抱えます。朝と夜に、少しずつ水を返します」
ミルカが地面を見る。
「斜面の表面も守る。根がなければ、雨は土を削るだけ」
森は、ただ木が並んでいる場所ではない。
水を上げる。
水を抱える。
風を砕く。
土を留める。
雲が育つ足場にもなる。
「じゃあ、山へ行ったら木を植える?」
ライカが聞いた。
澪は首を横に振る。
「たぶん、またそれだけじゃ駄目」
「やっぱり?」
「砂漠で学んだばかりだし」
木を植える前に土。
土の前に有機物と菌。
その前に水と風を整える。
山も同じとは限らないが、いきなり森を作ろうとしても失敗する可能性が高い。
「山で最初に戻すものは、何だろう」
澪は呟いた。
答えはまだない。
その時、ライカの耳が動いた。
「音」
「何の?」
「水。上から来る」
全員が立ち止まる。
乾いた川底。
遠くの山。
風。
最初は何も聞こえなかった。
だが、数秒後。
ごう、という低い音が響いた。
ルシェリアが顔を上げる。
「雨の匂いはありません」
「こっちでは降ってない」
澪は川の上流を見る。
音が大きくなる。
乾いた川底の石が、小さく震えた。
アオイが盾を構える。
「まさか」
ミルカが叫ぶ。
「鉄砲水!」
上流のどこかで雨が降った。
もしくは、崩れた斜面に溜まった水が一気に流れた。
ここでは空が晴れていても、水は川底を走ってくる。
「全員、川底から上がって!」
澪が叫ぶ。
ライカが真っ先に駆け出す。
「前方に人がいる!」
川底の少し先。
壊れた荷車と、小さな隊商がいた。
彼らは水音に気づいていない。
石を避けながら荷物を直している。
「アオイ!」
「行きます!」
アオイが走る。
ライカはさらに速く駆ける。
「水が来る! 上がって!」
隊商の男たちが振り向く。
一人が首を傾げる。
「水?」
その瞬間、上流の曲がり角から茶色い壁が現れた。
水ではない。
泥と石と枝が混じった濁流。
乾いた川幅いっぱいに広がり、うねりながら迫ってくる。
隊商の人々が悲鳴を上げた。
荷車を捨てて逃げようとする。
しかし、子どもが一人、荷台の下へ潜り込んだまま動けない。
「くそっ!」
ライカが荷車へ飛び込む。
アオイが盾を地面へ突き立てる。
「時間を稼ぎます!」
泥流が迫る。
ルシェリアが風を横から当て、泥流の先端に乗った軽い枝や砂を少しだけ逸らす。
だが、流れそのものは止められない。
水の質量は、風で簡単に変えられるものではなかった。
セラフィナの光剣が隊商の人々の退避方向を示す。
「高い場所へ! 荷物を捨ててください! 命を優先!」
男の一人が叫ぶ。
「商品が!」
「後で拾えます!」
「流されたら終わりだ!」
「死ねばもっと終わりです!」
セラフィナの声は冷静だったが、妙に強かった。
男は一瞬固まり、荷物を離した。
フィリアはネレイアとともに、泥流の中にある水の動きを読む。
「右側が浅いです! でも石が多い!」
澪は調律核を見る。
流速。
水深。
泥の濃度。
障害物。
荷車までの距離。
「アオイ、盾を正面じゃなく斜めに!」
「斜め?」
「止めないで、横へ流して!」
「わかりました!」
アオイが盾の角度を変える。
泥流の先端が盾へぶつかる。
真正面から受けていれば、アオイでも押し流されただろう。
斜めに受けた泥水は、横へ流れを変え、荷車への直撃を少しだけ逸らす。
その隙に、ライカが子どもを抱えて飛び出した。
「取った!」
「上へ!」
ライカが跳ぶ。
泥水が足元をさらう。
あと一歩遅ければ飲み込まれていた。
アオイが最後に後退する。
盾を引き抜いた瞬間、泥流が荷車を飲み込み、ばらばらに砕いた。
川底に濁流が走る。
数分前まで乾いていた場所が、今は茶色い川になっていた。
澪は高台からその流れを見下ろした。
水はある。
確かにある。
しかし、飲める水ではない。
畑を潤す水でもない。
土を削り、石を運び、すべてを奪って走り抜ける水。
「これが、山の水……?」
子どもを抱えた隊商の女性が震えながら呟いた。
誰も答えられなかった。
調律核が表示を出す。
《北方山麓ヘックス影響流:検出》
《短時間降雨/斜面流出》
《森林根系保持力:不足》
《土壌浸透率:低下》
《表層流出率:極高》
《基底流量回復:なし》
澪は奥歯を噛んだ。
雨が降っていないわけではない。
降っても、土地が受け取れない。
森がなければ、土がなければ、根がなければ、水は川にならない。
ただの暴力になる。
***
濁流は、思ったより早く細った。
あれほど激しく流れていた泥水は、一時間もしないうちに浅くなり、やがて濁った水たまりだけを残した。
隊商の荷物はほとんど失われた。
だが、命は助かった。
助け出された子どもは、母親に抱きしめられて泣いている。
隊商の長らしい男が、澪たちへ頭を下げた。
「助かった。あんたたちが来なければ、全員流されていた」
「上流で何があったんですか」
澪が尋ねる。
男は山の方角を見た。
「昨日、山の上で雨が降ったらしい」
「昨日?」
「上の村から来た者が言っていた。雨は降った。だが、川は戻らなかった。代わりに、崩れた斜面が夜のうちに水を溜めて、今朝になって落ちた」
「上の村?」
「ルオム山麓村だ」
男は、濁った川底を見た。
「昔は森の中の村だった。今は、半分以上が伐られている」
「伐られた理由は?」
男は苦い顔をした。
「理由なら、いくつもある」
彼は指を折る。
「オルドアへ送る木材。炭。山火事。畑を増やすための開墾。避難民の住む場所。羊の放牧。古い虫害。最近は、斜面が崩れて勝手に木が倒れる」
一つの悪者ではない。
需要。
生活。
災害。
貧困。
管理不足。
すべてが重なって森を減らした。
「植林は?」
澪が聞く。
「した」
男は即答した。
「何度もな」
「失敗した?」
「最初は育つ。雨のあとに植えれば、芽は出る。だが乾季に枯れる。残ったものは山羊に食われる。根が張る前に土が流れる。去年は、植えた木ごと斜面が崩れた」
澪は黙った。
やはり、木を植えれば済む問題ではない。
森がないから木を植える。
それは間違いではない。
だが、木が森になる前に、土と水と風と動物と人の管理が必要だ。
「ルオム村へ案内できますか」
男は澪を見る。
「行くのか」
「はい」
「今の道は危険だ。鉄砲水のあと、斜面が緩んでいる」
「それでも行きます」
男は少し考えた。
「俺たちは荷を失った。上へ戻るしかない。道案内ならできる」
「ありがとうございます」
「礼を言うのはこちらだ」
男は子どもを見た。
「命が残った」
その言葉は重かった。
荷は失った。
けれど命は残った。
それでも生活は壊れる。
命さえ助かれば十分、と簡単には言えない。
澪は、壊れた荷車の残骸を見た。
木材。
布。
乾いた食料。
それらが泥にまみれている。
「使えるものは回収しましょう」
アオイが言った。
「全部は無理でも、布や木片は使えます」
「助けた直後にリサイクルの話?」
ライカが言う。
アオイは少し困った顔をする。
「大事かと」
「大事だけど」
澪は笑った。
「アオイ、砂漠でかなり変わったよね」
「そうでしょうか」
「前なら、まず守るだけだった。今は、次に使えるものまで見てる」
アオイは少し照れたように視線を逸らした。
「ミオさんたちの影響です」
壊れた荷車の木片は、防風板や仮橋に使える。
泥に濡れた布は洗って結露布や日除けになるかもしれない。
流された穀物は食べられなくても、土壌材料へ戻せる可能性がある。
何もかもを失敗として捨てるのではなく、次の循環へ回す。
砂漠で学んだことは、もう六人の行動の中に入っていた。
***
ルオム山麓村へ向かう道は、川底から外れ、緩やかな坂を上っていった。
最初は低い灌木があった。
次に、切り株が増えた。
さらに進むと、斜面全体が裸地になっていた。
土は赤茶色。
ところどころに、白っぽい岩盤が露出している。
雨で削られた溝が、無数に走っていた。
「木の根がない」
フィリアが呟く。
「土が、掴まる場所をなくしています」
ミルカが斜面を見て言う。
「表面が硬くなってる。雨が染み込む前に流れるね」
ルシェリアは風を読む。
「谷へ吹き下ろす風が強いです。樹冠があれば砕かれていた風が、そのまま斜面を走っています」
澪の調律核が表示を出す。
《山麓森林帯:消失率 68%》
《表層土壌厚:低下》
《リター層:欠損》
《菌糸網:断裂》
《斜面保水力:危険域》
《雲形成補助:不足》
リター層。
落ち葉や枝が積もる層。
それがなければ、雨滴は直接土を叩く。
土の粒は壊れ、泥となって流れる。
菌糸網が断裂すれば、木々の根をつなぐ地下のネットワークも弱る。
森は、木の本数だけではない。
地面の上と下に広がる、層そのものだ。
「ここに苗木を植えても」
澪は斜面を見る。
「雨で流れるか、乾いて枯れるか、食べられるか」
案内役の男が頷く。
「実際、そうなった」
「植える前に、斜面を止める必要がある」
ミルカが言った。
「砂漠の防風格子みたいに?」
ライカが聞く。
「今度は水と土を止める低い段」
「段々畑?」
「それに近い。でも畑にする前に、流れを弱める帯を作る」
フィリアが、わずかに残った木の根元へ手を触れる。
「ここには、まだ生きている菌糸があります」
「使える?」
「少しなら」
澪は北の斜面を見上げた。
森を戻す。
そう聞くと、木を植えたくなる。
けれど、最初に必要なのは、やはり土台だった。
雨を直接受け止める落ち葉の層。
水の速度を落とす低い枝の帯。
苗を食べ尽くさないための柵。
菌糸を増やす母木。
そして、どこへ植えて、どこを休ませるかを決める人の合意。
「砂漠と同じだ」
澪は言った。
「森も、点で植えたら駄目なんだ」
その時、山の上から冷たい風が吹いた。
一瞬、空気の温度が変わる。
ルシェリアが顔を上げる。
「雲が来ます」
澪も空を見る。
山肌の上に、薄い雲が流れてきていた。
だが、その雲は、森のない斜面の上でまとまらず、細かく裂けていく。
その裂け目の中に、巨大な影が見えた。
鹿のような姿。
長い首。
枝分かれした角。
背中に、雲を背負っているような白いもや。
一瞬だけ現れ、すぐに雲の奥へ消える。
フィリアが息を呑んだ。
「今の……」
調律核が警告を出す。
《未知大型反応:検出》
《山麓雲層と接続中》
《暫定識別名:霧背鹿》
《雲形成阻害要因として照合》
《推奨対応:討伐》
澪は表示を見て、深く息を吐いた。
「また、それか」
推奨対応、討伐。
何度も見た文字。
目の前の異常と巨大な存在を結びつけ、倒せば解決すると示すシステム。
だが、もう澪は知っている。
アビス・リヴァイアも、渇きの巨人も、白塩竜も、最初はそう表示された。
そして全員、ただの敵ではなかった。
澪は山の上に消えた影を見つめる。
「討伐はしない」
案内役の男が驚いた顔をする。
「今のが、雨を奪っている鹿だと村では言われている」
「本当に奪っているかは、まだわかりません」
「雲が出るたび、あれが現れる。そして雨は降らない」
「だったらなおさら、まず見ます」
澪は言った。
「雲を食べているのか。雲を守ろうとしているのか。あるいは、雲が育たないから、あの姿になったのか」
山の風が、乾いた斜面を吹き抜ける。
切り株の間で、砂埃が上がった。
その上空で、霧背鹿の背に残った白いもやだけが、森を探すようにゆっくりと流れていた。
第三部は、討伐対象として表示された霧の鹿から始まった。
そして澪は、最初の選択をもう決めていた。
倒す前に、森が何を失ったのかを見る。
雨は、空だけで作られないのだから。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
第25話から第三部「源流森林編」に入りました。
第二部では、砂漠の水・塩・熱・風・土をつなぎ直し、オルドア、ハディル村、サフラ中継井を結ぶ《生存回廊》を作りました。
しかし、砂漠の水不足は砂漠だけでは解決しません。
川も地下水も、上流の山と森に支えられています。
山に森があれば、雨を受け止め、土へ染み込ませ、地下水としてゆっくり川へ返します。
葉や枝、落ち葉、根、菌糸、土壌生物が、水を一時的に留め、乾季にも少しずつ流す仕組みを作ります。
逆に、森が失われると、雨が降っても土へ入らず、表面を一気に流れます。
その結果、短時間の濁流や鉄砲水は起きるのに、普段の川は乾いてしまいます。
つまり、「雨が降らない」だけが問題ではありません。
雨が降っても、地面が受け取れない。
森が水を抱えられない。
川へゆっくり返せない。
これが、今回示された上流域の問題です。
また、森は雲にも関わっています。
葉からの蒸散、森の上で乱れる風、地表温度の緩和、湿った空気の保持など、森は雲が育つための足場になります。
雨は空だけで作られるのではなく、地表と森と土と風の循環の中で育ちます。
今回、澪たちは乾いた川底で鉄砲水に遭遇しました。
それは「水がまったくない」のではなく、「水が留まれず、暴力的に流れ去る」状態を示しています。
さらに、ルオム山麓村へ向かう途中で、森林帯の大規模な消失も確認されました。
木材、炭、開墾、放牧、山火事、虫害、斜面崩壊。
森が失われた理由は一つではありません。
誰か一人の悪意ではなく、生活と需要と災害が積み重なった結果です。
そして最後に、《霧背鹿》が現れました。
村では、雨を奪う存在として恐れられています。
システムも討伐を推奨しました。
しかし、これまでと同じように、澪はすぐには倒しません。
霧背鹿が本当に雲を奪っているのか。
それとも、雲が育たない森の異常を背負っているのか。
第三部では、山・森・雲・川の循環を調べながら、源流域の再生へ進んでいきます。
原案・構想:マスター
物語構成・本文作成・文体調整:G(ChatGPT)




