湿原に行こう
カルハサ神殿の歴史は古く、湿原と人里の境に小さな神殿が建てられたことに端を発する。創建時から変わらず、広大な湿原を神域と定めているため、現在でも神皇国で指折りの敷地面積を誇っている。
湿原への立ち入りは一般には制限されており、公開日のみ特定のエリアが開放される。そのため、日常的にこの美しい景観を目にすることができるのは、神殿関係者と限られた保全活動団体のみとなっている。
その神域にいま、世間を賑わせている「精霊の庇護者」のひとりが入り浸っている。
これはカルハサ神殿における最重要機密事項である。大部分のカルハサ神殿の神官たちは、精霊の庇護者が宝石のような瞳を輝かせ、金の髪を泥にまみれさせて、湿原を歩き回っていることを知らない。
「レヴィ、そろそろ戻ろうか。」
声をかけたのは同じく泥だらけのエイダンである。いくら神殿の保護区とはいえ、自然の中には危険が潜んでいる。散策には常にエイダンと複数の護衛が動向しており、レヴィに付き合うかたちで、もれなく泥まみれになっている。
なにせ護衛対象がわざわざ整備された遊歩道を外れて、ぬかるんだ沼地へと踏み込んでしまうのだ。当然ながら、護衛たちも後をおうしかない。エイダンも護衛も、日ごとに装備を軽装化させ、汚れても支障のない服で湿原を共にするようになっていた。
「あとちょっとだけ。」
「だーめ。時間だってば。」
レヴィがこの湿地をすっかり気に入り、連日、珍しい虫探しに夢中だ。イモリにカエルに貝──湿地は不思議な生き物たちの宝庫である。
「ウェイロン様と1日3時間までって約束しただろ?」
「……した。」
「なら、戻ろう。」
ウェイロンの名を出されてレヴィはしぶしぶ頷く。朝から晩まで入り浸る事態を防ぐため、ついに滞在時間に制限が設けられたのだ。
「あっ、レヴィ、止まって!」
声をかけると同時に、エイダンはレヴィの動きをピタリと封じた。
「あの蛇はあまりよくない。」
瞬時に護衛のひとりがレヴィを抱え上げる。こういうときは一切の遠慮がない。
「近づかなければ大丈夫。でも念のため。」
レヴィは抱えられたまま、散策用に整備された区域を出ることになった。
エイダンは海洋国家ドラクンゴの出身で、サバイバルスキルに長けている。密林に囲まれた貧しい部族に生まれ、幼い頃から狩猟や採集を日常的にこなしていた。温和で陽気な性格ゆえ軽んじられがちだが、観察眼と記憶力は抜群。高い身体能力まで備え、ドラクンゴでは将来を嘱望されている人物だ。
その判断力と実力を買われ、この一団に加わった。今回のような特殊任務には、真っ先にレヴィの付き人として任命されている。
泥対策のため、幌付きの簡易馬車に乗って神殿の来賓棟へ戻る途中、レヴィがぽつりとつぶやいた。
「みんな、まだこっちに来ないのかな?」
「うーん、どうだろ。」
「赤と黄色のカエル見せたら驚くかな?ダニーは明るい色好きだから喜ぶかも。」
「うーん、それはもっとどうだろ。」
「リアムはよく見つけたなって褒めてくれると思う。」
「うんうん。」
「ロイは、あんまり興味ないみたい。」
「ん?うーん。それは・・うーん。」
レヴィはなんだかんだ言って、幼馴染のことをよく口にする。いつ合流できるのかと、少なくとも日に1回は口にしている。残念ながらイーサンの情報によれば、まだしばらくは難しいようだ。
―寂しいんだろうな。
エイダンはレヴィのどうでもいい話に適当な相槌を打ちながらも、なんとなく故郷の幼い弟妹たちを思い浮かべていた。
-カチャ
ハッとしてエイダンがレヴィを抱え込んだのと同時に、護衛の一人が2人を庇うように剣を構えて前に出る。馬車の幌に影が映りこむ。大きな鳥の翼だ。別の護衛がすぐさま幌の上に飛び乗り、その振動とともに車内にピリッとした緊張が走る。
バサバサと羽音が響き、影が数度、馬車をかすめていく。だが、それ以上接近することもなく、やがて遠ざかっていった。
「またあの大きな鳥?俺、見たかった・・。」
レヴィの呑気な声に、張り詰めていた空気が和らぐ。護衛のクセンも、剣を静かに鞘へ戻した。
「レヴィ様、あの鳥は凶暴です。決して近づいてはなりません。」
「はい・・。」
名残惜しそうに、レヴィは幌の後ろへと身を乗り出して空を見上げる。だが、すでにその姿は見えなかった。
「ヴェロキラだ。」
幌の上から器用に降りてきた別の護衛が端的に報告する。
「カルハサの湿原は美しいですが、やはり危険も多いですね。」
「ああ、冒険者ギルドが賑わうわけだ。」
「今のところは、上空を旋回するだけで危険はありませんが、ちょっと多いですね。」
「ウエィロン様に報告をしておこう。」
そう話しながらも、彼らの視線は空を見上げているレヴィと、その周囲から離れることはなかった。
旅団の移動を支える一角獣の半数は、呑気に空を見上げているレヴィが引き寄せたものだ。ここ数日、姿を現すようになった獰猛な害鳥も、同じように興味を示して見に来ているのかもしれない。
「エイダン様、弓は引けますか?」
「弓は、得意です。」
ニッとエイダンは笑った。




