第一話:放課後のパレットと、透明な青
放課後の美術室には、いつだって微かなオイルの匂いと、夕暮れの重たい橙色が澱のように溜まっている。
窓枠の向こう、中庭を挟んだ反対側にある音楽室から、艶やかでどこか切ないアルトサックスの音が風に乗って流れてきた。窓ガラスが微かに震えるほどの音圧が、静まり返った美術室の空気を揺らす。――奏多の音だ。
「……また、あんな顔して。一人で無理に硬い音を出してるよ」
イーゼルに向かい、キャンバスに絵の具を乗せかけながら、俺――神宮寺蒼輔は小さく呟いた。
俺の隣のイーゼルには、同じ美術部の葵が立っていた。彼女は真剣な横顔をキャンバスに向けたまま、微動だにせず窓の外を見つめている。その視線の先にあるのもまた、音楽室の窓辺――そこに立つ奏多の姿だった。
葵は不器用で、自分の内側にある感情を言葉にするのが極端に苦手だった。けれど、彼女がキャンバスの白地を染め上げる青色は、この世のどんな空よりも透明で、痛いくらいに美しかった。
「ねえ、神宮寺くん」
パレットを持ったまま、葵が気まずそうにぽつりと声を漏らす。
「ん? どうした?」
「……私、やっぱりこの前のコンクール用の絵、納得いかないの。もっと、あの人の音が持つ真っ直ぐな熱みたいなものを、絵の具の色に混ぜたいのに……どうすればいいかわからない」
不安そうに細い眉をひそめる葵。その頭を、俺はいつもより少しだけおどけた調子でポンと軽く叩いた。
「大丈夫だって。お前の描く青はさ、あいつの吹く音色と同じくらい綺麗な色してるんだから。もっと自信持てよ、葵」
「っ……! ば、馬鹿にしないでよ、神宮寺くん!」
真っ赤になってムスッとする葵。その不器用で、でもどこか温かい反応がなんだかおかしくて、俺は思わず声を上げて笑った。
――だけど、その笑顔の裏で、胸の奥を冷たい氷が引っ掻くような痛みが走る。
先週、病院の無機質な診察室で医師から告げられた言葉が、耳の奥から離れない。
『――余命ですね。進行が早いので、およそ三ヶ月ほどだと思ってください』
十七歳の春。俺の人生の砂時計は、あの日から残酷なスピードで残り時間を減らし続けている。自分の身体に残された時間が決して多くないことを、知っているのは世界中で俺一人だけだった。
友達に心配をかけたくない。同情の目を向けられたり、哀れまれたりなんて、絶対にごめんだ。
だから、この病気のことは最後まで誰にも隠し通す。その代わり、俺がこの世から消える前に、この不器用で愛おしい幼馴染二人を、どうしてもくっつけたかった。二人をつなぐ最初の色を、俺が塗ってやりたかった。
「さてと、そろそろ冷やかしに行ってやるか」
「ちょっ、神宮寺くん、また勝手に音楽室に行ったりして……!」
慌てて追いかけてくる葵の足音を背に聞きながら、俺は絵の具のついた手を制服のポケットに突っ込んだ。
ポケットの奥では、病院で処方されたばかりの、冷たい鎮痛剤のシートが指先に触れていた。
残り少なくなった教室のカレンダーの余白。
そのすべてを、この鮮やかな学校生活と、仲間たちの笑顔で埋め尽くしてやるんだ。青春の香りと、甘酸っぱくて痛い痛みを乗せた終わりのチャイムが、夕暮れの校舎に高く鳴り響いた。




