111話
「これ以上、尚綱様に宇都宮を壊させるわけには参りませぬ」
芳賀高定の言葉が、広間に重く落ちた。
尚綱は数人の兵に押さえられながら、なおも暴れていた。
「離せ! 離せと言っておる!」
「尚綱様……どうか」
「黙れ、芳賀! 壬生! 貴様らもじゃ!」
尚綱の怒声は、もはや誰の心も動かさなかった。
兵達は苦しそうに顔を伏せている。
家臣達は、主君の姿を正面から見られぬように目を逸らしていた。
そして城門の外では、和睦を願う民達の声がなおも響いている。
「もう戦は嫌じゃ!」
「宇都宮様、どうか民をお見捨てなさらぬよう!」
その声を聞くたびに、尚綱の顔は怒りで歪んでいった。
「聞くな!」
尚綱は叫んだ。
「そんな者達の声など聞くな! あれは小田に惑わされた愚か者どもじゃ!」
しかし、誰も答えない。
その沈黙こそが、尚綱には何よりも耐え難かった。
「……壬生殿。芳賀殿」
政治が静かに口を開いた。
二人は振り返り、小田の当主へ目を向ける。
「此度のこと、小田は宇都宮の内にまで踏み入るつもりはありませぬ」
綱房の目が僅かに細められた。
「それは、どういう意味にございますか」
「宇都宮の当主をどうするか。これから宇都宮を誰が治めるのか。それは宇都宮家の方々が決めることです」
政治は、尚綱を見た。
「ワシが求めるのは一つだけ。宇都宮の民が、これ以上戦と重い取り立てに苦しまぬこと。それだけにございます」
「……小田殿」
高定が小さく呟く。
「小田は、この機に宇都宮を奪うこともできるはずです」
「できるでしょうな」
政治は否定しなかった。
「ですが、今ここで宇都宮を奪えば、民達は小田が尚綱様を追い落としたと思うでしょう。宇都宮の家臣達も、民達も、心から小田を信じることはできぬ」
政治は続ける。
「国は城や土地だけで成り立つものではありませぬ。そこに住む者達が、明日も生きていこうと思えること。それが何より大切なのです」
高定は深く頭を下げた。
「……そのお考え、痛み入ります」
一方、綱房は政治の言葉を静かに聞いていた。
小田政治は宇都宮を奪わぬと言っている。
だが、それは情けによるものだけではない。
宇都宮の家臣と民に、自らの手で国を立て直させる。
そうすることで、小田は宇都宮に恩を売り、同時に逆らえぬほど深く入り込むつもりなのだ。
綱房は、その恐ろしさを理解していた。
「壬生殿」
政治が綱房へ視線を向けた。
「宇都宮の家中が混乱せぬよう、どうか力を尽くしていただきたい」
「……承知いたしました」
綱房は、ゆっくりと頭を下げた。
「宇都宮の民と家を守るため、壬生ができる限りのことをいたしましょう」
その声は穏やかだった。
だが胸の内では、既に次の手を考えている。
尚綱をこのまま当主の座へ置くことはできぬ。
しかし、すぐに処断すれば宇都宮家は割れる。
ならばまずは、病と称して尚綱を城内へ留め置く。
その間に家臣達をまとめ、民の不安を鎮め、次の当主を立てる。
そして小田との和睦を、宇都宮の意思として結び直す。
綱房の中で、宇都宮を生き残らせるための算段が、静かに形となり始めていた。
「嫌だ」
その時、尚綱が低く呟いた。
兵達に押さえられたまま、顔を上げる。
「ワシは認めぬ」
その目には、未だ消えぬ憎悪が宿っていた。
「小田とも、壬生とも、芳賀とも和など結ばぬ。ワシは宇都宮の当主じゃ……ワシが、宇都宮じゃ」
「尚綱様」
高定が、苦しげに呼びかけた。
「違う」
尚綱は首を振る。
「宇都宮はワシのものじゃ。ワシを捨てる者など、全て敵じゃ」
その言葉に、高定は目を伏せた。
もう、言うべき言葉は残っていなかった。
「尚綱様を奥の御座所へ」
綱房が命じる。
「決して手荒には扱うな。だが、外へ出すことも、誰かと勝手に会わせることも許さぬ」
「壬生!」
尚綱が叫ぶ。
「貴様、ワシを閉じ込めるつもりか!」
「宇都宮家を守るためにございます」
綱房は、静かに答えた。
「どうか、お許しくだされ」
「許すものか……!」
尚綱はなおも叫び続けた。
だが兵達は、その声を聞きながらも主君を奥へ連れていく。
やがて尚綱の怒声は、廊下の奥へ消えていった。
広間には、重い沈黙だけが残った。
高定は、尚綱が消えた方角を見つめたまま動かなかった。
「芳賀殿」
政治が静かに呼びかける。
「……はい」
「尚綱様を憎んではなりませぬ」
高定は、僅かに顔を上げた。
「あの方は、憎しみに飲まれてしまった。ですが、宇都宮のために戦おうとしたことまで、全てが偽りだったわけではないでしょう」
「……」
「だからこそ、これからの宇都宮には芳賀殿のような方が必要です」
高定の目に、涙が滲んだ。
「私は……尚綱様をお止めすることしかできませなんだ」
「それでよいのです」
政治は穏やかに言った。
「国を守るとは、常に勝つことではありませぬ。誤った道へ進もうとする者を止めることもまた、国を守ることです」
高定は、深く頭を下げた。
「……お言葉、胸に刻みます」
その時、城門の外から、再び大きな声が響いた。
「和睦はどうなった!」
「宇都宮様は、何と仰ったのだ!」
民達の不安が、城下へ広がり始めていた。
小太郎は、父上の袖をそっと引いた。
「父上。皆が心配しております」
「うむ」
政治は頷く。
「ならば、皆へ伝えねばならぬな」
政治は城門へ向かって歩き出した。
その隣には小太郎が続き、少し遅れて壬生綱房と芳賀高定も並ぶ。
宇都宮城の門が開かれる。
集まっていた民達は、息を呑んでこちらを見つめた。
政治は一歩前へ出た。
「宇都宮の皆」
ざわめきが止まる。
「本日、宇都宮と小田の間で、争いを終えるための話し合いが行われました」
民達は不安そうに顔を見合わせる。
「まだ、すべてが決まったわけではありませぬ」
政治は正直に告げた。
「ですが、小田は宇都宮の皆を敵といたしませぬ。皆が安心して畑を耕し、商いをし、家族と暮らせるように、宇都宮の重臣方と共に道を探してまいります」
その言葉に、民達の間から小さな声が上がる。
「本当に、戦は終わるのか……?」
「もう逃げなくてよいのか……?」
小太郎が、前へ出た。
「ワシは約束します」
民達の視線が、小太郎へ集まる。
「小田は、宇都宮の皆を見捨てませぬ。困っている者がおれば、話を聞きます。小田の領へ逃げて来た者達も、宇都宮に残る者達も、皆が安心して生きられるようにいたします」
小太郎の言葉は、決して立派な言い回しではなかった。
だが、民達の心へまっすぐ届いた。
しばらくして、一人の老いた百姓が深く頭を下げた。
「……どうか、頼みます」
その言葉を皮切りに、民達も次々と頭を下げていく。
壬生綱房は、その光景を黙って見つめていた。
宇都宮は今日、主君を失った。
だが同時に、民達が初めて自らの未来を願った日でもあった。
その願いを受け止められる者が、これからの宇都宮を治めることになる。
綱房は、静かに目を細めた。
宇都宮家の戦は終わっていない。
だが、尚綱の戦は――今、終わりを迎えたのであった。
ここまで読んでくださりありがとうございます!
ブックマークや評価をしていただけると励みになります!!




