第十三話 『 この手紙 』
ローランドの鉄橋下。
普段は湿った空気が澱む場所だった。
しかし朝だけは違う。海面に反射した陽光が、容赦なく橋脚の隙間から差し込み、薄暗い空間を焼き付ける。
一人の男がいた。
一台の黒い車が停まっていた。
ゆっくりとウィンドウが開き、運転席の男が半身を乗り出す。
「——臭うな」
男は不機嫌にそう漏らすと、乗り出した勢いのまま、下車した。
なれた動きで、車の周りを歩き出す。
影の刺す橋の下でも、非常灯のおかげで車の照りは十二分だ。
つるつるの塗装に走る一途の光を片手でなぞりながら、後部へと向かう。
後扉を開く。
そこには袋があった。
やけに長細いビニル袋。
成人男性を一人、収容できそうな——
いや、そのための袋、《ボディバッグ》だった。
「すまないな——」
男は袋を、花嫁かのように抱き抱えると、道路に投げ捨てた。
「哀れな""兄弟""」
そう告げると、誰も通らない道路の両橋の虚無を見渡し、悲しげな踵を返しては歩き出した。
ポケットに汚れた手を突っ込んで。
雨を避ける屋根として。
他人の視線を遮る壁として。
最低限の「家」を装う覆いとして。
張り巡らされたビニルシートが朝日を反射し、鈍く光っていた。
住民の朝は早い。
人通りが増える前の道路の下で、名前すら知らない者同士が、互いの体温だけを頼りに身を寄せ合っていた。
湿気を吸った衣服。
痩せた肩。
濁った目。
男はその群れの中で、一人だけ場違いな男になった。
真っ白なスーツ。
濃紺のシャツ。
サングラス。
屈強な体躯は、周囲の骨ばった人影とはまるで別の生き物のようだった。
「……アンタ、何用だ?」
骨と皮だけの男が笑った。
「金くれりゃ、助けてやってもいいぜ」
アルツハイマーで震える手が、金を摘まむ仕草をする。
男は答えなかった。
ただ、低く問う。
「……ご機嫌よう《ズドラーストヴィ》。
最近、見慣れない奴が来なかったか」
「見慣れない奴ねぇ……」
ホームレスは肩をすくめた。
「ああ、一人いたな」
「どんな奴だ」
「……アンタだよ。ハハハ」
男は一人で笑った。
サングラスの奥の視線が、ゆっくりと下がる。
「金が先だ。情報は後」
その手が、男の顔の前で揉み込むような仕草をした。
次の瞬間だった。
男の手首が掴まれた。
皮が滲む音がした。骨が軋む音がした。
「お、おい落ち着け!馬鹿にしてるわけじゃねぇ!これが俺の仕事なんだよ!」
男は視線を落としたまま言う。
「……その時計。どこで手に入れた」
細い手首に、場違いな金時計がぶら下がっていた。
針はなく、風防は内から爆ぜていた。
だが、金は輝きを失っていない。
サイズも合わず、ゆるゆるのまま揺れている。
「関係ねぇだろ」
「盗んだのか」
「違ぇ。拾った」
「世間じゃそれを盗みと言う」
「焚き火だよ!」
男は叫んだ。
「こないだの夜だ!ミンテージの事件でネットが騒いでた日!若い男が色々燃やしてたんだよ!」
男の手首を掴む力が、わずかに強まった。
「若い男?」
「黒髪、少し長め。背は低い。アジア混じりの顔だった」
沈黙。
サングラスの奥で、何かが確信に変わった。
「どこへ行った」
「知らねぇ!燃やして、消えた!」
その瞬間、手首が離された。
男は逃げようとして転んだ。
だが次の瞬間、背中に重みが落ちた。
革靴。
男の背中を踏みつけたまま、彼は周囲を見渡した。
「ここで、若いミックスアジアンを見た奴」
静かな声だった。
「答えろ」
誰も動かなかった。
彼は足元を見た。
そして——
踏みつけた。
一度。
二度。
三度。
革靴のヒールが、頭蓋骨を押し潰す。
ゴルファーが抉れた地面を整えるように、無造作に。
男は動かなくなった。
血は流れていない。
だが皮膚の下では、確実に満ちている。
周囲の誰も、声を出さなかった。
*
手のひらの上に、幼稚な物体があった。
注射器。
その中に入った透明な液体に、妹の未来が託されていた。
——いや、違う。
託されているのは、俺だ。
この液体を彼女の体内に注ぐ。
その決断には、あまりにも自分勝手な理由が絡んでいる気がしてならなかった。
今、イヴは眠っている。
昼食のあと、血糖値の上昇に伴う睡魔に、彼女は抗えない。
ただでさえ弱い体。
欠けた骨格。
貧相な体躯。
栄養を摂っても、それをエネルギーとして消費する仕組みが、彼女の体には足りていない。
——このまま、仮死させていいのか?
疑問だった。
彼女、デブリドは言っていた。
代謝を極限まで下げれば、病状悪化を遅らせることができる。
こうも言っていた。
——無害な保証はないし、仮死するということは期間的な死亡を意味している。
イヴには知らないうちに仮死状態に入ってもらう。
警戒されないために、俺が適任。
彼女に残酷な承認を迫るよりは、強制的にことを成したほうがいいのかもしれない。
でも、過去に自身で語った言葉が、喉の奥で引っかかっていた。
いや、行動を司るその脳みその中かもしれない。
『何も知らずに生きるのは、嫌なんだ』
彼女は違うかもしれない。
でも、俺はそうだった。
その行為は、自身の過去の行動原理を、否定することに近かった。
見てくれの体裁で、成し遂げてしまった前科を、ぶった斬ることに似ていた。
「……デブリドには申し訳ないが」
イヴは賢い妹だ。
彼女には、この娘には、全てを話せば自分で一番の納得を作り上げられる筈だった。
そう疑っていなかった。
今この時をもってして、彼女に話そうと決めた。
あとでファーストにも伝えないとな、そう思った。
「イヴ。起きてくれるか」
病床に横たわる彼女の肩を揺らした。
うでで優しく掴み、反発するマットレスに同調するように、軽く揺らした。
「——ん?なに」
『コンコンコンコン』
その時、病室の扉が鳴った。
それは、軽い音ながら、確かに指の骨がドアを叩く音がした。
「……はい、どちら様でしょうか」
イヴは一瞬停止しながらも、寝ぼけ眼を数回の瞬きで切り替えて、よそ行きの声で答えた。
ドアの向こう側から、しっかりとした女声がした。
「警察です。アダム・エデンソンさんが、こちらにいらっしゃると伺いました」
「この間の件で、お話を」
俺は身を縮ませた。
イヴは目を丸くした。ドアの向こう側を見据えている。
——あの事件が、バレたのか?
——犯人が俺だと、解ったのか?
まさか。
冷や汗が、背中を流れ伝い始めた。
ばかな。
ファーストを恨んだ。
「どうぞ」
「え」
俺の気も知らずか、いや知っている筈だが、イヴはそう優しく促した。
「失礼します」
扉の間隙から垣間見え始めたのは——
自動警察の社長だった。
間髪入れず、彼女と目が合う。
「初めまして……では、ないですね。
改めまして自律動作治安維持執行刑事企業、自動警察の代表取締役社長、イチジク・ハヤエダです」
「……初めまして、ではない?」
面食らった気分だった。
彼女は一端の犯罪者を確保しにきた断罪者には似つかわしくない、落ち着いた様子を見せたからだ。
それに、旧知の仲と言いにきたものだ。
「失礼します」
彼女は、俺からイヴに対して視線を流れるように移して微笑むと、そう主張した。
鈍いパンプスの音を立てながら、躙り寄る。
「ダニエル・カラクル氏の一件以来ですね……お忘れでも無理はない、間が空いて申し訳ありません。よく似た案件で立て込んでいたもので」
「……ん?あぁ、あの囚人輸送車の。ということはあの時の警官か……なんで、社長自らあそこにいて、ここにも?」
「前者は私の趣味みたいなものです。後者は会社の失態に伴い、私自身でお話をと思い至りました」
「失態?」
「自動警察の護送車は、襲撃の際にエデンソンさんを収容していた救命救急社の車両と接触しました。これはエデンソンさんの負傷、ならびに記憶障害は我が社の安全管理の不行き届きに起因する——ということです」
「はあ」
「此度は、大変申し訳ありませんでした」
「ええ?」
責任と言っても、全くと言っていいほど実感がないため、バカみたいな相槌を打った。
デブリド——
……。
……彼女の話では自身の記憶障害が、何に由来しているのかはよくわからなかった。
まぁ一流企業が気前よく責任を取ると言うならば、そんな気がしてきた。
その方がいい気がした。
彼女、イチジクは「失礼します」と、近くの椅子を引き寄せて座った。
手提げを膝の上に置き、中の紙を取り出した。
「こちらは、我が社に他する被害届です。お手数ですが、今日から自動警察の支店・窓口にて提出いただければ、金銭的保証をお約束いたします。物理メディアのみ有効のため、ご留意下さい」
「う…うん」
両手で受け取った。
その紙はツルツルとした、半ばゴムのような質感で、防水だか耐刃だかの加工が施されているのにすぐ気づけた。
中には、なんだか畏まった回りくどい文言が羅列されている。
だが、確定保証金額の数だけは、一際目立って見えた。
……多い。
かつての犯行、机の上に放って置かれたままの紙袋の中身よりは少ないが、それが大金なことは分かった。
早めに機会が訪れていれば——話は少し違う方向に進んでいたかもしれない。
未練がましく、八つ当たりのようにそう思った。
「保証にご不安がある際は、最寄りの正義裁判社を訪れてください」
彼女はそう添えた。
「そんなつもりはないが……」
そう告げると、彼女の瞳孔が鋭く広がった気がした。
「……記憶喪失だからかな。貨幣価値の認識にどぼしくて。どう反応するのかわからないんだ」
俺はそう、わざとらしく社会的立場を取り繕った。
「そうでしたか……いやはや、すみません」
「いや別に……な……恐れながら、何用で?はいさよならって感じでも無さそうだけど」
俺は恐れながら聞いた。
彼女は一幕置くと、目色を変えて言った。
「先述の通り、連日の実銃事案は勢いを増してます。そこで我々は、解決の手掛かりを欲しています。
というのも、今は誰が実銃を製造・販売・流通させているのか、わかっていないのが現状でして。
というか、自動警察のマッチポンプを疑われる始末です」
「いや、俺にはわからないぞ?」
ファーストでは?という疑いもよそにしらばぼけた。
「いえ、何か情報が少しでもあれば、お力添えいただけないかと」
「そんなこと言ったって……」
俺は困ってしまって、ふとイヴの方を見た。
彼女は眠気からか、身を起こしたまま目を瞑っていた。
口も若干開いている。
「青果……」
困った挙句、困った回答が漏れ出た。
「セイカ?」
「なんか……禁断の果実がどう……とか。いやなに、気狂の妄言さ」
「……はぁ」
何やら彼女は考え込む仕草をした。
目線を下げ、しばし斜め下をこわばった様子で見つめた。
「では、ダニエル。いえ、我々の部隊と接触する以前の事は?」
「以前……はどうも覚えてないさ」
「左様ですか」
彼女は口元は微笑んだまま、目尻を上げて憐れんだ。
「……でしたら、こちらを」
彼女は徐にペンとメモ帳を取り出すと、素早く書き記して、ページを破り、それを差し出した。
綺麗な筆記体だ。
何かの住所が書いてある。
「そこでは、人間の脳を解析する研究が進んでいます。我が社も一枚噛んでいて、もしも記憶障害を治療したいとお考えでしたら、尋ねて下さい」
「治す?」
「脳を分子単位で読み取り、その形状変化をたどる…‥その変化に起因する外的な過去の経験を予測・再現できるんです。プロトタイプですが」
「なんなんだそれは……」
「現実感は少し欠けますね……ですが、貴方にも我々にも、助けになる筈です」
そう言うと彼女は立ち、「では」と出口に向かって歩き出した。
ふと、彼女はイヴを見た。
「妹さん……以前にもお会いしました。ご病気の様ですね」
「あぁ……」
「どうかお大事に」
イヴではなく俺にそう言うと、彼女は去っていった。
極めて静かな嵐の様に。
俺の心に轍を残して。




