第十二話 『 あなた 』
“Funeral flowers?”
(供花のつもり?)
薄暗い病室の奥で、女が吐き捨てる。
厚手のレースカーテンを透かして、粒子の細かな光が落ちていた。静寂の中でただ光だけが揺れ、その冷たさが部屋の死を強調していた。
“Living flowers, no less. Do you know how expensive those are these days?”
(今時高いのに、生きてる花なんて買って)
憎悪というより、呆れたような声色だった。
その言葉の重みを振り払うように、男は抱えた花束の包みをわざと強く鳴らした。
“That’s my business, ain’t it?”
(オイラの勝手だろう?)
会話を切り捨てるように言うと、男は病床のカーテンへ向かった。
無造作に開かれた隙間から、心電計の音が漏れる。規則正しく刻まれる電子のリズム。モニターには、カラフルな波形が登っては降り、まるでひとつの生命に与えられた最後の踊りのようだった。
ベッドには、顔を何重にも包帯で覆われた患者が横たわっていた。祈りの偶像のようであり、すでに世界から切り離された肉体でもあった。
男は静かに花瓶へ近づき、茎の鋭い束を沈めるように差し入れた。
“Besides… these aren’t alive. They’re already dead.”
(それに……これは生きてない。もう死んでいる)
言葉が花に向けられたものか、病人への弔辞なのかは分からない。
彼はさらに言葉を添える。まるで花束に添える札のように。
“D’you know what the one and only precious thing in this world is?”
(オメェに、この世界で、唯一無二かつ貴いものが何かわかるか?)
“There’s no such thing. Give up.”
(——そんなものは無い。はい、ざんねん)
女の答えは即座だった。
それは否定というより、世界に対する諦観だった。
“Well… you’ll figure it out eventually.”
(まぁ……時期にわかるはずだ)
男はため息とともに言った。
その声音には、諦めとも慰めともつかない、奇妙な温度があった。
女は踵を鳴らし、つま先で床を小さく叩いた。その癖は苛立ちというより、退屈の合図だった。
“Do I need to? All we need is the mission.”
(必要がある?私たちに必要なのは任務だけ)
“But you’ll face the same thing someday.”
(だがオメェもいつの日にか、同じ目に遭う)
“I won’t. I can’t. Because I’m special.”
(遭わないし、会わないよ。私は”特別”だから)
“Plenty of people die thinking that. Does that make them special?”
(この世界でそう思いながら死ぬ奴は多い。それは特別か?)
女は肩をすくめるだけだった。
“I can’t die. Not until I take it back.”
(私は死ねない。奪い返すまで)
“……”
(……)
男は口を閉ざした。
その沈黙は、女の言葉に対する反論ではなく、「言っても意味がない」という悟りに近いものだった。
男は病床に目を戻し、絡まるチューブの束へ視線を落とした。数本のラインが交差し、点滴の液がわずかに震えている。
男はそれらを丁寧に整え、結び目のような部分を優しくほどいた。
“Poor bastard… dying without even knowing the name of the disease or what caused it.”
(こいつぁ、自分の病名も病原も知らずに死んでいく、哀れじゃないか)
“Oh, so you tell them it’s called ‘Doppelgänger’s disease’ and they can die in peace? I’d come back as a vengeful spirit.”
(巷では”ペルゲ病”なんて呼ばれちゃってますよーって?これで往生できる?私なら祟り殺すけどね)
“I ain’t looking for gratitude.”
(別に、感謝されようとは思っちゃいない)
“Makes no sense.”
(意味不明)
会話が途切れると、心電計の電子音が再び、部屋の静寂に浮かび上がるように響いた。
男は短く息をつき、スーツの裾を払った。
“I’m not staying long. Let’s go before someone calls security.”
(長居するつもりもない、警察を呼ばれる前に退散だ)
男が踵を返すと、女も無言でそれに続いた。背中で腕を組み、まるでこの空間の重さから距離を置くような歩き方だった。
そして、病室を出ようとした瞬間——
『ガシャッ』
金属が床を叩く硬質な音がした。
男と女は即座に振り向く。
カーテンの向こうで、別の何かが倒れたような気配がした。
同時に——心電計の波形が消えた。
P波も、QRS波も、T波も姿を消し、ただ一本の無慈悲なラインが、けたたましいビープ音とともに画面を横切っていた。
フラットライン。
ナースコールが自動で作動し、病棟特有のベルが鳴り響く。
“Ugh”
(うるさっ)
女は徐に、両手で長い耳を折り畳んだ。
『ドンッ』
その最中、鈍い落下音。
今度の音は、湿度と重さを伴っていた。落下というより、“脱落”に近い響きだった。
カーテンの足元の隙間から、濃いマゼンタ色の液体がじわりと溢れ出してきた。酸素を多く含んだ、鮮やかすぎる血だ。タイルの細い継ぎ目に沿って、ゆっくりと流れていく。
その流れを追うように、姿を現したもの——
それは、先ほどまで無力に眠っていたはずの患者だった。
ただし、両足がない。
一歩など踏めるはずもなく、両腕を酷使し、這うように前へ。
ガーゼに血が吸われ、摩擦力が失われ、腕は空を掻くように滑っていく。それでも患者は進み続けた。
二人の足元を目指して。
男も女も、ただ黙ってそれを見ていた。驚愕も同情も浮かばない。まるで、既知の惨劇を再生しているだけのような静観だった。
患者はついに、二人の目の前まで辿り着く。
そこで、ゆっくりと、顔を上げた。
包帯が血で緩み、重みに負けて剥がれ落ちる。滑り落ちたその下から現れたのは——
皮膚のない顔。
筋肉の赤と脂の白がむき出しになり、その中心に、ひどく澄んだ瞳が浮かんでいた。
「は”っ”……は”ぁ”ッ!?は”ぁ?」
唇のない口が、かすれた呼気を震わせた。声とも息ともつかない音だった。
男はそれを見ると、強く、静かに瞼を閉じた。
女は、ため息ひとつすら漏らさないまま患者の横を通り過ぎ、倒れた点滴スタンドを拾う。
キャスターの脚をベッドフレームにかけ、チューブの束を手繰り寄せ——それを、患者の首へ回した。
そして力任せに締め上げた。
「カ”ッ”ッ”ッ”!?ガ”ッ!?ゴホ”ッ!」
患者は必死に暴れた。血溜まりがかき乱され、泡立つ。腕が床を叩き、指が折れ、喉が潰れる音が小さく混じる。
やがて、動きは止まった。
女は手を離し、自分のブーツについた血のしずくを、患者の落としたガーゼで淡々と拭った。
男はその光景に耐えかねたように、低く呟いた。
“…And to die without anyone to witness it. How sad.”
(……それに、誰に看取られることも無く死ぬ。悲しいじゃないか)
女は顔を上げずに言った。
“Then you should’ve died in their place.”
(じゃあ、代わりに死ねばよかったのに)
“I can’t do that.”
(出来るわけがない)
男の答えは、事実不可能というより、「拒否」が言葉になったものだった。
“I still have… things I gotta do.”
(オイラにもまだ……やるべきことがある)
*
そして、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「……ペルゲ病は、“非感染性疾患”なの」
「非感染性……そうだろうな」
俺の声は、どこか他人事のように響いた。
「人から人へうつらない、外的要因でない病」
彼女の声は、医師のものだった。
だが——その声色の奥底に、人としての無力感が滲んでいた。
「ただ──”消えていく”。骨が、筋肉が、臓器が。まるで、最初からそこに存在しなかったかのように」
「……それは知っている」
エステルは言葉を継いだ。
「恐らく身体内部の異常や生活習慣・老化などに由来する……」
「そうだな」
「これは癌と同じ」
最後の言葉だけ、不自然なほどにハッキリと耳に入ってきた。
癌。
ただ、それだけの言葉に、何か感知できない力が秘められていたように思えた。
「だから。癌と同じだから、治らない。そう言いたいのか?」
「いえ、今の時代、癌なら治る」
俺はさっきまでの、交渉人のような態度とは裏腹に尻すぼみをした。
というより——言葉が、喉の奥で形を失い始めていた。
「私たち人類は、長い人類史の中で癌という致命的な病を克服した。
だから——必要なの、治療には。
癌と同じだけの歴史、同じだけの犠牲、同じだけの失敗が」
何かが滑り落ちた。
床に、鈍い音が響く。
確認するのも、億劫だった。
——そうだった。
金という概念が、重力に従って落下した音だった。
エステルは俯いたまま、止めなかった。
「病理学的には──イヴは”健康”なの。でも、身体は確実に失われていく」
「じゃあ……じゃあ、何なんだあれは」
言葉が、形を失っていく。
彼女は顔を上げた。
その目には、医師としての冷徹さと、人としての苦悩が混在していた。
「人体には、オベリスクと呼ばれるRNA環状構造体が在中している。これは昔、スタンフォードと呼ばれる大学内で発見された。でも、その正体は不明だった」
深く理解もできず、俺はただ、その言葉を聞いていた。
それは説明というより、告白に近かった。
「私は、イヴの病状にそれが関与している可能性を見つけた。特定の組織が消失する直前、必ず同じRNA群が活性化する。おそらくオベリスクは、宿主のRNA配列——つまり”身体の設計図”を読み取っていて、その中から特定の構造を”維持する必要がない”と判断する」
「……」
「骨芽細胞は分化を停止し、臓器は修復信号を失い、免疫系はそれを”不要物”として処理する。起きているのは細胞死でも、免疫反応でも、線維化でも、瘢痕でもない。ただの——削除だった」
「……つまるところ、何だ?」
俺の声は、かすれていた。
「そして治療ができるようになる段階には、恐らくイヴはもう居ない。これまでの研究でそれが……それだけがわかった」
エステルの言葉は、静かだった。
だが、その静けさは——嵐の後の静寂に似ていた。
「お金では、どうにもならないことがある。アダム」
「おかしいじゃないか……」
俺の声が、割れた。
「ごめんなさい。今の私にできることは、痛みを和らげることと、少しでも長く生きられるようにすることだけ」
俺は、末端から力が抜けていくのを感じた。
壁に背を預け、ゆっくりと座り込む。
視界の端で、紙袋が床に転がっていた。
「アンタは……金でどうにかなるかもしれないって言っていたじゃないか。今じゃ真逆のことを言うのか」
記憶を失う前、過去の自分自身が、何だか哀れに思えた。
あの”アダム”は、希望を持っていたのだろうか。それとも、ただ現実から目を逸らしていただけなのか。
「そうね……酷いことをした。ごめんなさい」
「謝らないでくれよ。そんなの欲しくない」
無言の時が始まった。
始まりかけていた。
俺は始まらないように言葉を発した。
「……だからか?『イヴには俺が必要』なんて言っていたのは。今考えると何だか——悲観的なセリフだ」
「でも、事実よ」
沈黙が降りた。
俺は、床に転がった紙袋を見つめた。
その中には、人の一生分の金が入っている。
だが、それは──イヴの命を繋ぎ止めることはできない。
呟きが、喉の奥から漏れそうになった時、口を閉ざした。そのまま鼻腔で消えた。
「……私は、貴方に伝えるのが怖い」
「真実を、か?」
「そうよ」
エステルの声は、震えていた。
それは医師の声ではなく、ただの——人間の声だった。
「……俺は、何も知らないことの方が怖い。
妹の行く末も、知らぬ間の犯罪の手引きも、
そしてイカれたこの身体のことも」
エステルは何も言わなかった。
ただ、静かに俺の隣に座り続けていた。
留置患者病室の中。
犯罪者たちが横たわるべき病床の手すりに、鋼鉄製の手錠だけが残されている。
それは、俺を見下ろしていた。
──まるで、“罪”という概念が、形を持って存在しているかのように。
そして、時計だけが、無情に時を刻み続けていた。
「……何だか、負けた気がするけど、この際だから言っておく」
エステルが静寂を断ち切った。
徐に白衣の内から、小さな器具を取り出した。
拳銃を抜く仕草に、思わず身を固めた。
それはいつぞやの針打ち式の局所麻酔装置だった。相変わらず、玩具の銃のような見た目で、進化はしていなかった。
「麻酔?」
「見た目は同じ注射器でも、中身が違う——」
エステルは装置を指先でくるりと回すと、持ち手を俺に向けた。
その仕草は、まるで拳銃を差し出すかのようだった。
「中には私が開発した”仮死導入薬”が入ってる。これでイヴを打って」
「はい?」
言葉の意味が、一瞬理解できなかった。
「あと、貴方は無知が怖いみたいだから言っておくけど、貴方は私の恋人」
「……は?」
今の告白は、甘いロマンチックな告白ではなかった。
いや、発言は確かに告白だった。
明確な信頼関係の強制提示。
これはどちらかというと——唐突な爆弾だった。
仮死薬を妹に打つという提案の後には、危険が明瞭に漂っていた。
それは、脅しでも冗談でもなく、ただの——事実の通告だった。
俺は、手に握られた装置を見つめた。
それは冷たく、重く、そして——何かを決定づける重さを持っていた。
「……どういう意味だ」
「そのままの意味。貴方は記憶を失う前、私と恋人だった」
エステルの声は、静かだった。
「そして今、私は貴方に頼んでいる。イヴを——仮死状態にして」
「カシ状態……?」
「誘う、と言った方が正確ね。仮死っていうのは生命活動が極端に低下していて、死んでいるように見えるけど、死んでいない状態。
これは人体に継続的に投与し続けることで、仮死を再現できる薬」
彼女は言葉を継いだ。
「イヴの病状は進行している。でも、代謝を極限まで下げれば、進行速度を遅らせることができる。
もちろん、これは完全な解決ではない。でも——時間は稼げる」
「……」
「糸口が見えてきた。ただし、恐らくイヴが生きている間には間に合わない。だから——待ってもらう。」
それは、狂気だった。
だが同時に、唯一の希望でもあった。
「なぜ、俺に?」
「貴方しかいないから」
エステルは俺を見た。
その目には、医師としての冷徹さと、人としての祈りが混在していた。
「この薬は、開発できたと言っても間に合わせ。100%無害な保証はないし、仮死するということは期間的な死亡を意味している。
だから——彼女には知らないうちに仮死状態に入ってもらう。
警戒されないためには、貴方が適任なの」
「……」
「その注射器を、彼女の静脈か脊髄、脳に注射して。そしたら私が、適切に仮死状態を継続するための処置をする。
場所、わかる?」
俺は、装置を見つめた。
それは、冷たい金属の塊だった。
だが、その中には——妹の未来が、詰まっていた。




