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二.オーバーキル ヒーローズ (下)

 俺一人で江渡坊ちゃんをボコっちまうのは、なんだか悪い気がした。なぜならハッチーだって一(いち)ヒーローだからだ。ヒーローとして犯人を検挙したいはずである。ハッチーのあのやる気の出所は不明だが、お留守番してもらおうだなんて発想は始めっから消去した。それでも殴り合いに参加してもらおうだなんて思っちゃいない。


 この状況下でハッチーにできることは何だ? 犯人を取り押さえるための強力な助っ人として役立ってもらいたい……と、俺は考えているうち、或る答えに思い当たった。確証は持てないけども、ハッチーにも出来ることがあった。いや、ハッチーにしかできないことだ。二日間、一緒に過ごしたなかで知った彼女のお得意芸があった。


 ケータイを開き、時間を見る。予定どおり高校に着きそうだ。予定どおり着かなくても別に俺はよいのだが。俺とハッチーは真っすぐな歩道をいつものように進んでいた。目的地までもうすぐだ。


 足取りは重い。眠いのだから仕方がない。

 俺はつい最近まで、一睡もしなくたって平気な人間だと、自分のことを思っていた。でもそうじゃなかった。そのことに昨日気付いた。人間、寝ないと死ぬ。あと、睡眠時間が短すぎてもたぶん死ぬ。いまの俺が正にその状態である。俺の視界ではいつもより世界が平たく見えていた。確かに現実世界にいて、足を動かしているはずなのに、自分が起きているのか寝ているのか判断がつかない。絵のなかにいるようだった。

 ハッチーはどうだろう。彼女は昨日も今日も俺よりは寝ているが、それでもしっかりとは睡眠をとれていないはずだ。

 ハッチーはぽけーっと前を見ながら規則正しい歩調を刻んでいた。

 我が家を出てからこっち、俺たちはまだ一言も喋っていない。


 ハッチーはどうして俺んちに泊まりに来るんだろう……。そしていつ家に帰る気だ? 俺はまだそのことを考えようとしていた。……しかし、あまり考え過ぎるのも男らしくない。どうせ乙女心なんて分かるものじゃないしな。来る者拒まず去る者追わず、それで行こう。泊まりたいのなら、いくらだって泊まればいいさ。


 朝、六時半。校門は閉まっていた。

 当然ながらひと気もなく、早すぎた。

 おそらく朝錬が一番早く始まる部活は陸上だ。それにあわせて教師が──手嶋もやってくるだろう。うちの高校は陸上強豪校だからな。……とはいえ、いつくるのかも分からない連中を待つのも煩わしい。


「フェンス、行くか」


 俺たちは一昨日も使った潜入ルートに足を運ぶ。


「服はもう着替えたほうがいいと思う?」


 リュックの肩紐を引いてハッチーに見せた。しかしハッチーはそれを拒絶した。


「こんなところじゃ無理だよ。どこか隠れられるところを探そう」


 高校とは反対側に竹やぶがあったので、俺は一瞬、ハッチーをそこへ誘ってみようかと考えた。しかし気が引けた。まむしがいるかもしれないし、竹やぶとか何かエロい。

 学校の裏手へと続く道は塗装に寿命がきており、だいぶ凸凹している。幅も車一台通れるくらいしかない。しかしそんな道のりでも犬をつれて散歩する爺さんとすれ違った。夜の学校とは違い、全くの無人とは言えない状況だった。

 潜入するポイントは道沿いではなく、道路から十メートルほど離れた場所にある。しかし、背の低い草木ばかりの場所だ。四方百メートルほどは警戒が必要だった。俺は道路から外れて草むらに入る前に、あたりを見回し、誰もいないことを確認した。


 フェンスは俺から順に登る。

 今日は制服を着ていたからだ。ハッチーを先に登らせるわけにはいかない。

 俺は靴を脱ぎ、フェンスのむこうにある小屋の屋根へ放り投げてから、フェンスを伝って倉庫の屋根の上に登った。

 平たい屋根の上でほふく姿勢を取り、再びあたりを見回す。

 高校の内外ともに人影は確認できない。


「よし。いいぞ」


 フェンスをしゃらんと鳴らしながら、続いてハッチーが登り始める。

 ハッチーは靴をはいたまま登っていた。俺は靴のサイズ的に網に足がかからないから毎度脱いでいる。うらやましいことだ。


 ハッチーが登ってくるまで周囲を見張る。

 言うなら俺たちの現状はモンキーハンティングを狙われる猿同然だった。夜なんかよりも日中のほうがこわいと感じる唯一の瞬間だ。むかし、野武と空き家に忍び込んだときに味わった感覚に似ている。……と、まあ、あの時は成果が全然なかったが。金目の物をと思ってスプーンを沢山盗んだけど、そんなもんはプライスレスだった。


 フェンスのほうからハッチーの頭が出てきたところで、俺は屋根のはじまで移動して校庭へ飛びおりた。

 校舎のほうを見やると、実習棟が意外と近くに建っていた。

 振り返ると、ハッチーの足が小屋の屋根から垂れ下がっていた。普段ひざ下まで伸ばされていたスカートがめくれ上がっている。肉付きのうすい脚があらわになる。フェンスを先に登った俺だったが、結局見てしまうとは思ってもいなかった……。ハッチーがおりてくるまで、そのチラリズムを眺めていた。


「どうかした?」

「いや、なんでもない。それより、どこで着替える?」

「図書室に行ってみよう」


 俺たちは正面に見えている一昨日潜入に使った窓の下に向かった。

 しかしハシゴはもうなく、靴もなくなっていた。

 どうやって入ろうか。

 暫く実習棟の断崖を見ていたが、ハシゴがなければ話にならないことは分かっていた。


「あのハシゴ、どこにあったんだ?」

「体育館裏だよ」

「体育館っ……。それをここまで運んできたのか?」


 図書室とは正反対のほうに行き、非常階段から実習棟二階に上がって堂々歩いた。

 ハッチーが言う場所にまだハシゴが有るかどうかも分からないのに、わざわざ長距離を歩くなんて気が引ける。


「図書室の窓だったら、俺が開けてやるよ」

「どうやって?」

「ガコガコすんだ」

「ふーん」


 多分いけると思う。窓を上下に動かす、その摩擦で回転式の鍵をまわす方法だ。正式名称を知らないので俺はガコガコと呼んでいる。物音が立つため潜入には向いていない。でも、今回ばかりはあまり静かにする必要はなさそうだ。

 教育棟のほうを見ても、あいにく人影はなく静寂につつまれていた。

 図書室の入り口は当たり前の如く閉まっており、室内だってもぬけの殻。

 もはや周囲を警戒する気さえ湧いてこなかった。


「もうここで着替えようぜ。どうせ誰もいないんだからさ」

「えー……。いいけど」


 ハッチーは顔をしかめている。


「……いやならいやって言ってくれていいんだぜ」


 俺はリュックを置き、入り口のすぐ隣にある窓へ手をかける。なんか可哀相だし、ガコガコしてやんよ……。


 ──と、そのとき物音がした。近くからだった。

 俺たちは頭を低くし、もう一度図書室のなかの様子をうかがう。しかし、さきほどとなんら変化のない薄明んだ空間があるだけだった。物音はたしかに室内から聞こえたように思ったのだが。


「そっち?」


 俺は声を潜め、夜好部の部室のほうを指さした。ふんっと、ハッチーが声にならない返事をよこす。

 まさか夜好部の部室で? マニアックすぎる……!

 俺は一度しゃがみこみリュックの肩紐を掴む。そして頭を窓より低くしていつでも動けるように身構えた。ハッチーを見ると俺を見ながら同じ姿勢をとっていた。

 ハッチーが頷く。その意味は分からない。と、思っているとハッチーは夜好部部室の扉の横へ歩いていった。俺もそれを見習って扉の横に移動する。しかしこれではまるでハッチーを盾にしているようだった。俺は更に移動し、ハッチーとは逆の扉の横へと、展開した。


 動かないでいると、夜好部部室のなかから足音がした。

 こつり、こつりと、近付いてくる。


 ハッチーはあわててリュックを開けると、なかからヘルメットを取りだした。

 それを目元深くまでかぶり、手をグーに握って構える。

 そうだ。姿を隠さなければ……!

 リュックをまさぐる。急げ、急げ……。ごつごつした感触がして、それをリュックのなかから引き抜いた。こい、ヘルメット──しかし、出てきた物はプロテクターだった。

 もう時間がない。俺は頭をゴムの輪に突っ込んだ。幸いにもひざ用の物だったからギリギリ入ったが、千切れそうなほど軋む。

 ハッチーが目をまるくして俺を見ていた。

 に、にんげん、いざとなったら何でもするのさ、たとえ意味がなくたって……──!


 俺が心中言いわけを唱えていると、ついに扉が動いた。夜好部の扉は図書室とは違い片開きのドアだ。ゆっくり開いていき、ハッチーのすがたを消していく。代わりに何者かの片腕が現れた。

 太くはないが血筋のはった男らしい腕だ。それがドアノブをつかんでいた。

 俺の冴え切った勘が、江渡だ! と叫ぶ。

 俺はりきんでいるようでりきんでいない状態の気持ち悪い全身に渾身の力を込めるよう命令じる。

 身の毛がよだち、いまにも脚力を失ってしまいそうだ。


『──フルボッコにしてやりなさい。殺さない程度にね』


 頭のなかで再生される竹川の声。そう、俺は打ちのめさなければならない。

 腰を浮かせた。

 男がひょこり顔をのぞかせる。

 ──いまだ。

 俺は跳躍した。


「とぅ!」


 そしてフェイント交じりに体をうねらせ、勢いづいた右足を男の顔に打ちこむ。

 目から写る光景がスローモーションのように動きを鈍らせた。男は振りむいて灰色の虹彩で俺を捉える。茶髪オールバックで普通体型。メガネはかけていない……?

 すでに脳からのインプットを受け終えた神経が男の顔面に容赦ないハイキックを見舞った。


「ヒメッ────……!」


 妙な叫び声をあげながら男は吹っ飛び、部室のなかへと消え去る。

 力点を失った扉が閉まっていくと、目前にヘルメットをかぶったハッチーの姿が再び現れた。


「やったね」


 ハッチーはそう言って気合の入った顔でガッツポーズを決める。

 紙鉄砲のような音と、無事な姿で現れた俺を見れば、勝敗は明白だったから、ハッチーは嬉々としていた。

 しかしこっちは喜べない。俺は立ち上がり、夜好部部室の扉を開いた。


 部屋のなかにいたのは──やはり幌だった。

 幌は瞬殺スプレーを浴びた五秒後のゴキブリみたく天上を仰ぎ倒れていた。


「すみません!」

「く……くそ……がき。なにしてる、そんな……頭で」


 幌は顔を上げ、歪んだ鋭い目線で俺をねめつけてから弱々しく声を漏らす。

 その声を聞いたハッチーがわきから顔を覗かせ、幌を発見した。

 腹痛を起こした友人を気遣う程度の軽さでハッチーが訊ねる。


「その声……、ホロ君だったんだ。大丈夫?」

「ユウリ……。ああ、俺なら……だいじょぶだ」

「ほんとう?」

「……」


 幌は頭をフローリングにつけて目をつむる。その雰囲気を嗅ぎ取ったハッチーが駆け寄った。


「ホロ君、しっかりして」


 ハッチーは幌の頭を抱き上げ、膝枕した。

 幌はハッチーの膝の上で気持ち良さそうに目をつむっている。


「けっこう効いたみたいだな。すまん」

「うるせえ……。お前は……やっぱ……クズだ……」


 幌の減らず口に鼻血が伝ってゆく。

 そして動かなくなった。


「ホロ君。しっかり」


 ハッチーが幌を揺するも返事はない。まるで最後を看取られるヒーローみたいな、同情を誘う姿がそこに残った。

 ハッチーは幌をやさしく抱きしめて、静かに床へ寝かしつける。

 俺はその様子をじっと傍観しているだけだった。


「気を失っただけみたい……。息はあるよ」

「よかったぜ。それにしても…………」

「なに?」

「幌ってハッチーの……ハッチーが好きな人なんだよな。蹴っちまってすまない」

「ち、ちがうよ!」

 珍しくハッチーがあわてた風な声を上げた。

「ホロ君はただの幼馴染で……。好きだったのは、むかしの話だよ……!」

「そっか」

「うん。いまは違うからね。ボクは別に恋なんてしていない」


 ハッチーは自分に言い聞かせるかのように言う。

 俺は気をとりなおして話題を着替えの話しに戻すことにした。誰からも視線を受けない場所を見つけたのである。幌が眠っているうちに着替えたほうがいい。プロテクターを脱ぎ、リュックをフローリングに置く。

 なぜこんな時間に幌がいるのか、という疑問は後回しだ。


「さて、着替えようぜ。ちょうどいい部屋が見付かったことだし、な」

「うん……」

「こいつが目覚めるまで待ってたら、江渡坊ちゃんを取り逃がすかもしれないぜ」

「そうだね。ボクはいったん部屋を出るから、ヒメシ君が先に着替えてね」

「おう」


  ◇◇◇


 先に着替えを済ませた俺は、ハッチーと交代で部屋を出た。


 黒いスモークがかかったゴーグルごしに太陽を見詰める。まだ七時にもなっていないのに、昼間みたく明るい。

 しかし、教育棟のほうを見やっても、あいかわらず人影はない。静かなものだ。グラウンドのほうも同様だし、駐車場にも車は見当たらなかった。


 ハッチーが着替えを終えて出てくるころには時刻はもう七時を回っていた。

 髄分時間を掛けたようだが、部屋で眠っている幌に何かしていたんじゃないだろうな……、なんて、邪推はやめよう。

 俺たちはお互いの格好を確かめ合った。

 ど派手な迷彩に身をくるまれ、ヘルメットやベスト、各所のプロテクター、グローブ、ブーツと、どれも黒い装備ばかりだった。配色のおかげか不思議と輪郭をつかみづらい。そして、顔にはゴーグルとマスクがある。ぱっと見、もはや誰だか分からない。屈強な特殊部隊員っぽい。


「けっこうかっこいいじゃん。似合ってるぞ」

「そう? ヒメシ君も超かっこいいよ」

「まじか。よし、じゃあ行くか!」

「おーう」


 多少棒読み気味に言ってハッチーは天に手を突き立てた。

 ──まずは見た目から、って言葉の意味がいまならよく分かる。気付けば俺も胸まで両手を持ち上げて握りこぶしを作っていた。自分がこんな気持ちになるなんて思ってもみなかった。


 そして最後に幌の様子をちらっと覗いてから俺たちはその場を去った。

 ──いつもの鋭い眼光は、そこにない。女子からちやほやされてそうな、でもどこか哀愁ただよう表情の青年が眠っていた。こいつはもしかしたら本気でこの高校の生徒のために、風紀を守るために、必死で働いているのかもしれない。

 幌の寝顔が俺にそう思わせた。


  ◇◇◇


 実習棟と教育棟に挟まれた場所に到着した。生徒用の玄関である。

 多少は物音を立てても問題なさそうだと、今朝ハッチーと話し合って決めていた。

 教育棟にはたくさんの連なる窓があったが外から見ると小高い位置についており、手が届かない。玄関の窓だけは腰より上の位置にある。ちなみに玄関の上には実習棟と教育棟を結ぶテラスが通っているが教育棟側に施錠されたガラス戸があり、入ることができない。

 ハッチーの魔法みたいな開錠術もここでは通用しない。あれは準備が必要らしいのだ。


 がこがこがこ……。

 連続的で無機質な騒音があたりに響く。そして、玄関横の小さな窓を俺の裏技で開錠した。


「玄関開けてくるから、待っとけ」

「うん。ありがとう」


 お互いマスクを経由した、にごった声だった。


 さて、この後、俺たちは教育棟三階に上がり、作戦行動を終えてから、そのまま三年一組の教室からテラスに出た。

 時刻は八時ちょい過ぎだった。

 テラスからは職員室が見え、すでに蛍光灯がついていたことを知った。


 俺たちは江渡坊ちゃんがAV撮影に三階を用いるだろうと考え、待ち伏せしている。

 このテラスからは職員棟から延びた二階の渡り廊下がよく見える。江渡坊ちゃんは職員棟の玄関から渡り廊下を使って教育棟三階までやってくるはずだから、ずっと見張っていれば、いずれは検挙できるだろうという浅知恵の作戦だった。


「ボクたち間違っていないよね?」


 そんなこと分かるわけがない。

 ハッチーはしきりに不安がっていた。この待ち伏せは二人で考えた作戦だ。別に間違えたってハッチーの責任ではない。


「ああ、絶対くる。休日の三階は無人だろうし、一番目立たない場所だからな」

「もし三階に来なかったら?」

「そんときは俺がダッシュで行ってやっつけてくるよ」

「でも女子もいるはずだから……。ヒメシ君は女子には手をあげないんだよね」

「おう。まあ、女子は脅迫すりゃいいんだよ、これで」


 サバイバルベストのポケットから細長の機器を取りだす。ボイスレコーダーだ。


「そうだね。じゃ、その役目はボクがやろうかな」


 はたしてハッチーにそんなことができるのか。微妙だ。


 それにしても、日射病だか熱中症になっちまいそうだ。

 いまの俺たちの格好はどう考えても厚着。しかし脱ぐのも億劫。即応性を考えるとサバイバルベストは外せない。腕まくりするのも江渡坊ちゃんに俺の正体についてどれくらいヒントを与えてしまうか分からない。いつだれが見ているかも分からないからヘルメットもゴーグルもマスクだって付けっぱなしだった。

 心配し過ぎかもしれないが。


「……のど乾いたな」

「ボクも。クールな緑茶を一気飲みしたい」

「そういうこと言わないでくれ。欲しくなるだろ」


 一時間ほど三年の教室を動き回っていた俺たちの喉はからからだった……が、江渡の奴がいつやってくるか分からない。ってか、このまま夕方まで待たされたりしたら、まじでたまんねえ。


「買いに行ってこようか?」


 小悪魔がささやく。

 一階まで降りれば階段のすぐ裏手にチューパックの自販機がある。


「いや、俺がダッシュで買ってくるよ。もし江渡坊ちゃんが現れたら連絡してくれ」

「え、ボクには見えないんだけど」

「あっ、そうだった」

「もー。覚えててよ」

「悪かった。じゃあ、もう少し待ってみよう。それで来なかったら一緒に買いに行こう」

「もう少しって、何分のこと?」


 なっ……そんな細かいことはどうでもいい。とりあえず切りのいい時間まで待ちたい。俺はそういう主義だ。

 ハッチーに対して苛立ちを感じたのはこれで二回目だった。

 理由は分からないがハッチーも苛々しているようだった。


「もう少しは、もう少しだろ」

「よく分からないよ……。十分くらい?」

「いや、一時間だ。九時まで待ってみよう」

「ふーん。いつ行っても同じだと思うけどなあ」

「げん担ぎみたいなものだ。それにハッチーは早い時間帯のほうが高確率だと思ってんじゃなかったか?」

「ボクはそんなこと一度も言ってないよ」

「そうだったかー?」

「ヒメシ君でしょ、そう言ってたのは」


 くそっ。何でこんなことでぐだぐだ言われなきゃならないんだ。まだ文句は言い足りないし、多分彼女もそうだ。しかしこれ以上言うと、虚を突くような酷いことを言いかねない。ハッチーを傷つけるのは全く持って本望じゃない。

 俺は悔しさをこらえて言った言わないの言い合いから手を引くことにした。


「……そうだったかもな。すまん」

「え……? そうだよ、もー」

「分かった。ジュース、買いに行こう」


 本音を言うと、江渡のことなんざどうでもいい。ジュースを買い、三階のテラスに戻ってきた俺は密かにそう思った。

 それでも真剣になって江渡を追う理由はハッチーがいるからだった。たぶん俺はハッチーがいる限り新聞部を辞めない。新聞部の正体を知ってしまい、任務を実体験し、とんだ苦行だと分かったからには尚更だった。俺が辞めたらハッチーは一人になってしまう。腹を立てている場合なんかじゃないんだ。


 俺たちは無言になって江渡を待ち続けた。

 どのくらい時間がたっただろう。渡り廊下を眺めつづけていた俺の視力が○・一くらいは良くなったんじゃないかと思えるくらい時間がたってから、窓越しに人影が通過したのを目撃した。


「お、おい、来たぞ!」

「えっ……!」


 へたり込んでいたハッチーが立ち上がる。


「ハッチーはここに隠れていてくれ。江渡が動いたら連絡する」

「うん。気をつけてね」

「おう!」


 三年一組の教室に入ってから引き戸の鍵を閉める。

 これでハッチーはテラスに監禁された状態になった。


 履いているブーツが思いのほか大きな音を立てる。俺はなるべく足音をたてないよう忍び足で廊下に出ると、階段のほうへ進んだ。


「しー……。静かに。足音立てないで」


 わりと近くから、控えめな声が響いてきた。

 ばらばらだったいくつかの足音が規則正しくなったような気がする。……もう階段まで来たようだ。

 俺は相手の目の端に写っただけで見つかってしまうような派手な格好をしている。急がなければ確実に見つかってしまう。だが、こちらの足音に気付かれるわけにもいかない。

 本来なら俺は屋上へと続く階段を登り、その中腹で待ち伏せする手はずだったのに、江渡たちが三階手前の踊り場まで来たとき、俺はまだ登り階段の一段目にいた。


 ダメだ──間に合わない……。江渡たちの歩速のほうがずっと早い。

 作戦開始からわずか数秒にして俺はあきらめかけた。

 平衡感覚を失ったように体がふらつき、思わず手をつく。グリップの効いたグローブがきしむ。

 そうか……!

 逆立ちなら大した音は立たない……って、そんなの馬鹿馬鹿しい。馬鹿だっ俺は。

 しかし瞬時の決断で──こうなったら一か八かだ──と、俺は開き直っていた。

 逆立ちで登ってやる!

 三段先に両手を置き、床を蹴った。足が宙に浮く。

 若干勢いが足りておらず元の位置に戻りそうになり、それを指圧で制御する。自分でも信じられないくらいの力だった。完全に制御範囲外の潜在的筋力で動いていた。

 同時に気分が高揚した。いますぐ逆立ちをやめて、江渡をぼっこぼこにしてやりたいくらい暴力への飢えを感じる。まじでぶん殴ってこようか。手足の一、二本を折ってやらないと気が済みそうにない。後遺症が残るくらいに鼻を踏み潰してやりたい。

 ──しかしハッチーのことが頭に浮かび、感情にシャッターが降りてゆく。

 江渡を検挙するのはハッチーに無事任務をやり遂げて欲しいからだ。

 勝手な行動が失敗に導いてしまう。

 そう思うと、急に冷静になって体から力が抜けていった。ゆっくりと足をおろし、そのままうつ伏せになる。すでに屋上手前の踊り場まで階段を登ってきていた。


 俺がしゃがみ込むと同時、江渡たちが三界の廊下まで辿り着く。

 こいつらがどこの教室に向かうのか、側耳を立てておくのが最初の仕事である。

 足音は階段を上がって右の方角へと、去っていく。予想とは逆だった。

 しかし準備に抜かりはない。大丈夫だ。

 携帯を取りだし、手はずどおりハッチーにメールを送る。


『ターゲット右折、二組か一組へ。移動するぞ』


 返信を待つ間にゆっくりと階段をくだり、壁に身を寄せた。

 廊下のほうにはまだ顔を出さないほうがよさそうだった。江渡たちの足音だけに耳を傾ける。足音は続き、どうやら一番端の一組まで向かうようだ。

 ハッチーからの返信がまだ着ていなかった。それでも俺は続報を準備した。


『一組の教室だ。移動せよ』


 と、文字を打ち込んでいたら江渡たちが教室の扉を開ける音がした。

 俺はメールの最後に追伸を書いてからメール送信した。


『一組の教室だ。移動せよ。……あと、返信求む』


 いよいよ本番が始まろうとしているのだ。不安だった。


  ◇◇◇


 三年一組の教室に近付くと、話し声が聞こえてきた。女は二人……。


「お金はちゃんと払ってくれるの?」


 そして女の質問に答える、江渡と思しき人物の声がした。


「もちろんだよ。あなたたちの話は通してあるからっ!」

「いつ?」

「そうよ、いつなの」

「撮影が終わってからだよう」

「だから、それがいつの話だって、あたしは聞いてんの」

「んーん、夏休み前には払えるはずよ。だからねっ、早く始めよ」

「はやくしろよなー」

「ちゃんと七万だぞ、な・な・ま・ん!」

「分かってるわよ。安心しなさい」


 中途半端な金額だな……と、教室の後ろ側の扉の前まで移動した俺は思った。いや、そんなことはどうでもよくて、それより驚いたことがある。江渡がおねえ口調だったことだ。

 あの綺麗なジャガイモ頭がまさかおねえ系……?


 江渡と女子二人は教室の前のほうへと移動する。

 江渡の手にはビデオカメラが握られている。

 おっぱじまるようだ。

 ハッチーからの返信はまだこない。

 もしかして、さっきのことで怒って帰っちゃった? 俺ほったらかしにされてる? 女ってのは怖い生き物だから……そういうことも本当に有り得る。


「ほんじゃ、行くわよ。はぁーい……アクション! ……きゃっ。やめてくだつぁい」

「おらおら。きめーんだよ、お前よお!」

「ねえ、ジュース奢ってよ?」

「も、もってないわよお、そんなお金ぇえ……!」


 肌があわ立っち、背筋を嫌な汗が伝った。……そういうシチュエーション!? どうやら江渡は俺や野武樹海なんかの考えることとは全く違う、異次元の思考回路の持ち主だったらしい。

 もういい、突撃だ。江渡のAV撮影を辞めさせよう。

 教室の扉を静かに引き、俺は立ち上がった。

 なるべくヒーローっぽく取り繕うために、腕を組み、入り口の柱にもたれかけて、左足から体重を抜いて角度を作る。そして最高のキメ笑顔を教室の中へと投げかけた。マスクにゴーグルが顔を覆っているから、もちろん相手には見えないが、こういうのは雰囲気だ……。


 江渡と女子二人は教室の前のほうにいて、ビデオカメラに夢中だった。

 危険なカラーリングの俺に、最初に気付いてくれたのは女子二人だった。

 つづいて江渡が振り返る。江渡が「ひっ」と小さく悲鳴を上げる。


「なにあいつ! いつからいた!?」

「気色わるぅー! 変態じゃないの!」

「先生呼んでこようよ」


 さんざんな言われようだった。ちっとも正義のヒーローには見えなかったらしい。


「黙れ!」


 悔しい……。俺は空元気を振り絞って一喝してやった。


「貴様ら……──いや、江渡羽作雄。貴様はいま何をやっていた。言ってみろ」

「なによ、あんたっ。なんで名前知ってんのよ! ケーサツに通報するわよ」

「こっちのセリフだ、江渡羽作雄。貴様はいまAV撮影をやっていた。そうだろう?」

「だからなんで知っているのよ! もう、ばかばか! あんたみたいな怖い男はキライよ!」

「うるさいやつだ……!」


 俺は江渡のみぞおちに一発ぶち込んでやろうと思い、近付いた。

 女子二人は現実を受け止め切れないかのように完全に静止しており、江渡だけがオーバーなリアクションを取っている。


「ひゃっ……」


 しかし、射程まであと一歩、というところで足が止まった。

 江渡の悲鳴を聞いたためだった。

 はたしてこいつを殴ってよいのだろうか。深層心理が迷っている。俺は女を殴らない。江渡は女か男か。性別違和は二十人に一人はそういった気(け)が多少なりともあるらしい。普遍的存在であることを俺は知っている。……つまり、殴ることを躊躇ってしまうのは江渡を女だと認識したからかもしれない。

 こうなったら、ボイスレコーダーを使おう。こいつら──女子三人ともまとめて脅迫で押し通してやる。作戦変更だ。

 ベストの胸ポケットからボイスレコーダを取り出して掲げた。


「見ろ。この会話、お前らの声、全て録音してあるぞ。大人しくAV撮影は辞めろ。辞めたほうが身のためだ」


 江渡は一歩後ずさりして、わなわな震えだした。


「言いたいことはそれだけだ。そして二度とやらないことだ。この高校の全校生徒、ならびに教師面々知られたくなかったらな……。おい! そっちの二人も聞いてんのか!?」


 女子はびくりとした。

 しかし戦々恐々としている女子は一人だけだった。

 もう一人はボイスレコーダーをじっと見詰めていた。もう少し脅してやった方がいいだろうかと、そう考えていると、その女子が指差して言う。


「それ……、それと同じ物を父さんが持ってるんだけど。電源……入ってないでしょ」

「は!?」


 ボイスレコーダの小さな液晶画面を覗き込む。

 ……いや、見なくとも指摘された時点で気付いていた。

 画面は薄灰色の一色だった。

 階段からこの教室に至るまでの間、俺は緊張しており完全にボイスレコーダーの存在を忘れていた。江渡をぶん殴ることしか考えていなかった。

 それでお終いだと思ったのに……。


「ふっ……ふふふっ。あんたが何者か知らないけどっ、証拠は取れなかったようねっ!」


 江渡が息を吹き返す。


「このばかっ! しねくされ!」


 そう言って江渡は椅子を持ち上げて振りかざした。


「……っち」


 渾身の一撃だった。

 俺は横にかわして江渡の顔を殴らんと構える。

 江渡は目をひん剥いて俺を凝視するも、椅子を空振りした反動で体が言うことをきかない状況だった。しかし殴るものか。江渡の足をはらう。すると、江渡はバランスを崩し、前のめりになって膝から床へ崩れ落ちた。


「っ……! いたい」


 俺はなるべく無機質な感情のふりをして、低い声で江渡に言い渡す。


「もう、いいや。……お前、殺す」


 床に座り込んでいる江渡の顔を見下ろしながら、近付いていき、目の前で足を大きくふりかぶる。

 はったりだが、江渡を恐怖のどん底に突き落とすには十分だった。


「いや……いやよ、やめて! わたしが悪かったっ!」


 俺は足を下ろし、江渡の目の高さまでしゃがんだ。


「本当だな? いま言ったことが嘘だったとしたら、その日の内に始末するぞ。お・れ・た・ちには全てお見通しだからな」

「はいぃいっ! いっ……?」


 と、江渡が俺の頭上を仰ぎ見た。……くそっ、まじかよ!

 背後を振り返らなくても、江渡の反応を見ていたら、これから何が起こるのかが分かる。

 俺はあわてて歯を食いしばっ……────一瞬のフラッシュアウト。

 ばしゅんと、頭上でなにかが音を立て、次の瞬間には俺の視界が床に移った。

 緊急地震速報のバイブレーションみたいな悲鳴が漏れる。……俺のだ。

 床の木目が気持ち悪くうねる。いや、目が回っていた。


 ふらつく足を誤魔化すようにむりやり立ちあがり、回れ右する。すると、女子二人がそれぞれ椅子を持っていた。俺に対し、もう一撃加えようと一人が椅子を高々持ちあげる。俺は後ろへ飛びながら、椅子のタイミングを見て蹴りを放つ。

 あるじを失った椅子が派手な音を立てて床に転がった。

 すねが痛い。プロテクターがなかったら折れていた。

 体勢を立て直し、もう一人の女子を見やる。そいつはすっかり怖気づき、もう一人の女子とくっ付いて後退していく。江渡ひとりだけが取り残されて、がちがち震えていた。

 手が空いたほうの女子が再び椅子を掴む。……椅子がなくなるまでやろうってのか。こっちは手を出せなくて苦しい状況だってのに。

 体力もそんなに持ちそうにない。まさか負ける? そんな思いが浮かんだ、その時だった。

 いつからそこにいたのだろう。窓の外──テラスに何者かが立っており、俺たちを見ていた。

 俺に釣られて女子二人もテラスのほうを見た。


 突然──扉を金属バットでぶん殴ったような音がした。

 三階全体に響き渡るような一発の轟音。

 同時に鍵が開く。

 鍵は誰の力も必要とせず勝手にまわった。俺や江渡、女子二人もその瞬間を見ていた。

 そして扉をゆっくり開いていくと、一歩ずつ教室へ足を踏み入れてくる。


「ごきげんよう悪党諸君。首根っこを引きちぎられたくなかったら、おとなしく」


 いやに棒読みな女の声。

 しかしその喋り方が逆効果的に存在の異様さをかきたてている。

 教室に入ってきた何者かが手の平をかざすと、女子二人は椅子を置きホールドアップした────。


  ◇◇◇


 夜好部の部室に戻ると、幌が起きており、書類をまとめているところだった。

 時刻は九時十五分。

 江渡をしめた後、今日一日が終わったような気分でいたが、まだ朝だ。


「けっ……、お前たちか。ヒメシ君、オレにも一発殴らせろよ」

「すみませんでした」

「あん? 謝れば済むと思ってんのか……ガキが。この借りはかならず返すからな」

「すんません。……ていうか、朝っぱらから何をしていたんだ?」

「朝っぱらから仕事をしていたオレが悪い、みたいな言い方だな」


 幌はこの日、結局なにをしていたのか口を割らなかった。

 しかし最後に、あとで二人っきりのときに話そうと言ってきた。気持ち悪い奴だ。


 幌からリュックを受け取った後、図書室を覗くと、竹川と秋先輩がもう来ていた。

 俺たちはまず仕事の結果を報告した。

 ボイスレコーダーのほうはハッチーがあのあと江渡から聞き出していたから万全だった。


「竹川さんが夜の任務って言っていたのは、間違いでした。これは今朝の仕事内容です」

「そう。よくやったわね。新米にしては上出来よ」

「ありがとうございます」

「超能力者作戦か。よく成功させたな。奇跡だぜ」


 秋先輩からも賞賛の声があがる。なんだか照れくさい。


「ハッチーのお陰ですよ。絶妙のタイミングでしたからね」

「ほーう。じゃ、ハッチーにはヒーローの素質があるんだろうな」

「そんな……。ボクはヒメシ君に言われたとおりにやっただけだよ」

「姫篠はどうだったんだ?」

「かっこよかった。飛んできた椅子をぼーんって蹴ったりね」

「あれ? そういえば、ヒメシ、自転車を買いにいくんじゃなかったの?」

「……日を改めます」

「どうして?」

「んー、なんとなく」

「あっ。今日ヒメシとハッチー、一緒に行動してたのよね? まさか、なにかあったの?」

「朝から張り込みしようって話になっただけです。新聞部愛ですよ……!」


 誤魔化してから、卓上に置かれていたハートパイをかじる。


 初任務は成功した。我ながらけっこう上手くできたと思う。

 この調子で竹川や幌から振られた仕事をこなしていけば新聞部に居続けることができるかもしれない。

 新聞部に居れさえすれば、若干ながら俺にだって生きる資格が残されているような気がする。

 陸上部送りなんか、されてたまるか。


 あとは、ハッチーのストーカー被害をどうするかだけだ。


 しかし、その前に克服しておくべき重要な事柄が俺にもある。ハッチーと仲が深まるほど深刻へなっていく事柄が……。




. . .


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