第四十七話 ネメスとオルテス
1
「カルミスよ。やはりまだ、うまく操れぬか?」
エスタの西のはずれの小高い丘の上で、レノンが苦々しげに呟いた。
「はっ……申し訳ございません……奴め、なかなか言うことを聞きませぬ」
虚空に揺らめくカルミスが、申し訳なさげに返答をした。
「そうか……すでにレイダム軍は壊滅寸前のようだ。ここはぜひ我が軍に被害が及ぶ前に奴を回収したいところだが……」
「はっ……しばしお待ちを……」
「うむ、頼むぞ」
「はっ……」
言うやカルミスは虚空に消え失せた。
「はてさて、ゴルコスやシュナイダーめらはどうなることやら……」
頭蓋骨の上に皮をかぶせただけと思わせるほど痩せこけたレノンの顔には、嘲りの深い皺が幾本も色濃く刻まれていた。
2
「なあ、ゴルコスの野郎、俺たちを中央に集めて一体どうしようってんだろう?」
悠久なるアルターテ川が分岐して作られた三角洲エスタを現在占領しているローエングリン教皇国。
その第七軍団に所属する一般兵ネメスは、いつもとは違ってとても不安げに同僚のオルテスに言った。
ネメスは先週二十歳になったばかりの若者で、常日頃威勢のいいことばかりを言っていた。
だがそれは生来の臆病さを覆い隠すための仮面であり、いわばポーズに過ぎなかった。
だからいつも強気の発言を繰り返しては、後になって一人後悔するはめとなるのもまた、ネメスの常の姿であった。
そんなネメスが今、仮面を脱ぎ捨て生来の臆病さを同僚のオルテスに対して無防備にさらけ出していた。
対するオルテスは今年三十歳になる。
ネメスとは十も歳が離れているが、なぜか出会った当初から大変に馬が合った。
別段考え方が似通っているという訳でもなかった。
いや、それどころか正反対と言ってよかった。
だがそれが返って良かったのかも知れない。
考え方の相違が議論を生み、白熱して討論となり、そしてお定まりの友情が芽生えた。
結果、彼らはいつの間にか毎日のように夜通し語り合う親友と呼べる間柄となっていた。
だからオルテスにはネメスが本当は臆病なことがよく判っていた。
十も歳が上なのだ、手に取るように判っていた。
だから今、ネメスが突然仮面を脱ぎ捨て、生来の臆病さを表に出してもそのことに驚いたりはしなかった。
それよりも驚くべきは彼らの目の前で繰り広げられている光景のほうだった。
彼らの視線の先、悠久なるアルターテの対岸では今、途轍もなく巨大な化け物が暴れ狂っており、偽りの仮面などかぶっている場合ではなかった。
ゆえにネメスの反応は至極当然なものだとオルテスには思えたのだった。
「判らん。俺にはゴルコスの考えなど判らんよ。だが、嫌な予感しかしないな」
オルテスは仏頂面でそう言った。
「オルテス、お前もか。実は俺もなんだ……」
ネメスは対岸の惨状を見つつ、震えながらオルテスに同意した。
「そうか、お前と意見が合うなんて珍しいな」
「ああ、そうだな……でもこんな状況だったら良い予感なんてするわけねえよ。というかゴルコス軍に組み込まれてからってもの、いつも嫌な予感しかしたことねえけどな」
ネメスの自嘲にオルテスは乾いた笑いで応えて言った。
「ちげえねえ。お前の言うとおりだ。思い起こせば俺たちはいつだって不運だった。そもそもあの変態ゴルコスの配下にされたのが最大の不運だった。奴は現教皇の息子ってだけで、何の才能も実力もないにもかかわらず枢機卿になっちまったという奴だ。周りに甘やかされて勘違いし、生来のサディストの気質があの醜い体型のように極端に肥大化しちまったような野郎だ。奴の思いつきの”訓練”とやらで、一体今までどれくらいの人間が惨めに死んでいったか。そして奴がそれを見て何度腹を抱えて笑っているのを見たことか。俺たち第七軍団の者は皆、奴をのぞいて不運だった。そうだろう?」
「ああ。何度あのガマガエルを殺してやろうと思ったことか。もっともその度にお前の弟に窘められちまったけどな」
「コリンか。あいつは本当に生真面目な奴だからな。どんな非道い奴であれ上官である以上、絶対服従は当然だって思ってやがる。もちろん普通なら確かにその通りだ。軍においては上官は絶対だ。いちいち部下が上官に逆らったりしていたら軍はなりたたない。指揮系統の乱れは軍においては致命的だからな。だがゴルコスの奴は普通じゃない。奴は完全な異常者だ。いくら上官だからといって忠誠を誓うべき相手じゃない。それなのに……あいつは若すぎるんだ。まあまだ二十歳になったばかりの若造だしな」
「おい、ちょっと待て。二十歳はもう立派な大人だぜ」
「ん?ああそうか、お前はコリンと同い年だったな」
オルテスは苦笑交じりに言った。
「おう。俺とコリンは当年とって二十歳だ。もう一人前の大人だぜ。しかもコリンは俺と違ってしっかり者だ。子ども扱いしていい奴じゃない。まあ確かに真面目すぎるところはあるが、いつだって一所懸命だ。あいつは暇さえあれば勉強か剣の稽古をしているんだぜ?その成果もあって二十歳の若さで親衛隊に大抜擢だ。実際すげえ奴だぜ。オルテス、お前だっていつも自慢の弟だって鼻高々じゃねえか」
「まあな、たしかに自慢の弟ではあるよ。ただ生真面目すぎるところが、兄としてはちょっと心配なだけさ」
そう言うとオルテスは、弟のコリンの行く末を思い頭を垂れ、一つ深い溜息を吐いた。
するとその時、突如対岸を見やっていたローエングリン軍全軍が一斉にどよめいた。
オルテスが驚き、顔を上げて対岸を見ると、レイダム軍を蹂躙していたあの恐るべき怪鳥がその巨体を優雅に翻し、ローエングリン軍目がけて突進しようとしていた。
「やばいよオルテス!こっちへ来る!」
ネメスが震える声でオルテスに告げた。
「なんてこった!どうすりゃいいんだ!」
するとオルテスたちの後背に一条の白い煙が立ち昇った。
その瞬間、ローエングリン軍の至る所で、各部隊の部隊長たちがあらん限りの大音声で命令を発した。
「全軍散開!逃げろー!」
オルテスたちはその声を聞き終えるよりも前に反射的に振り返り、脱兎のごとく逃げ出した。
そしてその他の者たちも誰一人その場にとどまることなく皆一目散に駆け出し、せまいエスタは大混雑となった。
我先にと五千人がエスタの西に向けて殺到したのだ。混乱するのは当然であった。そしてさらに彼らの混乱を助長するものがあった。
アルターテ川である。
エスタは三角洲である。ゆえにその四方はすべて川に囲まれていた。
それが彼らを狂乱に陥れた。
そしてそれはオルテスたちも同様だった。
「どうする!川が!川があるぞ!」
ネメスは恐怖と戦いながら、必死に声を絞り出した。
「飛び込むしかない!鎧兜を脱いで出来るだけ軽くするんだ!」
そう言ったオルテスの考えは彼の独創ではなかった。
皆が皆同じことを考えていたのだ。
五千人が一斉に恐怖に手を震わせながら鎧兜を脱ぎ捨て必死に走った。
つまりは突如としてたくさんの鎧兜が地面に置かれたわけである。
当然それに蹴躓いて転ぶ者が多発した。
そしてネメスもまた、その内の一人であった。
ネメスは突如として現れた、彼の目の前を走る同僚が脱ぎ捨てた一昔前の重厚なデザインの鎧に足を取られてしまった。
「あっ!」
ネメスは崩れた態勢を立て直そうと必死にたたらを踏んだが、踏ん張りが利かず遂に前のめりに倒れこんでしまった。
だが運の悪いことに、転んだ先には兜が置かれていた。
そしてそれはとても鋭利な形状のものであった。
「ぐふっ!」
ネメスは短く太いうめき声を上げてその場に倒れこんだ。
「ネメス!」
オルテスは咄嗟に足を止め、逆進してネメスに近づこうとした。
だが彼の後ろからは狂乱状態となった同僚たちが殺到していた。
そのため、オルテスが必死の思いで彼らを掻き分け、なんとかネメスの元にたどり着くまでには相当の時間を要した。
「ネメス!ネメス!おい!しっかりしろ!」
オルテスはさらに後方から殺到する同僚たちに再三蹴られながらも、ネメスの身体を必死に揺さぶった。
だがネメスの反応はなかった。
オルテスは勇気を振り絞ってうつ伏せになっているネメスの身体を仰向けにした。
「ああ……」
オルテスはネメスの顔のかつて右目があったであろう辺りの深く大きく陥没した穴をじっと覗き込み、深く嘆息した。
「ネメス……ネメス……」
オルテスは歳の離れた親友の冷たくなりつつある身体を愛おしく抱きしめ、何度もその名を呼んだ。
だが状況は、彼にいつまでも親友との別れを惜しむ時間を与えてはくれなかった。
あの恐るべき怪鳥が、遂に彼らの上空にたどり着いたのだ。
「すまんネメス……」
オルテスは亡き親友に最後の別れを告げ、断腸の思いで再び走り出した。
「くそっ!くそっ!くそっ!」
オルテスはそこからただひたすらに駆け続けた。
そして遂にエスタの西岸にたどり着いたオルテスは、なんの躊躇も暇もなく、必死の思いでアルターテ川に飛び込んだのであった。




