Legal Alien in the Starlit Salon—星空サロンの異邦人—
クロセが初めてこの世界に来たのは、たいした理由ではなかった。
現実に、少し疲れていたのだ。
仕事のこと。人間関係のこと。正しいと思って選んだはずなのに、正しいまま誰も救えなかったこと。
そういうものが一つずつ肩へ積もっていたが、自分ではまだ歩けると思っていた。実際、仕事には行けていたし、人と話すこともできた。求められれば説明し、必要なら判断し、自分が間違っていない理由を並べることもできた。
外から見れば、十分に歩けていた。
だから、大丈夫なのだと思っていた。
後になって思えば、歩けていたのではない。歩けているように見せるのが、上手くなっていただけだった。
そんな頃、同僚に勧められた。
「少し遊んでみたらいいんじゃないですか? 面白いの、ありますよ」
ずいぶん軽い言葉だった。
けれど、重い言葉を受け取る余裕などなかったクロセには、それくらいがちょうどよかったのだろう。断る理由も特になかったので、勧められるまま登録した。
この世界に、何かを期待していたわけではない。
剣を振る気にはなれなかった。魔法を覚える気にもなれなかった。まして、知らない人間が集まるギルドへ入る気など起きなかった。
それなら、なぜオンラインゲームへ来たのか。
当時、クロセにも、よく分からなかった。
ただログインして、知らない街を歩いた。誰かと話す必要もなく、どこかへ辿り着く必要もない。目的がないことだけが、妙に楽だった。
何もしないためにゲームを始めるというのも、おかしな話ではある。
それでも、何かをしなければならない現実よりは楽だった。
そうして歩いているうちに、第二広場へ着いた。
そこで、リラに会った。
「お疲れですか?」
最初に言われたのは、それだけだった。
クロセは、たぶん否定した。
大丈夫です、と答えた気がする。
何度も使っていた言葉だから、そのときもきっと、そう答えたのだろう。
大丈夫ではなかったのに。
とはいえ、大丈夫ではありませんと認めたところで、何を話せばよいのかも分からない。仕事に行けないわけではない。誰かに明確な害を加えられているわけでもない。説明を求められれば、何が起きたのかを順序立てて話すこともできた。
説明なら、いくらでもできた。
ただ、それで自分が何に苦しんでいるのかだけは、うまく説明できなかった。
リラは、クロセの答えを正さなかった。
本当は大丈夫ではないでしょうとも、何があったのですかとも聞かなかった。ただ温かい飲み物を出し、向かいではなく、少し離れた席に座った。
近すぎず。遠すぎず。
話してもいいし、話さなくてもいい距離だった。
クロセは、ぽつぽつと話した。
現実で何があったのかは、ほとんど言わなかった。言いたくなかったというより、どこから話せばよいのか分からなかったのだ。
だから、疲れたとか。
間違っていないはずなのに、苦しいとか。
説明できることばかり増えて、納得できることが減ったとか。
そういう、形にならない言葉だけを少しずつ置いた。
リラは、解決策を出さなかった。励ましもしなかった。誰が正しくて、誰が間違っていたのかを急いで決めようともしなかった。
ただ、クロセが置いた言葉を、一つずつ拾った。
それだけだった。
話したところで、現実の問題が解決したわけではない。明日になれば仕事はあるし、会いたくない人間にも会わなければならない。正しいと信じて選んだ結果が、誰も救わなかったという事実も変わらない。
それでも、ずっと一人で背負っていたものが、ほんの少し軽くなった。
救われた。
大げさな言葉だと、自分でも思う。
けれど、救われた人間がそう感じたのなら、それはもう救いなのだろう。少なくとも、あのときのクロセにとっては、そうだった。
それから、クロセはなんとなく星空サロンにいるようになった。
手伝うとは言えなかった。所属するとも言わなかった。リラも、何をする人なのか、いつまでいるつもりなのかとは聞かなかった。
ただ、ある日。いつものようにカップを洗いながら、クロセに言った。
「ここにいてもいいんですよ」
「役には立てませんよ」
「いてくれるだけで、助かることもあります」
それで十分だった。
リラは、洗ったカップを棚へ戻した。
「そうそう。今度、第二広場で開くイベントのことで、少し相談に乗ってほしいんですが」
それからクロセは、星空サロンの壁際にいる。
リラのように、人の話を聞くことはできない。励ます言葉も持っていないし、誰かの苦しみを柔らかく受け止めることも得意ではない。
ただ、声が集まる場所にいる。
正しさや間違いに分けられる前の声が、まだ声のままでいられる場所にいる。
それが、クロセにとっての居場所だった。
その日、星空サロンの入口には、いつもより多くの人が集まっていた。
布告文を開いたまま立っている人。
席に着いても、カップへ手を伸ばさない人。
同じ文章を、何度も読み返している人。
皆、ただどこか落ち着かなかった。
何を心配すればよいのか分からないまま、心配だけを抱えてきた。
クロセには、そう見えた。
「登録拠点の移動協力って、来ました?」
「来ました」
「任意って書いてありますよね」
「はい」
「任意なら、動かなくてもいいんですよね」
リラは、相手の前にカップを置いた。
「そう読めますね」
間違った答えではない。
少なくとも、今すぐ移動を強制されるわけではなかった。布告文にも、任意協力を先行すると明記されている。
ただ、相手が確かめたいのは、文章の読み方だけではないのだろう。
「でも、なんか怖くて」
「どのあたりが、怖かったですか?」
「よく読むと、協力が足りなかった場合の追加措置って書いてあるんです。新規登録の制限とか、操作の強制待機とか、一部機能の制限とか」
「はい」
「これって、本当に任意なんですか?」
リラは、すぐには答えなかった。
クロセの知るリラは、答えを急がない。
分からないことを、分かったように言わない。安心させるためだけに、大丈夫だとも言わない。相手が何を怖がっているのか、その形が見えるまで待つ。
けれど、答えを避ける人でもなかった。
「任意という言葉だけでは、分からないのかもしれません」
「ですよね」
その人の肩から、わずかに力が抜けた。
安心したというより、自分が抱いた不安を、おかしなものとして扱われなかった。それだけで、少し息をつけたようにクロセには見えた。
別の席にいた、作業服の工房職人風のプレイヤーが口を開いた。
「俺、拠点を動かしたくないんですよ。倉庫も工房も、全部あの登録領域に紐づいてるんで」
「はい」
「移動に協力しても、後から戻せるって書いてある。でも、本当に全部戻るのかって」
「心配ですね」
「心配です」
戻せる、と布告文には書かれている。
だが、何をもって戻ったとするのかまでは書かれていない。
登録先が元に戻れば、それで終わりなのか。その間にできなかった取引はどうなる。止まった工房の作業は。同期を待たされた時間は。
戻るものと、戻らないものがある。
クロセには、この男が怖がっているものが少し見えた。
その境目が、まだ見えないのだ。
「ここが居場所なんです」
茶色の髪の内側に青を差した、胸当て姿の女が小さな声で言った。
声はひどく静かだった。
それでも、サロンの中へはっきりと響いた。
「ログインして、いつもの場所にいて、いつもの人がいて。それだけなんですけど」
リラは、そちらを見た。
「それだけでは、ないんですね」
「はい」
クロセは、壁際でその言葉を聞いていた。
ここが居場所なんです。
その言葉だけが、クロセの中に残った。
クロセは、布告文へ視線を戻した。
【世界律】
登録処理系統の負荷軽減および全体同期維持に関する暫定措置
【布告文】
現在、登録処理系統において、一部遅延が確認されています。
全体同期を維持するため、対象登録領域に属するプレイヤーに対し、登録拠点の移動、低優先同期処理の延期、高負荷操作の時間分散等への任意協力をお願いします。
協力に伴う移動先は、提示された候補から選択できます。
対象となる処理、期間、現在の負荷状況および解除条件は、随時更新します。
【追加措置】
任意協力による負荷低下が基準値に達しない場合、対象、範囲、期間、解除条件および判断理由を明示した上で、次の措置を段階的に実施することがあります。
・混雑登録領域への新規登録制限
・高負荷操作の強制待機列投入
・低優先同期処理の強制延期
・対象領域における一部機能制限
【例外措置】
既存登録拠点の強制移転は、全体同期の断絶が切迫し、他の措置では回避できない場合に限り、個別審査を経て実施することがあります。
文章はやわらかい。
不安を煽りすぎないように書かれている。協力が必要となった理由も、選べる移動先も、戻すための条件も示されていた。
見直しの導線がある。
解除条件もある。
移動先を選ぶ余地も残されている。
任意協力と強制措置は分けられ、措置の順番も決められている。最も強い措置は例外とされ、最初から使えるわけではない。
悪い文章ではない。
むしろ、よく抑えられていた。
だからこそ、クロセは慎重にもう一度読んだ。
乱暴な命令なら、話は簡単だ。
おかしいと言えばいい。
必要な範囲を超えていると指摘すればいい。
だが、これは違う。
世界を維持するために作られ、できるだけ傷を小さくしようとしている世界律だった。
だからといって、傷がなくなるわけではない。
布告文が最初に求めているのは、協力だった。
けれど、それだけで終わるとは書かれていない。
任意協力によって負荷が下がらなければ、その後には強制措置がある。
刃は、きちんと鞘に収められていた。
それも、幾重にも留め金を掛けて。
それでも、そこに刃があることに変わりはなかった。
リラが、小さく振り返った。
「クロセさん」
「はい」
「これ、どう読むんでしょう」
サロンに集まった視線が、クロセへ向いた。
クロセは、すぐには答えなかった。
ここで断言すれば、話は簡単になる。
これは危険だ。
これはおかしい。
これは止めるべきだ。
そう言えば、集まった人たちは、自分の不安へ分かりやすい名前を付けられる。
けれど、一度名前を付ければ、その後に集まる声まで、最初に付けた名前へ引っ張られる。
ここは、声がまだ声のままでいられる場所だ。
「この協力要請だけを見れば、お願いです」
サロンの空気が、少し止まった。
「ただし、この布告は、お願いだけでは終わりません」
「どういうことですか?」
「任意協力で負荷が下がらなければ、その後に強制措置を使える世界律が、すでに成立しています」
「じゃあ、協力しなかったら制限されるんですか?」
「協力しなかった人に、罰を与えるための措置ではありません」
そこは、クロセにもはっきり読めた。
「個人が協力したかどうかではなく、全体の負荷が基準まで下がったかどうかで、次の段階へ進む仕組みです」
「それなら、動かなくても大丈夫?」
「大丈夫とは言えません」
期待された答えではなかったのだろう。
相手の表情が、わずかに曇った。
「今すぐ、何かを強制されるわけではありません。移動先を選ぶ余地も、準備のための猶予もあります。措置を実施した後の見直しや、解除の条件も用意されています」
「だったら――」
「それでも、全体の負荷が下がらなければ、強制措置へ移る可能性はあります」
安心させるための材料はある。
だが、安心させるために、書かれているものを小さくすることはできなかった。
「危険なのは、移動することだけではありません」
クロセは、そこを曖昧にしなかった。
「登録情報に触れるということは、プレイヤーの所属、拠点、財産、履歴に触れるということです」
「財産……」
「倉庫、アイテム、取引履歴、工房、ギルド資産。同期を止める。待機列に入れる。処理の優先順位を下げる。それによって、自分が持っているものへ、一時的に触れられなくなる可能性があります」
説明しながら、クロセは工房職人風の男を見た。
男は、開いたままの倉庫一覧へ視線を落としていた。
「それだけではありません。自分がどこに属しているのかを、外から制限されることもあります。ログインして、いつもの場所へ行き、いつもの人と会う。その前提が変わる」
ここが居場所なんです。
先ほどの声が、クロセの中に残っている。
ログインする場所が変わっただけで、現実の生活が壊れるわけではない。倉庫や工房が一時的に使いづらくなったとしても、生命を奪われるわけではない。
そう説明することはできる。
説明はできるのだ。
けれど、居場所とは、失った後の被害だけで測るものではない。
何も求められずにいられること。いつもの人がいること。何かの役に立たなくても、そこにいてよいと言われること。
それを、単なる登録情報だとは言えなかった。
「ここを居場所にしている人にとっては、単なる登録情報の移動ではありません」
「じゃあ、これ……」
「重大です」
クロセは静かに言った。
誰かが息を止めた。
少し、言葉が強すぎたかもしれない。
だが、軽くは言えなかった。
「ただ、今すぐ強制措置が発動されるわけではありません」
クロセは続けた。
「だからこそ、今のうちに確認する必要があります。何が不安なのか。移動すると何が使えなくなるのか。何が戻り、何が戻らないのか」
問題が起きてからでは、失ったものの話しかできない。
まだ起きていない今なら、失いたくないものの話ができる。
リラは黙って聞いていた。
サロンにいる人たちも、それぞれの画面を見ていた。先ほどまでと同じ布告文を、少し違うものとして読み直しているようにクロセには見えた。
やがて、リラが静かにうなずいた。
「ありがとうございます」
それから、少し考えるように布告文を見た。
「これは、みんなが知っていた方がいいことですか?」
クロセは、すぐには答えなかった。
知らせれば、不安は広がる。
知らせなければ、事情を知らないまま協力するかどうかを選ぶことになる。
どちらにも、別の危うさがあった。
クロセに見えるのは、布告された文章だけだった。
運営側が何を見ているのかは分からない。
だが、文章に引かれた線なら読める。
「知っていた方がいいです」
クロセは言った。
「ただし、煽るべきではありません」
「分かりました」
「今すぐ何かが強制されるわけではないこと。任意協力には、移動先を選ぶ余地があること。見直しと解除の条件が用意されていること。それは、きちんと伝えてください。ただし、その後に強制措置があることも、隠すべきではありません」
「そこも書きます」
リラは、広場掲示板を開いた。
その指先は、慌てていなかった。
怒ってもいなかった。
いつものように、誰かが置いた言葉を、届く形へ直そうとしていた。
クロセは、少しだけ不安になった。
リラは、事実を歪めない。
不安を煽ることもしない。
けれど、ときどき、こちらが慎重に抑えた言葉の中から、芯だけを正確に拾ってしまう。
優しい言葉で。
読みやすい形で。
届いてしまう言葉にする。
「リラさん」
「はい」
「強く書きすぎないでください」
リラの指が、そこで一度止まった。
「でも、弱く書きすぎても伝わりません」
リラは少し考えてから、うなずいた。
「ちょうどよく、ですね」
「それが難しいんですよ」
「そうですね」
リラは、少しだけ笑った。
「でも、困っている人がいるなら、届いた方がいいと思います」
クロセは、それに反論できなかった。
リラが掲示板に文字を打ち始める。
赤いポニーテールの手伝いが、エプロンで手を拭きながら、その左から画面をのぞき込んだ。
居場所だと言った胸当て姿の女も、手にしていたカップを置き、反対側へ回った。
二人とも、口は挟まなかった。
ただ、リラが置いていく言葉を見ていた。
星空サロンの中で、誰かが小さく息を吐いた。別の誰かは、布告文を最初から読み直している。
工房職人風の男は、手元の倉庫一覧を見つめていた。
不安は消えていない。
ただ、何を怖がっていたのかは、少しずつ見え始めていた。
クロセは壁際へ戻り、リラの背中を見た。
彼は、リラのようには聞けない。
誰かが置いた言葉を、そのまま受け止めることもできない。
聞けば、その言葉が何を意味するのかを考えてしまう。どの権限に触れるのか。どこへ届ければよいのか。何を争点として残せるのか。
まだ声でしかないものに、線を引こうとしてしまう。
それがよいことなのか、クロセには分からなかった。
ただ、声が集まる場所にいる。
声が、まだ声のままでいられる場所にいる。
そして必要になれば、その声がどこへ届くのかを見る。
今のクロセにできるのは、それくらいだった。
リラの左右では、二人が、まだ黙って掲示板をのぞき込んでいた。
その視線の先で、リラの指が最後の一文を打った。
【詳しい人に聞いてみました】
クロセは、少しだけ目を伏せた。
届いてしまう。
そんな予感だけがした
アイの補足メモは今回、お休みです。




