君に必要な理由
本作は法律を参考にして作ったフィクションです。
現実とは、少し違う顔をしています。
※なお、編集作業を後日に行っています。
【本日の確認事項】
一、募集時に示された基準と、実際の評価との関係
二、改善後も、なお残った評価要素
三、中央広場での過去注意が、今回の判断へ与えた影響
四、申立人が現在求めている対応
四つの項目が円卓の上へ並んだが、ユキはすぐにはどれにも触れなかった。
募集文も申請書も、それに対する弁明書も反論書も、必要なら一声で開けるように準備されている。それでも手を出さないのは、単に勿体ぶっているのではないらしく、頬に指を添えたまま俺とグレンを一度ずつ見たあと、いかにもこれから少し面倒な話を簡単に済ませます、とでも言いたげな調子で口を開いた。
「先に言うとくね。書いてあることを、最初から聞き直すつもりはないよ」
「助かる」
グレンの返事は早かった。
「改善点を見たか。実績を見たか。昔の注意を確認したか。そこはもう、みんな知ってるからね」
「わたしも読みましたよぉ」
肩の上から、くまが片手を上げた。
「誰も疑ってない」
「一応、参加してる感じを出しとかないとねぇ」
「仕事で出せよ」
「してますよぉ」
見た目だけなら抱えて昼寝でもしたくなるぬいぐるみなのに、どうしてこのくまは時折、定年前の上役のような空気を出すのだろう。
ユキは慣れているのか、肩の上のやり取りには取り合わず、円卓の中央へ視線を戻した。
「ボクが聞きたいのは、その先。どのくらい重かったのか。何と比べたのか。それがなかったら、結論は変わったのか」
口調そのものは変わらない。ただ、さっきまで乗っていた余分な柔らかさだけが、砂糖をひと匙減らした茶のように薄くなった。
一番目の項目が明るくなる。
【募集時に示された基準と、実際の評価との関係】
「グレンさん。一番引っかかったところだけ、聞かせて」
「……対戦イベントであることが、思ってたよりずっと重かったことだな」
「重かった?」
「ああ」
グレンは円卓の上にある募集文へ目をやった。
「書いてあったのは、初心者や親子が多いとか、派手な演出は控えめにとか、そのくらいだった。だから、こっちはそこに合わせた」
観戦席を静かにした。
爆発エモートをやめた。
歓声ログも分けた。
「それでも残るもんが、こっちの想像よりでかかった」
そこでユキの視線が俺へ移る。
「原決定側。実際、対戦企画であることはどの程度重かった?」
「かなり」
「募集した時点で、その重さまで決まってた?」
「いや」
そこは、少し考えれば答えが出た。
第二広場を落ち着いた場所として使いたい。その方針自体は、募集を出す前からあった。けれど、それが個々の企画にどのくらい効くのか、ましてPvPだから何段階不利になるなどという秤まで用意していたわけではない。
「方針は前からあった。でも、実際の選定でそこにどれだけ重さを乗せるかまでは、まだ固まってなかった」
「そうなる」
「グレンさん。今の説明は?」
「意味は分かった」
「納得は?」
「してねえ」
「うん」
あまりにもあっさりした返事のあと、円卓に二つの表示が浮かんだ。
【原決定側の説明内容:確認】
【申立人の主張:維持】
「そこは分けとこか」
「細けえな」
「そういう仕事なんよ」
ユキは笑っていた。
「もう一個だけ。“後からルールを作った”とまでは言う?」
グレンは少し黙った。
最初に反論書を読んだときなら、勢いのまま言ったかもしれない。ただ、ここまで話を聞いたあとで同じ言葉を出せば、その言葉の方が先に足を滑らせると分かったらしい。
「今の話なら、そこまでは言わねえ」
「でも?」
「募集の時に見えてた線じゃ足りなかった、は残す」
「はい」
ユキはそれをそのまま記録へ移した。
こちらの説明を聞いたことで、グレンの言い分が全部消えたわけではないし、逆に最初とまったく同じ場所に立っているわけでもない。市場で値段を聞いた商人が、買うのをやめるほどではないが最初の言い値のまま払う気もない、くらいの変化なのかもしれなかった。
くまが小さく光る。
「一件目、記録しましたよぉ」
「ずっと黙ってたな」
「話してる人がいる時は静かにするタイプなんだよねぇ」
「さっき普通に割り込んでただろ」
「その時は、その時で」
「自由だな」
「長くやるコツだよぉ」
何を長くやっているのかは、聞いても多分ろくな答えが返ってこない。
二番目の項目が明るくなった。
【改善後も、なお残った評価要素】
「改善したことも、それを評価したことも確認済み」
ユキは俺を見る。
「なら、何が軽くなって、何が残った?」
聞かれて、俺は黒煙の牙の申請書へ目を落とした。
観戦席の静音。
爆発エモートの禁止。
歓声ログの分離。
そういうところは、確かに以前とは違っていた。こちらが注意したことを聞いていないわけでも、形だけ直して中身は何も変わっていなかったわけでもない。
「爆発や歓声の影響は、かなり軽くなった」
「残ったのは?」
「イベントそのもの」
「具体的に」
短い言葉ほど、逃げ道が少ない。
「試合中のスキル演出。観客が一か所に集まること。勝敗で盛り上がること」
「人が集まるのは、星空サロンも同じやろ?」
「……そこは、そう」
反論書でも刺されたところだった。
イベントをするのだから、星空サロンだって人を集める。広場の中央も使うし、クイズでも宝探しでも、まったく通常利用に影響を与えないというのは無理な話だ。
「それでも違うと見た?」
「見た」
「何が?」
二枚の申請書が同じ高さで並ぶ。
何度も読んだ資料なのに、片方だけを見ている時には気づかなかったものが、隣に別の一枚を置くと急に輪郭を持つことがある。帳簿でもそうだし、人間でも多分そうなのだろう。
「……集まり方かな」
「集まり方?」
「星空サロンは、広場を歩いてる人が途中から混ざれる企画が多かった。黒煙の牙は、試合を見る人と、関係ない人が分かれやすい」
試合が始まればスキル演出が出る。
観戦する人はそこへ集まる。
そして参加しない人間は、その塊の外を歩くことになる。
「人数じゃなくて」
ユキが言った。
「非参加者との両立?」
「……それが一番近い」
「決めた時から、そう言葉にしてた?」
「いや」
ここで頷いてしまうと、記録の方が俺より賢くなってしまう。
「今話してて、そうだったんだと思った」
「はい」
円卓に、一行が増えた。
【評価要素:非参加者との両立】
それだけなのに、胃の辺りが少し重くなる。
後から理由を作ったわけではない。
ただ、決めた時には輪郭しかなかったものに、今になって名前がついた。
同じもののようでいて、その二つは完全には同じではない。店先で品物を見て「なんとなく高い」と思うのと、帰って帳簿を開いて仕入れ値まで確かめたうえで「やはり高い」と言うのが違うのと、多分似たようなものだ。
「グレンさん」
「説明の意味は分かった」
先回りされたユキが、少しだけ笑った。
「主張は?」
「残す。募集でも通知でも、そこまでは見えなかった」
「はい」
表示が更新される。
「でも、“対戦だから駄目”だったわけじゃないのは分かった」
グレンがそう続けると、ユキの目がこちらではなく彼へ向いた。
「今の“分かった”は?」
「説明の話!」
「よろしい」
「教師みたいになってきたな」
「教えてへんよ。整理してるだけ。大事やからね」
アイと同じ言葉なのに、こちらの方が少し腹立たしい。
おそらくアイの場合は本当に処理上重要だから言っているのに対し、ユキの場合は、こちらがそう思うところまで承知したうえで言っているように聞こえるからだ。
三つ目の項目が明るくなった。
【中央広場での過去注意が、今回の判断へ与えた影響】
「見たかどうかも、それだけで落としたかも、もう書面にある」
ユキは注意記録を開かなかった。
「なら、その注意履歴がなかったら?」
一瞬、言葉が止まる。
「今回の結論、変わってた?」
「……たぶん、同じだった」
「理由は?」
「企画そのものについて見た部分が、一番大きかったから」
「じゃあ、過去注意は?」
「警戒材料」
これはすぐに出た。
「前にも広場で周囲への影響が出た。だから、本当に改善で足りるのかは慎重に見た」
「他の申請者より?」
「たぶん、そうなる」
「その時から、今みたいに分けて考えてた?」
「完全には」
過去の注意。
今回の改善。
企画そのもの。
どれも見ていた。
けれど、頭の中に三つの箱があって、これはここへ、これはこちらへ、と一つずつ綺麗にしまっていたわけではない。むしろ同じ籠に放り込み、最後に持ち上げて重かったからそう判断した、という方が近かった。
「そこ、記録します」
円卓の上で、一つに重なっていた表示が三つに分かれた。
それを見ていたグレンが、ふと眉を寄せる。
「俺、点数が知りたかったわけじゃねえんだな」
「点数?」
「何点減ったとか、何点戻ったとかじゃない」
申請書を見る。
「何が決定打だったのか」
次に、注意記録があるはずの場所。
「昔のことはどこまで効いたのか」
最後に募集文。
「それが最初から分かる話だったのか」
顔を上げる。
「そこだ」
「今の発言、記録していい?」
「おう」
肩のくまが、ぴこん、と光った。
「はいはい」
「急に仕事するな」
「呼ばれるまで省エネしてました」
「何のためにいるんだよ」
「くまですよぉ」
「答えになってない」
どうやら、このくまについてだけは、どれほど審理を尽くしても事実認定できそうにない。
最後の項目が残った。
【申立人が現在求めている対応】
「申立書では、選定結果の見直しか、不採用理由の具体的な説明を求めてる」
「ああ」
「イベントはもう終わった。今は?」
グレンは少し考えてから、星空サロンの申請書を見た。
「星空サロンをどかせ、じゃねえ。あいつらの採用が不正だったとも思ってない」
「では?」
「今回の判断そのものを見直してほしい」
「結果も含めて?」
「含めて」
「同じ結論になる可能性もあるよ?」
「あるだろ。それでもだ」
そこには迷いがなかった。
勝てる勝負だからやる、というより、勝ち負けの前に一度帳尻を見せろ、という顔だった。商売なら厄介な客だが、こちらはその帳尻を見せるための仕組みを用意した側なので、客の方だけを責めるわけにもいかない。
「それと次の募集。募集文も通知も直してほしい」
「具体的には?」
「何を重く見るのか。直したところがどこまで効いたのか。それでも何が残ったのか」
「はい」
四つの確認事項が中央へ集まり、長いやり取りが短い文章へ折り畳まれていった。
【聴取整理】
一、申立人は、対戦企画であることが実際の選定において重く評価された点について、その重さを募集時に予測することが困難であったと主張している。
二、原決定側は、黒煙の牙による改善によって一部の影響は軽減された一方、企画本体に伴う非参加者との両立に関する懸念は残ると評価した旨を説明した。
三、原決定側は、中央広場での過去注意を警戒材料として考慮したが、当該注意履歴が存在しなかった場合でも同じ選定結果とした可能性が高い旨を説明した。申立人は、その影響の程度が外部から確認しにくかった点について主張を維持している。
四、申立人は、実施済みの星空サロン企画の取消しまたは差替えではなく、本件選定判断の見直し、不採用理由の具体化、今後の募集基準および不採用通知の改善を求めている。
グレンが読む。
俺も読む。
「双方。自分が言った内容と違うところ、ある?」
「ない」
「俺も」
「はい」
【発言内容確認済み】
「これで終わり?」
「聴取はね」
「ほんとに何も言わねえんだな」
「最初に言ったやろ?」
ユキは資料を閉じた。
「このあとは整理案を作るよ」
「白卓に回す。あとはくまさんのお仕事」
「それは、いやだねぇ」
「じゃあ、俺らは?」
「今日はここまで」
「ほんとに終わった」
「終わったよ?」
あまりにも普通に返されて、グレンが少し拍子抜けしたような顔をした。
これだけ書類を積み、これだけ口で言い合えば、最後には何か大仰な音でも鳴って答えが降りてきそうな気がする。しかし現実の商談でも、散々値段を詰めた挙げ句に「では持ち帰ります」で終わることはあるだろうから、案外こういうものなのかもしれない。
グレンが席を立った。
「このあとは白卓だったな」
「うん」
二歩ほど進み、こちらを振り返る。
「黒服さん」
「まだ呼ぶ?」
「通知文だけより、直接聞いた方が分かることはあった」
「そうか」
「でも、納得したとは言ってねえぞ」
グレンは鼻で笑った。
「次の募集じゃ、今見えた線くらい、正面からぶち抜いてやる」
「やめろ」
俺の言葉にグレンは人懐っこく笑う
「じゃあな、黒服さん」
グレンが片手を上げ、その姿が白い光の中へほどけていった。
最後まで面倒なやつだった。
言いたいことは多い。声はでかい。こちらが一つ説明すれば、その説明の端をつかんで次の疑問を持ってくる。
けれど、何に怒っていたのかは、ここへ入ってきた時よりずっと分かるようになっていた。
最初は、不採用にされたことそのものに腹を立てているのだと思っていた。
実際には、少し違った。
何を見て決めたのか。
直したところは、どこまで見てもらえたのか。
昔のことは、どの程度まで今へ持ち越されたのか。
同じ結論になるにしても、その途中が見えないことが嫌だったのだ。
面倒なやつではある。
ただ、その面倒さにも、一応の形はあった。
【聴取記録:保存】
【整理案:作成中】
【白卓会議:回付予定】
表示が一つずつ淡くなり、やがて白い空間へ溶けていく。
残された円卓は、それまで積み上がっていた言葉が嘘だったように静かで、向かいの席にはもう誰もいない。
俺とユキ。
それから、彼女の肩の上で、いかにも本日の業務は終了しましたという顔をしているくまだけだった。
「……俺も帰っていい?」
「もちろん」
ユキは俺を見ず、円卓に残っていた資料を一枚ずつ閉じていた。
指先が触れるたびに紙面が薄い光へ変わり、音も立てず消えていく。
まとめて閉じれば一瞬で終わるだろうに、一枚ずつ。
何か意味があるのかもしれない。
あるいは、ただの癖かもしれない。
この人の場合、その区別を尋ねても答えより余計な謎が増えそうなので、俺は黙って椅子を引いた。
「君、よう刺さってたねえ」
「……何が」
背中へ落ちてきた声は、軽かった。
振り向く。
ユキは最後の一枚を閉じたところだった。
「グレンさんの言葉」
「顔に出てた?」
「ちょっとね」
「審理担当が原決定側を慰めていいの?」
「あら」
そこでようやく、ユキがこちらを向いた。
灰色の外套の裾が、ごく小さく揺れる。
「慰めてるように聞こえた?ちゃうよ。見てただけ」
「怖いな、その言い方」
「そう?」
口元だけが、わずかに笑った。
すれ違うだけなら、いくらでも距離を取れるし、話をするにしても、わざわざ近寄る必要などない。
それなのに、彼女はこちらへ歩いてくる。
一歩。
もう一歩。
「君は、決める側におる」
灰色の外套が白の中を滑るたび、そのあとを追うように、ごく淡い香りが流れてきた。
乾いた木をゆっくり燻したあとのような、少し苦く、どこか温度の低い香り。
柔らかな声にも、長い睫毛にも似合わないはずなのに、この女が纏うと妙に馴染んでいた。
「決める側におるとね」
ユキは俺の少し斜め前で足を止めた。
「紙だけ見てても、仕事はできるようになるんよ」
「できるなら、いいんじゃない?」
「できるよ」
返事は早かった。
あまりにもあっさり肯定されたので、逆に続きがあることだけは分かった。
「できるから、困るんやけどね」
「……何が?」
「数字も見る。記録も読む。理由も探す」
指を折るわけでもなく、ユキは静かに並べていく。
「君、そういうの見つけるん、たぶん得意なんやろね」
ユキの目が、少しだけ細くなった。
さっきまでと同じ顔のはずなのに、相手との距離を測っていた薄い膜を、一枚だけ向こうから外されたような気がした。
「……何を言いたい?」
「うーん」
ユキは、ほんの少し考えるように首を傾げた。
灰色の髪が肩を滑る。
その動きに遅れて、またあのスモーキーな香りが鼻先をかすめた。
「そやね」
声が、少しだけ低くなった。
「君、自分の理由も、よう探す人やね」
「……自分の?」
「ここにおる理由」
一瞬、意味が分からなかった。
仕事の話をしていたはずである。
その話だったはずなのに、いつの間にか話の向きが変わっている。
「仕事がある。頼まれた。自分にできることがある。責任がある」
ユキは俺の反応を待たず、一つずつ並べていった。
「そういう理由があると、君、ずいぶん楽そうにここにおるように見える」
「…………」
何か言おうとした。
違う、と。
そんなつもりはない、と。
けれど、その前に思い出してしまった。
最初にここへ来た日のことを。
停止の見直しは終わらない。
ゲームにも戻れない。
それでも、何かすることがあるなら、ここに残る理由にはなると思った。
研修が終わった時もそうだった。
仕事がなくなるどころか増えたと知って、なぜか少しだけ安心した。
何に安心したのかは、その時の俺には分からなかった。
「……それの何が悪い」
口から出た声は、思ったより少し硬かった。
ユキは眉ひとつ動かさない。
「悪いとは言うてへんよ。ただ、自分がそういう人やって、知っといた方がええ」
「そういう人って」
「何かを差し出して」
ユキの視線が、俺の袖へ落ちた。
二本の金線。
研修を終えた証。
仕事をした証。
ここで何かを任されていることを、分かりやすく形にしたもの。
「そこに置いて」
今度は視線が、白い円卓へ移る。
ほんの少し前まで、俺が座っていた場所。
「ようやく椅子に座る」
そして、また俺を見る。
「自分も座ってええって、そこでやっと思える」
妙に近い。
距離の話だけではなかった。
言葉が。
こちらが自分でも触ったことのない場所へ、勝手に指を伸ばされているような感覚がした。
「でもね」
灰色の外套がわずかに揺れた。
ユキは、それまで俺の横に置いていた視線を、今度はまっすぐこちらへ向けた。
「そこにおりたいから、おる人もおる」
それだけだった。
説明も、例も、理由もつかなかった。
簡単な言葉だ。
なのに、なぜか引っかかった。
そこにいたいから、いる。
それだけ。
それで。
理由になるのだろうか。
そう思った、その時だった。
「……君、今」
ユキが、こちらをのぞき込むようにほんの少し距離を詰めた。
スモーキーな香りが濃くなる。
灰色の瞳の奥に、笑っているような、笑っていないような光が浮かんでいた。
「それで理由になるんか、って思ったやろ」
「…………」
思わず、半歩引きそうになった。
「怖っ」
「やっぱ、君かわいいわぁ。...…ボクは見えたもんを見ただけ」
楽しそうだった。
笑われている、というほどではない。
けれど、こちらが隠していたものを偶然見つけた人間の顔でもない。
最初からそこにあることを知っていて、本人がいつ気づくのか眺めていたような顔だった。
「ちゃんと、自分の足元も見れる人でおり」
そこだけ、関西弁が少し深くなった。
やわらかいはずの声なのに、不思議と逃げ道がない。
「自分が何を置いて、そこに立っとるのか」
「…………」
「それとね」
ユキが、もう一度こちらをのぞき込むように少しだけ近づいた。
白い部屋の中では、その距離だけが妙に現実的だった。
ほんの少し、笑う。
「君に必要な理由が、みんなにも必要とは限らんよ」
それ以上は言わなかった。
理由をつければ教訓になり、説明を足せば訓示になる。
どうやら、この人はそこまで親切ではないらしい。
問いだけ置いていく。
何も差し出さず、そこにいたいというだけで座る人間を、俺はどう見るのか。
提出期限の書いていない宿題を、一つ置かれたような気分だった。
「それ、昔の経験?」
結局、俺はそう聞いた。
ユキの口元が、ゆっくりと緩む。
「ふふ」
「またそれ」
「初対面の人に、何でも話す女に見える?」
「見えない」
「あら。即答」
煙のような香りが、またわずかに揺れた。
そしてその時になって、俺は少しだけ嫌なことに気づいた。
自分の理由を探す人間だと言われた、その直後。
俺はもう、この女がそんなことを言う理由を探していた。
アイの補足メモ:見たことと、効いたことは別です
今回、ユキさんは、
「改善点を確認しましたか」
「過去の注意を確認しましたか」
とは、ほとんど聞いていません。
そこは、申立書、弁明書、反論書を読めば分かるからです。
代わりに聞いたのは、
「どのくらい重かったのか」
「何と比べたのか」
「その事情がなかったら、結論は変わったのか」
ということでした。
つまり今回確認していたのは、
何を見たかではなく、それが判断の中でどう働いたか
です。
行政不服審査法は、行政庁の「違法」な処分だけでなく、「不当」な処分についても、不服申立てによる見直しの対象とする制度です。
そのため、
「ルールに違反していたか」
だけではなく、
「その事情を、どのように評価して結論へつなげたのか」
も問題になります。
今回でいえば、
中央広場での過去注意は見ていた。
しかし、それだけで不採用にしたわけではない。
改善した部分も見ていた。
それでも、企画そのものに残る「非参加者との両立」という問題を重く見た。
そうやって、一つに固まっていた判断を、
過去の事情
今回の改善
それでも残った事情
へ分けています。
ここで少し難しいのが、
「非参加者との両立」
という言葉は、決定した時点では、まだはっきり使われていなかったことです。
あとから理由を作ればよい、という意味ではありません。
作中では、
当時、本当にその事情を見ていたのか。
記録と説明がつながっているのか。
あとから付け加えた理由ではないのか。
そこまで確認したうえで、判断時には輪郭しかなかったものへ名前を付けています。
また、募集時に見えていた基準と、実際の選定で重く使われた基準との関係も問題になりました。
現実の行政手続法第5条では、申請に対する審査基準について、できる限り具体的に定め、原則として公にしておくことが求められています。
本作のイベント募集が、そのまま同条の適用を受けるという意味ではありません。
ただ、
何を基準に選ばれるのかを、申請する側からもある程度予測できるようにする
という考え方を参考にしています。
そして今回、ユキさんは最後に結論を出しませんでした。
ここも大事なところです。
現実の行政不服審査法でも、審理員は審理が終わると、審理員意見書を作成し、事件記録とともに審査庁へ提出します。
行政不服審査法第42条です。
作中の、
【聴取記録:保存】
【整理案:作成中】
【白卓会議:回付予定】
は、この仕組みをゲーム内向けに組み替えたものです。
最終的に裁決をするときには、
事案の概要、
審理関係人の主張の要旨、
そして理由、
を裁決書へ記載します。
こちらは行政不服審査法第50条です。
だから今回やっていたのは、
誰が勝ったかを決めることではありません。
あとで判断する人が、
何が争われていて、どこまでは一致し、どこから先が食い違っているのか
を確認できる形にすることです。
今回の公式レスバ会場で決まったことは、まだありません。
ただ、
何について決めなければならないのかは、
かなり見えるようになりました。
関連条文
行政不服審査法第1条(目的等)
行政不服審査法第37条(審理手続の計画的遂行)
行政不服審査法第42条(審理員意見書)
行政不服審査法第50条(裁決の方式)
行政手続法第5条(審査基準)
※作中の運営手続はフィクションであり、現実の行政不服審査・行政手続をそのまま再現したものではありません。




