Day 1
午前9時45分。控室のエアコンは、すでに戦力外だった。
直哉は、着ぐるみの胴体部を持ち上げながら、無言で汗をぬぐった。
「これ、マジで人が着るもんなのか…?」
演劇部で何度も舞台に立った彼でも、目の前の“ヒーローの鎧”には怯んだ。
スタッフが声をかける。「直哉さん、あと15分で出番です。水分、今のうちに」
ペットボトルの麦茶を一口飲む。ぬるい。けれど、喉には染みた。
着ぐるみの脚部を履き、胴体を被る。すでに視界は狭く、空気が重い。
最後に頭部を装着すると、世界は一気に“密室”になった。
呼吸が浅くなる。
汗が首筋を伝い、背中に溜まる。
視界は、直径5センチほどのメッシュ越し。
音はくぐもり、外の声が遠くなる。
「ヒーロー、出番です!」
スタッフの声に背中を押され、直哉はステージへと歩き出す。
その一歩が、7日間の戦いの始まりだった。
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ステージに立つと、太陽が容赦なく照りつけた。
気温は34度。アスファルトの照り返しで、体感は40度を超えている。
着ぐるみの中は、すでにサウナ状態。
「ヒーロー登場!」というアナウンスに合わせて、直哉はポーズを決める。
右手を高く掲げ、左足を踏み出す。
だが、視界が狭く、バランスを崩しかける。
膝に重みがのしかかり、腰が軋む。
「うっ…」
声を漏らしそうになるが、ヒーローは喋らない。
代わりに、力強く拳を握った。
悪役が登場し、戦闘シーンが始まる。
演劇部で鍛えた動きが、体に染みついている。
だが、着ぐるみの重さがそれを邪魔する。
ジャンプの着地で膝が悲鳴を上げる。
回転の途中で、首が引っ張られる。
「これ…7日間もつのか…?」
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ショーが終わると、ファンサービスが始まる。
子どもたちが駆け寄ってくる。
「ヒーロー!写真撮って!」
「握手して!」
「抱っこして!」
直哉は、笑顔のポーズを崩さず応える。
だが、腰は限界に近い。
汗は止まらず、視界は曇る。
一人の女の子が、直哉の前で泣き出した。
「こわい…ヒーロー、こわい…」
直哉は、そっと膝をつき、優しいポーズをとる。
「大丈夫だよ」と言いたいが、声は出せない。
代わりに、ゆっくりと手を差し出す。
女の子は、しばらく見つめた後、そっと手を握った。
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閉園時間。
控室までの道のりが、遠く感じる。
着ぐるみを脱ぐことは許されない。
最後の子どもが手を振るまで、ヒーローはヒーローでいなければならない。
直哉は、最後の力を振り絞って手を振った。
その瞬間、腰に電流のような痛みが走った。
「…っ!」
だが、顔は笑っている。
誰にも見えないその顔は、汗でぐしゃぐしゃだった。
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控室に戻り、着ぐるみを脱いだ瞬間、汗が床に滴り落ちた。
直哉は、無言で天井を見上げた。
「あと6日…か」
その声は、誰にも聞こえなかった。




