九:鷹の回想
「士気を下げているのが戦況ではなく、上に立つ人間の器量だと思い知るべきかと」
にこりと笑って吐き捨てた娘がいた。
軍人としては小柄で、黙っているとあどけない少女めいた面立ちをしていた。
尉官であることを示す階級章を、きっちりと留められた襟元に見ながら、ファルケは事の成り行きを傍観していた。
場所はよりにもよって軍本部の食堂である。
昼時というには遅い時間であったが、それでもまだぱらぱらと人はいて、ファルケもまたその中の一人として問題の光景に遭遇したのである。
ざわめきが起きたのは一瞬だったと思う。今や野次馬たちは固唾をのんで展開を見守っていた。舞台に立つ役者はたった二人。
その片割れが彼女で、彼女より明らかに上官であろう中年の男はぽかんと口を開いた間抜け顔を晒しながら床に尻餅をついていた。
軍人にしてはいささか感心できない体型の男の顔に、ファルケは見覚えがあった。現在彼が関わっている任務に同じく就いている佐官だ。確か階級は中佐かその辺だったと思うが、はっきりと覚えていないのはこの男がとんでもなく役に立たないはた迷惑な人間であるという事実が強すぎるためだろう。
完全な縦割り社会であるところの軍部において、階級の力は絶大である。そして性質の悪いことに、戦果を挙げずとも出身階級で出世ができる人間というのは当然のように存在する。
実力、もしくは人間性。この両方が兼ね備えられていればそれでも文句などないが、少なくとも片方がないと、そんな立場の上官に仕えなければならない部下たちはなかなか辛い。しかしそういうものだと割り切り、仕事だと思えば耐えられる。頭を下げた時間だけ、給金が発生しているのだ。
が、それは平時の場合、だとファルケは思う。
実力がなくともわが身が大事、と後方に引きこもっている人間は、役に立たないがマシだ。人間性に問題があり、部下を捨て駒扱いしても、自ら最前線に赴く人間であれば諦めの余地もある。
この男の場合、実力もないのにそれに気付いていないというか、自分は大層有能な軍人であると思い込んで切る節があり、更に言えば選民意識が異様に高く、市井出身の部下など人で非ずと扱う。
自分もそこまで高貴なる生まれでもないだろうに。
そこそこだから、左遷もされず王都にいられるが、出世もおそらくできて大佐どまりだろう。
理不尽なその中佐の振る舞いは現場を混乱させ、同じ任務に就いていた別部隊の大尉が根を上げた。こちらも生まれはそこそこの下級貴族である。少なくとも平民出ではないので、年若くともその地位なのだが、地位と経験が釣り合っていなかった。主に尊大で厄介な年長者の扱い方などが。
そしてグラーツ大将経由でお鉢が回ってきたのがファルケである。
とんだ迷惑な話だとため息を吐いたのは記憶に新しい。
仕事だからやるけども。
噂に違わぬ傲慢な男は、部下やファルケが補填する速度を上回る勢いで余計な仕事を片っ端から増やし、無自覚故に進まない話に対する苛立ちを部下たちに向けて放出し続けた。
「まったく!どいつもこいつも使えん!このわしがどれだけ不運か!お前もお前だ、あんな愚図どもはさっさと首を切って新しい人間と入れ替えるくらいの機転を利かせるのが副官の役目だろうが!」
唾を飛ばし、食堂という他の目も多い場所で副官の男を怒鳴りつけるその姿は、見れたものではない。
ただ、この手の輩は何もこの男だけではなく、居合わせた常識ある者たちは、ああまたかと同情を寄せつつも見ないふりでやり過ごそうとしていた。それは自分の為でもあり、恥をかかされている副官の為でもある。
「第一何故、我が部隊の新兵がこんな小娘か!」
男は長机の末席にひっそりと座っていた下士官を指して叫んだ。
数少ない部下たちは顔を伏せたが、指名された人間だけが顔を上げて部隊長を見据えた。
「お前がそもそも我が隊の士気を下げているんだろう!」
下士官は黙っていた。
中佐は更に罵倒し続けた。
「あの役立たずの若僧が抜けたと思えばまた役に立ちそうもない若造があてがわれる。上は何を考えているのかと思ったが、お前にもその原因があるんだろう?大方お前があれらの機嫌を取るだろうと、上は考えるわけだ。そうでなければ女など軍にいて不要!にも拘らず、一向にうまくいかんのは何もかもお前が……ッ!」
がたん、と椅子が倒れる音がした。
食堂はシンと静まり返った。
男はわが身に起きた出来事を飲み込めず、間抜け面で瞬きを繰り返した。
毒を吐き散らすことに夢中になるあまり、男は部下が猫のように音もなく立ち上がり、自分の背後に立っていたことにすら気付かなかった。間抜けすぎて同情もできない。
男が見上げる先で、その下士官は表情無く彼を見下ろした。
「な、何を……」
男の掠れた声に対しても、彼女は淡々と事実を述べた。
「少し黙っていただこうかと思いまして」
いや他に方法があるだろう、とその場は声にならないツッコミが渦巻いたが、もう遅い。彼女はその身に似合わぬ脚力で、背後から思いっきり椅子を蹴り倒したのだ。
恐らく今まで経験したことのない状況に対応できていないのだろう。魚のようにぱくぱくと口を開閉する男に、彼女はにこりと笑って言い放った。
「他人に責任を見出そうとするより先に、ご自分を顧みられては?そもそも士気を下げているのが状況ではなく、上に立つ人間のご器量に影響されてだと思い知るべきかと存じますが?」
ひゅう、とファルケは小さく口笛を鳴らした。広い食堂の片隅で、誰の耳にも届かなかったそれは称賛であり、彼女の無謀さへのささやかな驚きを示していた。
上官侮辱罪で訴えられたとしてもおかしくない暴挙である。現に、中佐は状況をようやっと飲み込み、茹蛸のように真っ赤になった顔で震えていた。
当然、怒りで、である。
今や彼の矜持は粉々だろう。
「こ、この……ッ」
「ああ、それと」
怒鳴ろうとした男の台詞を叩き切るように、彼女は世間話でもするように続けた。
「女、女、と馬鹿にされておられるようですが、奥方のお耳に入らない方がよろしいのでは?」
「何だと?」
「奥方はクインシー商会のご贔屓でしたね。その意味がおわかりでしょうか?」
クインシー商会とは王都の上流階級の女たちを贔屓筋にもつ、老舗中の老舗の奢侈品専門店である。この店は代々女が当主を務めることでも知られており、財界での発言権も強い。
社会の半数は女である。表舞台こそ男のものだが、女を女だからという理由のみで侮る者はいつの世も碌な目に合いはしない。
「それに中佐殿は確かカリヴィーン・ジュネーをお気に入りだとか。彼女は女であることだけで己を測る人間を嫌いますし、ルドガー少将のお耳に入ればこれまで中佐殿がアルトマン大尉に向けられた暴言が問題となるのでは?ルドガー少将はアルトマン大尉の姉君でもあられますし、軍内の風紀に厳しい方でしょう」
つらつらと並べ立てられる名に、次第に男の顔色か青くなり、ぐうの音もその口からは出なくなる。
カリヴィーン・ジュネーは国内で広く名を知られる女優であり、昨年国王の御前で舞台を行ったことでその格は跳ね上がった。ルドガー少将はファルケの前任であるアルトマン大尉の姉であり、軍人の家柄であるアルトマン家から同じく軍人の家系であるルドガー家へと嫁いだ女傑だ。弟よりもよほど軍人として恵まれた体格をしており、腕力では並の男は太刀打ちできない。決して女尊男卑思想だとか女性至上主義者ではないが、性別のみで個々の技量を評価しない人間に対しては厳しい。
青くなったままついには銅像の如く完全に硬直した中佐を、他の部下たちが脇を支えて退場させた。ただの義務感からの行動であるというのは、彼らの笑いをかみ殺すような何とも言えない表情を見ればよく分かった。
残された唯一の部下である彼女は、ちらりと周囲を一瞥し、そしてふんと鼻を鳴らすと踵を返した。向かう方向は先ほど中佐が退場したものと同じである。
この先彼女に待ち受けるのは、称賛ではなく罰だろう。どれだけ正論でも、彼女は規律を乱した。罰は受けなければならない。
それでもその小さな背は縮こまることもなくぴんと伸びていた。
ファルケはぼんやりと消えていく姿を見送った。目が離せなかった。
華があるわけではなく、女としての魅力を感じるでもない。それでも目を引いたのは、不思議な空色の瞳の輝き。
感情に比例するように濃淡の変わるその瞳は、その時怒りと苛立ちに色を濃くしていた。
『冬の仔獅子』
そうあだ名され、滅多に笑うことのない可愛げのない小娘として話のタネになることの多い新兵だと、彼は後に知った。
そしてこれも後に知ったことだが、レーヴェ・ギーゼンはまた違う、ある才能で有名だった。体格、容貌、その他諸々が至って平均的なその年代の娘のそれである彼女が、一部の人間から噂されるには理由がある。
士官学校の教官たちから一部上層部へ。成績と共に送られた評。
レーヴェ・ギーゼンは並外れた記憶力を誇っていた。
件の中佐の家庭事情や周辺事情をつらつら並べ立てることができたのは、彼に対して思うところがあったから――言い方は悪いが根に持って――記憶していたわけではない。彼女は一度でも耳にした情報は大抵覚えている。
のみならず、それをいかに使えば最も効果を発揮するのか、的確に理解していた。
商家の娘として生まれ、幼い頃から見本人形のようにドレスや髪飾りで飾り立てられた彼女は、母に連れられて、上流夫人たちの集う伯母の店の茶会に顔を出していた。
如何に話せば夫人達の関心を引くことができるのか、喜ばせる会話となるのか。才能は幼心に母たちの役に立たねばという責任感から磨かれたようなものである。
「おい、ファルケ。お前の副官はこの間辞めたんだったか?」
「そうですけど、それがどうかしましたか?」
割と長いこと副官を務めてくれていた中尉は、先日故郷の父が倒れたということで、家業の宿屋を継ぐと退役した。以降副官が空席だったファルケに、毎度のことながら突然仕事を押し付けるついでのようにグラーツ大将は言った。
「新しい副官、いるか?」
「そりゃ必要だとは思いますが」
個人的にはいたらいたで楽だなーとは思うし、いなければ不便もあるが、この展開では何だか慎重になった方がいいだろうなとファルケの経験が告げている。
どうせろくなのを寄越さないのだろう。これまでも一度二度ならず、三度四度と矯正目的でとんだ部下を押し付けられてきた。
歯切れも悪く苦々しい表情を隠そうともしないファルケに、大将は豪快に笑い飛ばす。
「まあそんなに嫌そうな顔すんな。少々面倒くさいかもしれないだけで、少々不愛想なだけだ」
嫌な予感しかしない。
「せっかくですが」
またの機会に、と言おうとしたファルケを制するように、大将は一枚の紙切れを突き出した。
でかでかと、辞令と書かれている。
「……決定してから聞かないでくれませんか」
「あっはっはっはっは!ま、うまくいけば使えるかもしれんぞ?名はレーヴェ・ギーゼン。階級は准尉だが、頭は回る方だ」
「レーヴェ・ギーゼン?」
「おう、ほれお前が半年前位に絡んでたヤマがあるだろう。あれにも参加していたはずだ。何だ、知ってるのか?」
「知っている程ではないですよ」
「ふうん?」とどこか疑り深いまなざしを投げてくる上司を無視し、ファルケはもう一度彼女へ渡されるのだろう辞令を見た。
――レーヴェ・ギーゼン。
間違いなくそう記されていた紙切れが、仔獅子と鷹とを引き合わせるのである。