前日
「うふっ」
狐雪堂の近くのビルの屋上で女が笑う。
「今回は本気を出してくれるのようね。どんどんあの人の中の力が大きくなっていってるもの。ふふっ」
恍惚とした表情を浮かべて、狐雪堂を見下ろす。
その女の傍らで影が口角を上げる。
影は食らう相手の力が強ければ強いほど、自分が強くなる。
だからこそ、御子神を食らうのを楽しみにしている。それだけじゃない。御子神の守護者である瑠璃を食らうことも楽しみにしていた。なぜなら、瑠璃は魂の存在。器は本物じゃない。影は直接瑠璃の魂を食らうことができる。それが楽しみでならないのだ。
「ふふふ。あんまり急かさないの。すぐに食べさせてあげるから。もっと肥え太らせてから、ね」
女は影を愛しそうに撫でる。
もう一度、狐雪堂を見ると、小さく何事か呟いて女と影は消えた。
「ありがとうございました!」
瑠璃はお客を笑顔で見送った。
それにお客は手を振って応え、帰っていった。
瑠璃は店の中に戻って、品整理をしていると商品を見つけた。
「? 御子神さん」
「あ?」
瑠璃はその商品を持って、御子神の元へと行く。
「これ、うちにありましたっけ?」
その手には小さな腕輪があった。
「? こんなん注文した覚えねえな。もう一人の方に聞いてみる」
御子神は目を閉じて、静かになる。
「………。知らねえってよ」
目を開けて御子神が答える。
「そうですか。これ、どうしますか? もしいわくつきとかだったらお客さんに迷惑になりますし…」
腕輪を調べる。
表面はとても凝った装飾がしてあって、内側には見たこともない文字が彫られていた。
「これ、どこの文字なんでしょう。日本語ではないことは確かですし、象形文字とかでもないですよね?」
腕輪を御子神に渡す。
「これ……」
「知ってるんですか?」
「ちょっと待った。今、思い出しかけてる。誰だっけな。これつけてたの……」
うーんうーんと御子神は唸って思い出そうとしている。
「だめだ。思い出せねえ。とにかくは売らねえようにどっかに置いとけ」
「はい。じゃあ、ここの棚に置いておきますね」
「おお」
居間の隅にある棚の上に置く。
「他に知らない商品がないか調べてみますね」
「ああ」
瑠璃は店内の商品を隅から隅まで調べる。
「うーん。腕輪以外にはないですね」
「そうか」
「はい」
居間に戻ってきて、瑠璃はふうと一息つく。
「あの腕輪、落し物でしょうか?」
「さあな。もし、落し物だったとしても調べて異常がなければ売るぞ?」
「えー。それは落とした人に失礼じゃ……」
「うちの店で落としたのが悪い」
「うわぁ……」
瑠璃があり得ないものを見るように御子神を見た。
「なんだ?」
「御子神さんってひどい人ですよね」
「あ?」
瑠璃を睨む。それを気にせず瑠璃は続ける。
「だって、事実じゃないですか。変なとこ几帳面だし。なのに、こういうことに関しては即決するんですもん」
自分の湯飲みにお茶を注ぎながら言う。
「商売は即決が必要だろうが」
「……」
「なんだ?」
「御子神さんの口から商売なんて言葉が出るなんて……!」
瑠璃が感涙した素振りをする。
「曲がりなりにも商売ごとやってんだから、出るのは当然だろうが」
「また……!」
瑠璃が嬉しそうに笑う。
「今の御子神さんともう一人の御子神さんを足して割ったら丁度いいんでしょうね」
笑いながら言う。
「どういう意味だ」
「どういう意味もそういう意味ですよ。今の御子神さんは商売向きの態度ではないし、もう一人の御子神さんは商売に興味がなかった人でしたから。だから足して割ったら丁度いいな、と」
瑠璃は悪びれもせずにそう言う。
それに御子神は頭が痛くなったように、大きなため息を吐いた。
「ふふっ」
瑠璃は楽しそうに笑っている。
御子神をからかって遊んでいるようだ。
「けっ」
御子神は瑠璃から顔を背ける。
「あ、御子神さん。私ちょっと買い物行ってきますね。お昼の材料ちょっと足りないので」
「? まだ材料はあったはずだが?」
「洋食をつくると言ったでしょう? それで足りない調味料を買ってきます」
「……行く」
御子神が立ち上がりながら言う。
「わかりました。身支度してきますので、お店閉めておいてもらえますか?」
「ああ」
瑠璃は自室に戻っていった。御子神は羽織を着て、店を閉める。
「じゃあ、行きましょう」
小さなバッグを肩にかけて瑠璃が来た。
「ああ」
二人は並んで店を出て行った。
「はぁー食った」
御子神が満足そうに笑っている。
「どうでしたか?」
「うまい。今度でいいからもっと教えてくれ」
真剣な表情で御子神が言う。
それが可笑しくて笑って、答える。
「はい」
そう答えると御子神は嬉しそうに顔を輝かせた。
その嬉しそうな顔が幼く見えて、瑠璃の心がほんわかとした。
ほんわかとした気持ちのまま、ゆっくりと過ごしていると、
「御子神はいるか」
庭側の方から声をかけられた。
「統吾?」
庭から統吾が居間に入ってくる。
「いたか。ちょっと手伝ってくれ」
「は?」
「手伝え」
統吾が強制させるような笑みで言った。
「ちっ」
御子神は嫌々立ち上がる。
「あ、瑠璃」
思い出したように瑠璃に見向く。
「はい?」
「店は開けるなよ。今日はなんとなく悪い感じがする。来客が来ても無視しろ。もし親しい奴だったら庭から来るだろうしな」
「わかりました」
不思議に思いながらも御子神の言うことに従うことにした。
「早めに帰るが、もし何かあったらすぐに逃げろ」
「心配しすぎですよ。まだ夢だって大丈夫だったんですから」
「心配しすぎて悪いことはねえだろうが。いいな? 絶対言ったこと守れよ?」
御子神は瑠璃と視線を合わせて、重ねて言う。
「はい」
「よし。じゃあ、行ってくる」
「いってらっしゃい」
瑠璃は御子神を見送る。
「お前、本当に心配しすぎじゃないか?」
「うるせえ」
「まったく、お前も素直じゃないな」
呆れたように統吾が笑う。
「あ?」
「自分の顔」
御子神の顔を指して言う。
「どんな顔してる」
「すごく心配そうな顔」
統吾がそう答えた瞬間、御子神は自分の顔をこねくり回した。
「あはは。まったくお前は面白いな」
統吾が声を上げて笑う。
「うるせえ」
御子神は恥ずかしそうに顔を背けた。
「御子神さん行っちゃったし、暇だな~」
瑠璃は居間でぐーんと伸びをしながら言う。
この家での娯楽と言えば、本を読むことしかない。
だが、所持している分の本はほとんど読み終わってしまった。
ぱたりと倒れて、部屋をぐるりと見回す。
「本当に何もないな~」
そう呟きながら、うとうとしてきた。
瑠璃は寝ないように耐えていたが、睡魔に負けて寝てしまった。
瑠璃は夢の中にいた。
毎晩見ている夢の中。
今回はお昼寝だ。それでも見てしまった。
迫りくる影。そして、影と自分の間に立つ護らなければいけない人。
夢は変わっていない。
影はにたりと笑っている。
彼を屠ることができるからなのか、彼を屠ったことで私が絶望する姿を想像してなのか。
影はもう追うことをしていない。
目の前に彼がいるのだから。
「こんな夢、絶対変えて……」
瑠璃が言い終わるよりも先に影が動いた。
影は大きく口を開け、彼に向かっていく。
「だめ……!」
彼に手を伸ばす。
ばくん。
伸ばした手は彼に届かなかった。
目の前で彼は影に食われた。
伸ばした手は掴むものを無くして、空しく伸びているだけ。
影は彼を食ったことで満足したように消えた。
「そんな……」
その場にただ一人残される。
彼のいた形跡は一つもなく、元からいなかったかのようだった。
瑠璃は崩れ落ちた。
護ることができず、目の前で彼は食われた。
何もできなかった。
ただ、見ていることしかできなかった。
凄まじい無力感と喪失感に襲われる。
目からは静かに涙が流れていた。
目を覚ますと、視界が霞んでいた。
自分が泣いていることに気付いて、涙を拭う。
「………」
起き上がって、周囲を見渡す。
まだ御子神は帰っていないようだ。
部屋は少し暗くなっている。
もう夕方なのだろうか。
立ち上がる気力がない。
座ったままぼうっとする。
何もする気にならない。
夢で見たことが頭の中をめぐる。
無力感が瑠璃を苛んでいた。
「ただいま……って暗いな。瑠璃ー」
庭から御子神が帰ってきたようだ。
そちらに目を向ける。
「あ。瑠璃いるじゃん。なんで、電気点けないで……」
御子神が瑠璃に気付いて、近づいてくる。
「瑠璃。何があった?」
電気を点けるより先に御子神は瑠璃の元へと駆け寄った。
心配そうな顔で瑠璃に近寄る。
「御子神…さん。おかえりなさい……」
瑠璃は力なく笑う。
「そんなことはいい。何があった?」
瑠璃の前に座って聞く。
「何が……」
頭の中でまためぐる。
「な、何も……ないです」
声が震えていた。
声だけでなく、小さく体も震えていた。
「………」
御子神は瑠璃が話すことはないと判断すると、瑠璃の頭を抱き寄せた。
「大丈夫だ。落ち着け」
御子神の腕の中で瑠璃は震えを押さえようと必死だった。
そんな瑠璃をわかってか、御子神は優しく瑠璃の頭を撫でていた。
少しずつ瑠璃が落ち着いてきた。
「ありがとうございます」
瑠璃が自ら御子神の腕の中から出た。
「それで、何があったんだ?」
「お昼寝してたら、怖い夢を見てしまっただけですよ」
「……影の夢ではなかったんだな?」
「……はい」
「正直に答えろ。影の夢ではなかったんだよな?」
御子神が真剣な目を瑠璃に向けた。
「………影の、夢でした」
「どんな夢だった」
「食われる夢です。もう、終わりが近いようです」
瑠璃が落ち込み気味に言う。
とうとう影がやってくる。
食らいにやってくる。
御子神を、瑠璃を食らいにやってくる。
「……そうか。早くて今夜にも来るな。お前はゆっくり休んでおけ」
御子神はぽんぽんと瑠璃の頭を撫でた。
瑠璃は奥歯を噛み締めていた。
絶対に夢の通りになんかさせない。
絶対に護ってみせる。
瑠璃の中の決意が大きくなる。
こんなに優しい御子神だからこそ、護らなくちゃいけない。
目の前で何かの決意を固めたような御子神を護るために、瑠璃はゆっくりと戦闘態勢へと移行する。
今のままじゃ勝てない。それはわかっている。
でも、御子神の代わりになることくらいはできる。
「御子神さん」
「なんだ?」
いつもとは違った優しい声で御子神は答える。
「絶対に護ってみせますから」
さっきまで震えていた瑠璃とは違う。
御子神は今の瑠璃の様子に苦虫を噛んだような表情をした。
瑠璃は改変した夢の通りにさせないつもりだ。
それがわかっているからこそ、御子神は歯がゆかった。
瑠璃は自分が犠牲になることを厭わないだろう。
護りたいのに、護らせてくれない。
とても、歯がゆかった。
御子神は瑠璃を護るため、瑠璃は御子神を護るために。
二人はお互いがお互いを護るために、影に向かっていく。




