055 ツガイ狂いを阻止するために1
満月の日は、殿下と会わないこと。
お互いそう決めていたので、その日の夜。
騎士学校、女学院との交流会に向け、連日慣れないクッキー作りに励みすぎて疲れていた私は、すでに夢の中だった。
「おい、大変だ」
自分のベッドの中にいるはずなのに、シリルの声がして、わさわさと体を乱暴に揺さぶられた。
「えー、眠い。あっちへ行ってよ」
私は布団を頭から被ろうと引っ張った。
「ヨシュア殿下が事件を起こしたんだってば」
シリルが叫ぶ声で、私はパチリと目を開けた。
「どういうこと?」
「いいから早く!!」
「え」
戸惑う私は寝巻きのまま、慌てた様子のシリルに連れられ、馬車に乗せられた。
そして到着したのは、いつぞや訪れた大豪邸。ミランダ様のご実家であるマーシャル邸だった。
ただ、前回来た時と明らかに様子が違う。
私が寝巻きのまま、上にシリルの薄いフロックコートと羽織っただけという、頼りなさすぎる状況もそうだけれど、屋敷の中から、焦った様子の執事が駆けだして来たからだ。確か名前は、サミュエル・フォーブスと言った気がする。
「シャーロット様、よくぞいらっしゃいました!!」
「一体、何があったんだ?」
シリルは私を連れて馬車から降りると、執事に尋ねた。
「ヨシュア殿下が……。とにかくこちらへ」
執事は青ざめた顔で急ぎ足で歩き出す。
私は置いて行かれないように、必死に後を追いかけた。
ようやく辿り着いた先は、マーシャル邸の大きなサロンだった。入り口は中を覗き込もうとする人で溢れかえっている。
「あっ、シャーロット」
人混みの中から、私たちに気付いたコリン様が、駆け寄って来る。
「え、コリン様?」
私はまさかこんな所で会えるとは。
私は目を丸くして驚く。そしてすぐに黒いスーツ姿でビシッと決めた彼に対し、自分が寝間着にシリルのクロックコートだけという、何ともみっともない格好であることに、急に恥ずかしさが増し、今すぐ回れ右をして自宅に戻りたくなった。
「一体この騒ぎは何なんですか?」
シリルが厳しい表情でコリン様にたずねる。
「どうやらミランダ嬢がヨシュア殿下に迫ったようだ。今日は満月だというのに」
コリン様は、顔を曇らせながら答えた。
「ミランダ様が……殿下に」
私はコリン様の言葉に、ショックを受けた。
ミランダ様は確かに殿下に好意を持っているようなそぶりを見せていたが、まさかそんな強硬手段を取るとは思いもしなかったからだ。
「満月の夜は、ツガイに対する反応が良くも悪くも敏感になる。その上、殿下はすでに君にツガイ反応を示している状態だ。よって、他の者が愛を囁いた所で嫌悪や憎悪を抱くしかないというのに」
コリン様はまるで自分が体験したかのように、私に告げる。
でもきっと、ツガイを亡くした経験があるからこその意見なのだろう。
そしてヨシュア殿下は、どうやらミランダ様に言い寄られた。
それが今起きていることのようだ。
「それで、ヨシュア殿下は今どこに?」
シリルが尋ねる。
「サロンの控え室にいるようだ。すまない、道を開けてくれ。ちょっといいかな」
コリン様は、まるでこの屋敷の主かのように、堂々とした声をあげると、私たちを先導してサロンへの道をひらく。
私は前をコリン様、後ろをシリルに守られながら、おずおずと人の間を通り抜ける。
「まぁ、なんて格好なのかしら」
「あれは確か殿下のツガイだった……」
「バーミリオン伯爵家のシャーロット嬢ですわね」
「だったら着替えて来るべきではなくて」
「きっと殿下のために、慌てて駆けつけたのよ」
「寝ている所を起こされたみたいだし、仕方がないわ」
私の、人前に出るには到底あり得ない格好を見て、様々な意見が飛び出す。
でも批判されるのは仕方がないことだ。
なぜなら、淑女たるもの公共の場では、適切な服装を心がける必要があるとされているから。
淑女たる者、常に清潔で整った服装であることが求められ、肌の露出を控えめにしなければならない。
よって、『淑女の心得』というマナーブックに記載される模範的な格好とは真逆である私の惨めな寝間着姿は、何を言われても耐えるしかないという状況。
それでも好意的に思ってくれる人の意見も耳にしたので、私はうつむきがちな顔をあげる。
「可哀想に。あの子たちの母であるマリア様がご健在ならば、こういう時も心強いでしょうに」
誰かが呟いた言葉に私はギュツと唇を噛む。
「ごめん、あまりに焦ってて、僕は気が回らなかったみたいだ」
今の囁きがシリルにも聞こえてしまったのだろう。背後から落ち込んだ声で、謝罪の言葉をかけられた。
「大丈夫、一大事だもの」
私は振り向きシリルに伝える。
うまく笑えた気はしないけれど、慰める気持ちは伝わったはずだ。
だって彼とはお腹の中から一緒だったのだから。
「すまない、通してもらえるかな」
コリン様が人をかき分け、私は彼の背中に下がる、馬の尻尾みたいな髪の毛を目印に追いかける。
そして、ようやくサロンの部屋の中にたどり着き、私は固まる。なぜなら、部屋の中にはあり得ない光景が広がっていたからだ。
「……!」
思わず言葉を失うほど、乱雑に乱れた室内。まるで盗賊が侵入したかのように、室内は乱雑に散らばっている。家具はひっくり返され、床には書類や装飾品が散乱しており、壁にかけられていた絵画も斜めにずれて垂れ下がっている。
普段は静かで品位に満ちた室内であろう場所に広がる混乱の様子は、まるで暴風雨が通り過ぎた後のよう。ソファーのクッションは床にばら撒かれ、本棚からは本が床に散らばり、燭台や花瓶は床に倒れて割れたり曲がったりしていた。
明らかに何者かがこの場所で暴れた痕跡があり、誰かの侵入や犯行の影が室内にまとわりついているように感じられる。
「これは……」
私と同じように、室内の悲惨な状況に呆然と立ち尽くすシリルが呟く。
「あんたのせいよ!!」
突然横から赤い物体が見えたと思ったら、ミランダ様が私に突進してきた。
「あんたが殿下の心を奪っていくからいけないのよ!」
私に掴みかかってきたミランダ様は叫ぶ。そして私を力任せに突き飛ばした。私は突然の出来事に対処できず、そのまま床に尻もちをつく。
「シャーリー!」
シリルが慌てて私を抱き起こそうとするが、ミランダ様がそれを許さないとばかりに、シリルに体当たりした。
「ちょっと、何するんですか」
シリルは転ぶことなく踏みとどまり、私を庇いながら抗議の声をあげる。
「うるさいわね。部外者は引っ込んでなさいよ!」
「部外者ではありませんよ。私はバーミリオン伯爵家のシリル・バーミリオン。彼女の双子の兄ですから」
シリルは厳しい表情で名乗ったけれど、ミランダ様は聞く耳を持たないようだ。そしてシリルの腕の中から私を無理やり引き離そうとした。しかしシリルも負けていない。踏ん張ってミランダ様を阻止すると、さらに抗議の声をあげる。
「シャーリーは殿下のツガイなんですよ!これ以上妹を傷付けたら、流石に私も怒りますよ!」
そんな二人の騒ぎを聞きつけたのだろう。隣の部屋からマクシミリアン様が飛び出してきた。
「あぁ、良かった。早くこちらへ」
マクシミリアン様はミランダ様を完全に無視し、私に手を差し伸べる。
私は一瞬戸惑ったが、シリルが背中を押してくれたので、素直にその手を取り立ち上がる。そしてそのままマクシミリアン様の後につき、急いで隣の続き部屋へと向かう。
「ありがとうございます」
ミランダ様から少し離れた場所まで来ると、私は助けてもらった感謝の気持ちを伝える。
「いや、悪いのはあの子だから」
シリルはそう答えると、私の服に付いたホコリを優しく払い落としてくれる。そしてマクシミリアン様は心配そうな顔で私を覗き込む。
「お怪我はありませんか?」
「大丈夫です。シリルが守ってくれましたから」
私はあまりのことに驚き、何もできなかった自分を恥じる。
「落ち込んでる暇はありません。殿下を助けてあげて下さい。それが出来るのは、ツガイであるシャーロット様、あなただけなのですから」
マクシミリオン様に力強く言われ、私は下ろした手をギュッと握りしめる。
確かにそうだと思ったから。
「殿下はどうされたんですか?」
私はマクシミリアン様にたずねる。
「とりあえずこちらへ」
マクシミリアン様に促され、私はサロンの控え室に入室した。
そして私はまたもや驚き固まる。そこには窓から差し込む満月の明かりの下、床に膝を抱えて座り込んだヨシュア殿下がいたからだ。顔色は悪く、その顔は苦痛に歪んでいるようにも見える。
「シャーロット嬢……助けて……」
ヨシュア殿下が私を見るなり、まるで神にでも救いを求めるかのように助けを求めた。
私はその痛ましい姿に胸が掴まれたように苦しくなる。
「ヨシュア殿下、大丈夫ですか?」
私は慌てて駆け寄ると、座り込む彼の横に膝をつける。
「シャーロット嬢……僕は……僕は……酷いことをしてしまったみたいだ」
彼は苦しそうに顔をあげると私を見た。そして私の存在を確かめるかのように、震える手をこちらに伸ばしてくる。
「ヨシュア殿下」
私は思わずその手を取り、彼の名前を呼ぶ。
「シャーロット嬢……僕はもう……ごめん、無理だったみたいだ」
彼はそう呟くと、私の手を握り返し、そのまま意識を失った。
「殿下!」
私は慌てて声をかけるが反応がない。そして脈を測ろうと彼の首に触れようとした瞬間、その手をコリン様に掴まれたかと思うと、そのまま引き離された。
「コリン様?」
私が驚いて見上げると、彼は真剣な眼差しで私を見ている。
「君はいま、何をしてるか分かってる?」
「え……」
私はコリン様の言葉の意味が分からず首を傾げる。
すると彼は悲しい表情を私に向け、口を開いた。
「ヨシュア殿下は今、本能にあらがっている状態なんだ。でも君は殿下の本能を引き出すようなことをしている」
「どういうことですか?」
私は混乱してさらに首を傾げる。
今まで殿下は満月の日、気持ちが昂った時は私に触れると落ち着いていた。
まさか私を見て気絶するほどツガイ反応を起こすなんて、今までなかった。だから私には、触れる事以外で、正しいツガイの取り扱いなんてわからない。
「君が自分に反応を示さない。だから殿下は君を自由にしたいと願い、必死に本能を抑えてきたのだろう。それが彼をどれだけ苦しめているのか。君にはわかるよね」
私はコリン様の言葉にハッと息を飲む。
まさか私のせいで、殿下はこの状況になってしまったというのだろうか。
「今は彼の中の感情がどちらに転ぶかわからない。君に触れ、気を失ったという事は未だ殿下は本能に抗っているのだろう。次に目が覚めた時、君に危害を加えない保証はないという事だ。愛されないツガイは相手を殺す事もあるのだからね」
コリン様は険しい表情で、私に残酷な言葉を口にした。
「そんな……」
私は思わず助けを求めるように、殿下を支えるマクシミリアン様を見つめる。
できればいつもの言葉が欲しかった。
「残念ながら、コリン様のおっしゃる事は正しいかと。殿下はあなたを思い、ご自身のツガイへの気持ちをコントロールなさろうとしていた。しかし、ミランダ様に満月である本日、身体的接触を図られ、感情が爆発されたのでしょう。私もあなたがいらっしゃれば、いつものように落ち着くと思っていたのですが」
マクシミリアン様はギュッと眉根に皺を寄せた。
「無駄足を踏ませてしまい、申し訳ない」
苦しそうに私に告げるマクシミリオン様は、いつものようにおどけた顔で、「お気になさらず」とは言ってくれなかった。
むしろ私はもう必要ないと、はっきり口にした。
私の心はまるで暗い海の中で溺れ、一人もがくように苦しくなる。
「今まで抑えこんでいたから、あんな事になったのか」
シリルが顔を顰めながら呟く。
私の脳裏に隣の部屋の惨状が思い出される。
あれをやってしまったのは殿下なのだ。
そして、あそこまで殿下が感情を爆発させた原因は、ミランダ様が殿下に迫ったから。そして殿下がずっと、私への一方的な感情を抑え込んでいたから。
つまり、ほとんど私のせいだ。
「ごめんなさい」
私はどうしたらいいのか分からず、ただひたすら殿下に申し訳ない気持ちでいっぱいになるのであった。




