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044 現れた痣1

 

 コリン様のアトリエを一人で訪れた。

 その時私は彼に対し、特別な感情を抱いている事を自覚してしまった。


 でも私はヨシュア殿下のツガイだ。


 つまり、初恋と呼べる気持ちを自覚した瞬間、私は失恋した事になる。


 切なくて、やるせない気持ちはあるけれど、どうする事も出来ない。


 抱いてしまった甘い気持ちをもはや諦めるしか出来ない私は、持ち前の「ま、いっか」の精神を全力で発揮し、前向きに考える事にした。


「こうなったら、作品に昇華してやるんだから!」


 もはやそう思うしかない。


 無理やり前を向いた私は、気付いたばかりの甘い気持ちに蓋をして、過ぎ去った恋に「さようなら」と明るく手を振り、前に一歩足を踏み出しかけていたつもりだった。


 けれど、また私を惑わす事件が起きてしまったのである。


『マーシャル商会のご令嬢に、ヨシュア殿下のツガイを示す紋章が!!』


 新聞の見出しを軽やかに飾った、衝撃の事実。


 そしてこの件に激怒した私の父は、単身王城に乗り込んだ。


『もう我慢ならない!!大事な娘をあいつにはやらん!!』


 嫁に出す前の父親にとって、もはや定番のような言葉を叫び、王城へ肩を揺らし徒歩で向かう父を見送った私は思った。


「歩いて行くんだ……」


 流石に王城に入れないという事はないだろう。しかし、こんな時にも「馬車を使う」という選択肢が思い浮かばない父を不憫に思う。


 やはり貧乏は、辛いことばかりだ。


 そんな落ち込む気持ちのまま、美術学院を欠席した私は、これ幸いと自室でダラダラ惰眠を貪り過ごした。午後に目が覚め、最近ジュリエットに「面白いよ」と借りた本を読み、それから特にやることも思いつかなかった私は、スケッチブックに何となくコリン様を描く事にした。


 アトリエの窓からそよぐ風に黒髪をなびかせ、湖のように美しく輝くブルーグレーの瞳。細く長いまつげがそんな彼の瞳を一層引き立て、繊細な眉が優雅な顔立ちを飾っている。顔の輪郭は整然としており、その肌は白くて滑らか。まるで彫刻のように完璧な美しさ。


 記憶の中にだけ存在していたコリン様の美しい顔が、私の戦友とも言えるスケッチブックに描かれた瞬間、心はまだ彼に一直線に向かっているのだと、自分で気付く。


「なにやってんのよ、馬鹿みたい」


 自分で自分の首を絞めた状態に気持ちが萎えた私は、全てを忘れたいと思い、逃げるようにベッドにその身を横たえた。


 そんなふうに一日を過ごしていた私の元に、シリルがやってきて、父が帰宅した事を伝えてきた。一体どうなったのだろうと、寝間着の白い綿のワンピースのまま部屋を出ようとすると。


「まずいって、制服でいいから着替えて」


「家族だからいいでしょ?」


「そういう問題じゃないんだってば。いいから着替えて!」


 何故かシリルに叱られた私はムカッとしながらも、見える所に吊るされており、着慣れた美術学院の黒いワンピースに着替えた。


 無事着替えを済ませサロンに顔を出した私を迎えた父は、手土産と言うには烏滸がましいほどたくさんの戦利品を持ち帰ってきていた。


「陛下が我が領地の鉱山に融資をしてくれるそうだ。それと、年代もののワインを私に「どうしても」と言って持たせてくれたんだ。私の可愛い娘を散々傷つけておいて、それで許される訳がないだろうに。まったく王家の連中は!」


 不敬極まりない言葉を吐きつつ、父は上機嫌な雰囲気を隠しきれずにいた。


「いったいこれは……」


 私が唖然と呟くと。


「すまない。ぜんぶ僕のせいだ」


 父の影からヌッと現れたのは、黒いフロックコートに身を包むヨシュア殿下だった。




 ◇◇◇




 現在、私は猫の額ほどしかない部屋で、父が手土産と共に連れてきたヨシュア殿下と対面している。


 どうして私の部屋で?と思わなくもないけれど、父が「しっかり話して来なさい」と私と殿下を部屋に押し込めたのだから仕方ない。


 きっとサロンで陛下からもらったワインを、さっそくいっぱい引っかけるつもりなのだろう。


 つまり私は、父に厄介払いされたという状況だ。


 因みに私は殿下と二人きりではない。


 ヨシュア殿下あるところに、この人あり。

 むしろこの人が殿下のツガイでいいのでは?


 ついそう思わせ、私に新しい性癖を開きかける彼は、近衛騎士でもあり、ヨシュア殿下の従者でもあるマクシミリアン様。


 彼はいつものように壁際に立ち、殿下と私が不適切な距離にならないよう見張っている。


 ただし、今日は手の届くすぐそばで。


「おきになさらずに」


 本棚の前に立つマクシミリアン様に困惑した表情を向ける私に、お得意の言葉がかけられる。


「何があっても、君が僕のツガイだと思う気持ちは変わらないから」


 突然、ヨシュア殿下が悲痛の面持ちで私に告げた。


 実に深刻な問題を前に、ヨシュア殿下は私のベッド脇に置かれた質素な椅子に腰掛けているという、ありえない状況。


 しかも元々狭い部屋の中には、画材道具やら書きかけのキャンバスやら、香水を作るための蒸留器などが散乱している。


 しかもベッドの上にはスケッチブックに練り消しゴムのカス、羽箒などに紛れ、『婚約破棄をしたいと願う伯爵令嬢の事件簿』という題名の、殿下に見られたら大変まずい状況になること確定な小説までもが置かれている。


 ジュリエットが面白いと貸してくれた時には、何も思わなかった。

 けれど今この状況でその題名を思うと、かなり良くない気がする。


 現状問題の小説は辛うじてスケッチブックの下からはみ出ている程度なので、気づかれる心配はなさそうだけれど、気が気がじゃない。


 つまり現在の私は、落ち着いて話が出来る精神状態とは言い難いということ。


 その上、殿下に向かい合うように配置された椅子に座る私の膝は、わずかに数ミリ動かせば、殿下の膝に触れてしまう距離だった。


 まさにリアル膝を合わせて、という状況だと言えるだろう。


 いいのだろうか、この状況は。

 殿下が発情しないだろうか。


 その事を不安に思う私は、やっぱりマクシミリオン様の顔をうかがってしまうわけで。


「物理的に仕方がないですから、お気になさらず」


 やはりさっきと同じような言葉が返ってきた。


 物理的と言われてしまえば、もう何も言えない。

 私の部屋が狭いのが悪いのだから。


 私は雑念を払いのけ、新たに起きた問題に向き合う事にする。


「新聞によるとミランダ様のお体に、私と同じような痣が出来たとうかがいましたけれど」


「そのようなんだ」


 殿下から曖昧な返事が返ってくる。


「ヨシュア殿下は、ご自身で確認されてないんですか?」


「それは、してない。その、痣が出た部分がちょっと……」


 言いづらそうに黙り込む殿下。


 新聞記事には、ミランダ様に出現した痣の位置については詳しく記載されていなかった。


 因みに私は首元を殿下にしっかり見られたし、何ならものすごく沢山の人にペタペタ触られたと記憶している。


 そうされないという事は、ミランダ様の痣は偽物だと即判断されたと言うことだろうか。


 私は真相が語られるのを静かに待つ。


「現在のところ、ミランダ様の痣が胸部に現れた為、男性では調べる事が出来ずにおります。もちろん陛下もご覧になっておりません」


 黙り込む殿下の代わりにマクシミリアン様が現状を伝えてくれた。


「なるほど、おっぱ……」


 私は紳士のお二人の前で、淑女らしからぬ言葉を言いそうになり、慌てて口を閉じる。


「少しは成長されたようで、安心致しました」


 マクシミリアン様から、爽やかな笑顔で嫌味を言われた。


 しかし、私は間違った事を言おうとしていたわけではない。なぜなら、胸部とは、端的に言えば「おっぱい」という事だからだ。


「なるほど、殿下が確認出来ない理由は理解しました」


 私は澄ました顔で告げておく。


 流石に未婚女性の裸の胸を見たら、ツガイどうこうの前に結婚まで一直線は確実だ。よって、殿下が直接確認することは不可能だ。


 とは言え、こちらからすれば、ミランダ様の痣がどこにあろうと関係ない。本物かどうか、きちんと確認してもらわないと困る。


 その痣一つで私の運命は大きく変わるのだから。


「だとすると、どなたもミランダ様の痣を確認出来ていないのですか?」


 みんなが無理なら、私が追い剥ぎになった勢いで確認しますけど?と意気込んだ気持ちで告げたところ。


「シャーロット様をお調べになった王城の侍医が、あなたに行ったように痣を確認しようとしました。しかし、なかなか本人の同意を得られず、といった状況です」


 マクシミリアン様は困り果てたといった表情を私に向けた。


「確かに誰かに見せるとなると、嫌だと思う気持ちはわかりますけど」


 特に男性となると、お医者様だとしても拒みたくなる気持ちはわからなくもない。


 そもそも、女性の身体の露出やプライバシーに対する概念が非常に厳格である我が国では、女性の身体を公然と見せることはタブーとされている。そのため、貴族の娘は病気や健康上の問題があったとしても、胸部を医者に見せることは避けられる事が多い。


 そのため、医師が女性の病状を診断する際には、手袋をはめて触診を行い、胸部やその他の部位の異常を感じ取る方法をとっている。しかしながら、このような診察も慎重に行われ、女性の体を無理に露出させることなく、個人のプライバシーを尊重するよう心がけられている。


 つまり、本人が拒否すれば、何人足りとも確認する事が出来ないという事だ。


 それにそもそも胸部に出来た痣は服の上から触っただけでわかるものではない。現に私の痣も、皮膚に赤くシミのように広がるだけで、他の部分の皮膚と何ら代わりはない。だからこそ、目視できなければ確認する事は難しいだろう。


「一応、母上や女性の看護師は、彼女の痣を確認したんだ。もちろん君にしたように検査を行ったみたいなんだけれど……」


 またもや言いづらそうに、黙り込むヨシュア殿下。


「それで、本物だと認められたって事ですか?」


「うん、そうみたいだ」


 力なく頷くヨシュア殿下。


「だとすると、私はどうなるんですか?愛人とかになるってことですか?」


 自分の今後が真っ先に気になる私は、迷わず頭に浮かんだ疑問を口にするのであった。

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