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039 救世主コリン様

 マーシャル商会から新発売された絵の具チューブ。それを所持しているかどうか、勇気を出してコリン様にたずねたところ、答えはイエスだった。


 ならば譲って欲しいと願ったものの、流石に高価なものだし、人から貰ったものだから譲れないと言われてしまった。


「ですよね……ご無理を言ってすみません」


 最後の望みが儚く散り、私はがっくりと項垂れる。すると、意気消沈する私を見かねたのか。


「でも、私に君を描かせてくれたら貸してあげるよ」


 コリン様は私をモデルに絵を描きたいと提案してきた。


「それって」


「君が私のアトリエで絵を描く。その姿を私に描かせて欲しいということだ」


 何だかカオスな事になりそうだなと思いつつ、背に腹は代えられないと私は了承した。


 救いの神のごとく現れたコリン様のお陰で、私は窮地を脱した。

 ホッと胸をなでおろし、気分が上昇しかけていたのだが。


「失礼ですが、それは許可されないと思います」


 黙ってやりとりを聞いていたはずのシリルが横槍を入れてきた。


「それはどうしてかな?」


 すかさずコリン様がシリルにたずねる。


「先程のお話だと、絵の具を貸し出す対価とし、ウィンドリア様は妹を描きたいとの事でした。しかしあなたのアトリエに妹が通う事を、父が許可するとは思えません」


「しかし、君の妹さんは困っているようだけれど?」


「そもそも妹はヨシュア殿下のツガイです。それにこう見えて伯爵家の娘でもありますので、家族以外の男性と二人きりになるなど、私でも許しません」


 こう見えては余計だが、シリルはきっぱりと断言した。


「そうか。それは残念だ」


 コリン様は本当に残念そうな表情を浮かべると、改めて私へ向き直る。


「では、今回の話はなかったということに」


「待ってください。私はどうしても、コンクールに出展したいんです」


 あっさりと引き下がるコリン様に、私は食い下がる。ここで諦めたらやられっぱなしのままだ。それだけは絶対に嫌だ。


「私は構わないんだけどね。でも君の兄上殿の言う事だって、もっともだと思うけどな」


 私達よりずっと先を行くコリン様は、大人の意見を私に告げた。


 間違ってもいない、至極真っ当な意見だ。


「でも」


「シャーリー、いい加減にしろ」


 シリルが鋭い口調で私を叱責した。


「お前のわがままのせいで、どれだけの人に迷惑がかかると思ってるんだ。それにヨシュア殿下のツガイであることをもう少し自覚して行動しろよ」


「そんな言い方ないじゃない。私だって好きでツガイになったわけじゃないんだから!」


「だけどツガイなんだからしょうがないだろ!」


 売り言葉に買い言葉。私とシリルは大声を出して喧嘩しはじめる。そのせいで周囲にいた人たちの視線が一斉に私たち三人に注目し始めた。


 流石にまずいと私は小さくなる。

 なんせ今私は、時の人なのだから。


「目立ってしまったようだね」


 周囲のざわめきに紛れるように、苦笑いでコリン様が呟く。


「……っ、すみませんでした……」


 シリルはバツが悪そうに謝罪を口にした。


「ごめんなさい」


 私も、シリルとの痴話喧嘩に巻き込んでしまった事をコリン様に素直に謝る。


「さっきの話だが、私のアトリエに来るのが問題なのは、男女が二人きりになることのようだ」


 コリン様がシリルに確かめるように言った。


「はい、その通りです。もちろんウィンドリア様と妹に何かあるとは思いません。けれど世間体がありますので、私たちは誤解を生むようなことはしてはならないのです。ヨシュア殿下にもご迷惑をおかけしてしまいますので」


 シリルがコリン様の言葉を肯定するように答える。


「ならば、誰かと共に来れば良いのではないだろうか?」


「え?」


 私は言われた意味がわからず、目を丸くする。


「ヨシュア殿下が心配すると言うのであれば、彼に護衛を派遣してもらっても構わないし、私の方で知り合いの女性に来てもらっても構わないよ」


「あの、それは」


「つまり、アトリエに出入りするのは私と君。二人だけではない状態にすれば構わないという事だろう?」


 確かに、コリン様のおっしゃることは筋が通っている。


「どうだろう? この案で妥協してくれないか?」


「是非それでお願いします」


 私はこのチャンスを逃すまいと、しっかり頭を下げる。


「兄上殿はどうだろうか」


「一応父と、それからヨシュア殿下にお話をしてから決める事になるとは思いますが、誰かいるのであれば……」


 シリルも渋々といった様子ではあったが、コリン様の提案を受け入れた。


「じゃあ、そういう事で。また連絡して。じゃあね」


 コリン様は軽く手をあげると、私たちに背を向け颯爽とその場を立ち去っていく。


「ありがとうございます!!」


 私は感謝の気持ちを込め、コリン様に頭を下げたのであった。




 ***




 その日、自宅への帰り道。私は問題が一つ解決したことで、心が幾分軽くなっていた。


「やっぱり持つべきものは、有名画家の知り合いね」


 殿下の馬車に比べ、遥かに乗り心地の悪い辻馬車の座面に座り、ガタガタと体を揺らされながら、私は満足げに告げる。


「二人きりじゃないとしても、ツガイのいる女性が若い男の家を訪問するだなんて、全く褒められた事じゃないと思うけど」


 納得がいってないのか、向かい側に座るシリルは私をやんわりと責めた。


「その点なら大丈夫。コリン様と私は絵描き仲間なだけだし」


 私はケロリとした顔でそう答えると、シリルは呆れたように溜息をつく。


「傍から見たら、独身の男女だ」


「それは絵に興味がないから、そういう色眼鏡で見ちゃうだけよ」


「そもそも絵を描かない人のほうが、圧倒的に多いと思うけど」


 減らず口を叩くシリルを私は睨みつける。


「それに、シャーリーにその気がなくても、あいつには下心があるのかも知れないし」


「は?」


 私はシリルの下世話な勘ぐりにムッとする。


 コリン様は見た目がいいだけじゃない。私が迷った時は的確な助言をくれるし、今回だって助けてくれた。何より絵の才能に溢れたとても大人で素敵な人だ。


 そんなコリン様を悪く言うのは許せないと思った私は、シリルに反論した。


「コリン様はそんな人じゃないし、俗物と一緒にしないで。あの方は、みんなが憧れる崇高なる有名画家なんだから」


「シャーリーはコリン・ウィンドリアの事をどう思っているの?」


 突然シリルに問われ、私はありのまま思っている事を伝えるために口を開く。


「素敵な人よ。私の悩みに真剣にアドバイスをしてくれたり、絵の具だって気前よく譲ってくれたりと、親切で優しい人だもの。それに大人だし」


「……なるほど。本気でそう思っているという事か」


 シリルは私の答えを聞くと何やら考え込みはじめた。そして一人で頷くと再び私に視線を向けた。


「シャーリーがそう思うならそれでいいよ。でも男なんて、わりとみんな同じだ」


 珍しくシリルが辛辣な言葉を吐いた。


「それを言ったら、ツガイ反応を示したヨシュア殿下の方が、鼻息荒く私に抱きついてきたし、よっぽど変態だったわ」


 確かにコリン様に手を握られた事はある。しかしあれは、シリルが含ませた言い方をしたものとは違う。鉛筆の動かし方、筆圧、適切な視点や構図の重要性を学ぶためのものであって、技術的な指導の一貫だ。


 それに比べてやめてと言うのに私をバックハグした挙げ句、匂いを嗅ぐ殿下は、ツガイという言葉で許されているけれど、一歩間違えれば確実に犯罪者だ。


「殿下がそうなってしまうのは、ツガイ同士だから仕方ない」


 ほらまた出たと私はうんざりする。


「ツガイだからって何でも許されるのは間違いよ。片方が嫌だと感じているのに、無理矢理抱きつくのはツガイだろうと犯罪だわ」


 私が声高々に宣言すると、シリルは驚いた顔をする。


「嫌だったの?」


「そりゃ、いい気はしなかった」


「本当にツガイなんだよね?何だか信じられない気分になってきた」


 シリルは真面目くさった顔で首を傾げた。


「私だって未だに信じられないわ」


 だからシリルが疑いたくもなる気持ちはよくわかる。


「それに、さっき私の世間体を気にしてくれてたけど、そもそも私は、殿下に媚薬を盛った危険な女で、貧乏な伯爵令嬢。これ以上名誉を傷つけられるような事は起きないと思うし」


 どん底の評判を獲得した私は、ある意味これ以上落ちようがない。その点だけは、むしろ安心できるくらいだ。


「それはもう解決しただろう?」


「都合良く解決したと思ってるのは身内とヨシュア殿下だけよ。一度立った噂は二度と消えないんだから」


 現にそういう噂を綺麗さっぱり人々の脳裏から消し去る事が出来ないせいで、私は新聞に色々書かれてしまっている。

 人々の脳裏に染み付いた悪い評判を払拭するためには、多くの時間と努力が必要だ。しかも信頼を取り戻すための行動を起こしたとしても、必ずしも評判が元通りになるとは限らない。


「そもそも、媚薬の件だってミランダ様に仕組まれた可能性があるわけだし。それなのに逃げ切ったままで、彼女は何の罰も受けてないし」


 世の中「疑いがある」だけでは裁けない。証拠がなければ本人の自白が必要だからだ。


 けれどミランダ様は私にやったと疑われたって、証拠がない限り彼女が認めるとは到底思えない。


 だからずっと、彼女にやられっぱなし。


 それに、そもそも私に起こる悪い事は、全部ヨシュア殿下のせい。彼が私をツガイだなんて思わなければ、私は絵を破壊されずに済んだかも知れないし、新聞で「貧乏」「伯爵令嬢のくせに美術学生」「媚薬を盛ろうとした悪女」といったふうに、誹謗中傷される事もなかったはずだ。


「ぜーんぶ、ミランダ様とヨシュア殿下のせいだわ」


 私は折角落ち着いた気持ちが、再度荒ぶり出す。


「ミランダ嬢はいいけど、殿下は違う。ある意味ツガイは自分の意志で選べないわけだし」


 他人事だからか、シリルは呑気な意見を口にする。


「とにかく私は、ずっと彼女にやられっぱなしってこと。そんな私が彼女をギャフンと言わせるために出来ることは絵を描く事よ。誰が何といおうと絶対コンクールに作品を出展して、見返してやるんだから」


 キッパリと断言する私を見て、シリルは呆れた様子でため息をついたのであった。

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