10:交渉
冷たい風が頬を撫でた。
ふと見上げた空はどんよりと曇っていて、もうすぐ雨が降りそうなことがすぐにわかった。
濡れる前に寮に戻りたい。
そんなことを思いながらも、校舎裏から離れようとはしなかった。
理由は、ここでノエルと合流する約束をしているからだ。
肩の力を抜いた時、二人分の話し声が聞こえてきた。そして、それは少しずつ近づいてきた。
私は息を吐き、姿勢を正した。くるりと声が聞こえてくる方角に体の向きを変えた時、タイミング良く角からノエルが現れた。
「エンネ、遅れてごめん」
眉尻を下げて、ノエルは真っ先に謝罪をした。それに気にしないでと首を横に振った。
聞かなくても苦戦したのは肌で感じた。その原因である人物 ── ノエルの背後に隠れている男子生徒に目を向けた。
顔を知らないから、セイン・アルバさんなのか、マティス・イグナートさんなのかは、すぐに判断がつかなかった。
けれど、緊張したように俯いている様子から大人しい人と評価されているセインさんなのではないかと推測した。
ノエルが、私と彼の間に立ち、仲介をした。
「セインさん、紹介します。俺の同級生でアメジスト生のエンネ。エンネ、こっちは俺の先輩のセインさんだよ」
「は、はじめまして…」
「………」
ごくりと唾を飲み込んでから挨拶をした。しかし、セインさんは斜め下を見つめたまま、答えてくれなかった。
全身で拒絶しているのが伝わってくる。
気弱そうな印象はあるけれど、話を聞くのは一筋縄ではいかないと感じた。
「セインさん、さっきも話したけど、アッシュ寮長のことで聞きたいことがあるんです」
「………」
ノエルが本題に入るも、セインさんの態度は変わらなかった。
すぐにでも逃げ出してしまいそうだからか、ノエルは彼の手首を掴み続けている。
その光景を見つめながら、ノエルが過去に言っていた言葉を頭の中で呟いた。
おそらく自分は嫌われているから、エンネから聞いてほしいという、その言葉を再確認し、勇気を奮い立たせた。
「あの、突然、こんな所に連れてこられて、不安も怒りもあると思います」
どうしても、声が震えてしまう。でも、だからなのかもしれないが、セインさんがほんの少しだけ目線を上げた。
光のない仄暗い瞳が、私を観察している。おそらく、信頼に値するかどうかを測っている。
私は間違えないように、慎重に言葉を選んだ。
「ここで聞いた話を、他言しないと誓います。…というか、私には友だちがいませんので、話す相手がいませんから」
セインさんの視線がまた少しだけ上がったが、それに反してノエルが驚いたように目を丸くした。
目の端に映ったその表情に、友だちがいないという私の発言が、彼を傷つけてしまったのかもしれないことに気がついた。
けれど、今はそれを弁明している時ではなかった。
「用心のために影の魔法も使います」
「…なんで、アッシュのことを知りたいの?」
私がそう提案すると、セインさんが初めて口を開いた。
ボソボソと聞き取りにくい小さな声だった。それでも、確かにここに鼓膜を揺らした。
喜びと感動から、心臓の音が大きくなっていく。
「ご、ご存知かもしれませんが、私はあの事件の第一発見者です。そのせいで、彼を殺したんじゃないかと疑ってくる人がいます。私を疑ってる人はわざとぶつかってきたり、悪口を言ってきたり、私物を壊したりしてきます。それを、終わらせたいんです」
「………」
セインさんは押し黙ったまま、再び斜め下を見つめた。
まつげの影がかかった瞳は何かを思案しているかのように微かに揺れていた。
「…真相を突き詰めても、イジメはなくならないと思う」
「え、な、なんでですか?」
「イジメてる奴にとって正しさなんて関係ないから。ただ楽しいからしてる。それだけ」
セインさんの言葉に、思わず目を丸くした。経験から来る発言だと思ったからだ。
この人に聞きたいことがたくさんある。
逸る気持ちを抑えて、また言葉を選んでいった。
「誰に聞いても、アッシュ寮長を褒め称える人しかいません。私はそれに違和感を覚えました。完璧な人なんて本当にいるんだろうかって」
セインさんがゆっくりと顔をあげ、私と視線を合わせた。
曇天から差し込む淡い日差しが、彼の瞳に映り込んだ。それでも、まだ暗かった。
「完璧なはずの人が、なぜ殺されたんだろうかって」
完璧なら、あんな風に殺されたりしない。殺されたという事実が、アッシュ寮長の完璧さを否定していた。
セインさんは、私の言葉を聞き、体の向きを変えた。彼の瞳の色が変わった。
「なんで、アッシュが殺されたことになってるの。学院の説明では事故だったはずだよ」
それは今までとは違う、はっきりとした意志のこもった声だった。
ポツリ、と雨が降り始め、私の頬にぶつかった。
「殺されたと断言できるのは、本当に君が殺したからじゃないの?」
セインさんが放った言葉が、ナイフのように胸に突き刺さるのを感じた。
ノエルがまた驚いたように目を丸くし、セインさんに言い返そうと口を開いた。けれど、それを遮るようにセインさんは話を続けた。
「ノエル、さっさと離して。僕は忙しいんだ。最終学年だからやらなきゃいけないことがたくさんある。やっと時間が取れるようになったんだから、やりたいことがたくさんあるんだ」
やっと時間が取れるようになった。
その言葉に引っかかりを感じた時、セインさんはノエルの手を振りほどき、くるりとローブを翻した。
裾に施された深紅の刺繍が炎のように舞った。
「もう僕に関わらないで」
そう言い残し、セインさんは去っていった。
追いかけるという選択肢はすぐに頭に浮かんだ。けれど、彼の意思を曲げられる気がしなかった。
おそらくそれはノエルも同じで、だからこそ私たちは二人して立ち尽くしていた。
セインさんの足音が聞こえなくなり、また風の音が鼓膜を揺らした時、私は勢いよくしゃがみ込んだ。
「ごめん、ノエル…! 失敗した!」
選ぶ言葉を間違えてしまった。セインさんの心を開くことができなかった。絶対に彼は何かを知っていたし、何かあったはずなのに。
悔しさから思わず髪をぐしゃぐしゃとかき乱した。
すると、ノエルもため息をつきながら、ズルズルとしゃがみ込んだ。
「こっちこそ、ごめん。セインさんが、あんなにキツい人だと思わなかった」
セインさんが去った方角を眺めながら、ノエルは落胆した声で言った。その横顔は、声色よりも冷静に思えた。
「でも、セインさんは絶対に何かを知っている」
目を細めたノエルの意見に、頷きを返して同意した。
「“やっと時間が取れるようになった”って言ってたね。もう就職先が決まったとかではないなら、ちょっと不自然だ」
「そうだね」
私の意見を伝えると、今度はノエルが頷いた。
知りたいこと全てを知ることは叶わなかったけれど、収穫があったのも事実だった。
私は息を吐いて切り替えると、曲げていた膝を伸ばして立ち上がった。
ノエルも同じように立ち上がり、柔らかい笑みを浮かべた。
「今日は残念だったけど、明日にまたチャレンジしよう!」
そんなノエルを見上げ、私もつられて笑った。
「またセインさんを呼び出す?」
「ううん。無理だと思うから、マティスさんに声をかけよう。もっと難易度高いかもしれないけど…」
「そうだね。でも、頑張る…!」
今夜、どんな会話を繰り広げるかのシュミレーションを頭の中に用意しようと決意した ── その時だった。
ノエルの背後から顔を覗かせた人物がいた。
赤い髪に赤い瞳。まるでガーネットそのもののような彼と、こうして対面するのは二度目だった。
「カ、カイル副寮長…!」
私がその名を口にすると、ノエルが素早く振り返った。
カイル副寮長はそんなノエルに気さくに片手を上げて挨拶すると、私に向けて笑みを浮かべた。
「二人が知り合いだったなんて知らなかった。何を話していたんだ?」
その言葉に、私とノエルは顔を見合わせた。
どこからどこまで話を聞いていたのか。
それが気になって仕方がなかった。
「アッシュ寮長のことです」
先に口を開いたのはノエルだった。
カイル副寮長は目を丸くすると、アッシュ寮長の名を小さく呟いた。親しみを込めて、敬称をつけずに。
ノエルはまるで畳み掛けるかのように勢いよく口を開いた。
「エンネが、アッシュ寮長の件で嫌がらせを受けてるんです! だから、真相を暴いて、止めたいんです!」
「…まだ収まってなかったのか」
カイル副寮長は口元を手で覆うと、眉を寄せた。
その表情には不愉快さと後悔が滲んでいるように思えた。
「あの、カイル副寮長!」
ノエルは一歩踏み出した。
彼の声が響く。
「忙しいのはわかってるんですけど、アッシュ寮長のことを教えてくれませんか…!」
斜め後ろから、そんなノエルを見つめる。
カイル副寮長の眼差しと、ノエルの眼差しが、ズレることなく重なり合っていた。
「…先ほど、ここからセインが出てきたのは、その話を聞いていたのか?」
カイル副寮長は口元を隠したまま尋ねた。
その言葉から、セインさんがここから去るのを見たからこそ覗きに来たんだとわかった。隠し切れないと判断したのか、そもそも隠す気がなかったのか、ノエルは素直に頷いた。
「セインさんは何も教えてくれませんでした」
「そうか」
そう呟いた後、カイル副寮長は短い髪をかき上げた。
炎のようなそれは曇天の中でも、強い存在感を放っている。それなのに、煩わしく感じないのは、彼の所作に品があるからなのかもしれない。
きっと、この人も家柄が良い。だからこそ、アッシュ寮長と仲がよかったのかもしれない。
そんな考察をしていると、カイル副寮長が口元を覆っていた手を退かした。そして、私たちに向かって二本の指を掲げた。
「条件が二つある。君…エンネさん、で良いのかな。君に影の魔法を使ってもらいたい。寮長代理の仕事が溜まっているから見つかると連れ戻されてしまう」
低い声が、条件を一つ提示した。
「そして、二つ目だが ──」
彼は肩の力を抜くように笑みを浮かべた。
「室内に入ろう。今は何かと忙しいから、このまま雨に打たれて風邪を引きたくないんだ」




