第十話 初めての夜
少し夜の描写があります。苦手な方はご注意ください。
「畏れながら龍王陛下。盃が空のようですので、一献奉らせていただいてもよろしいでしょうか」
龍王は盃を軽く上げた。
シリンの申し出を受けるということだろう。
侍女から奪い取った酒器を手に、龍王の前へ進み出る。
高揚感のせいか十数歩の距離がふわふわとして、いやに遠く感じた。
黒漆の酒器から透明な酒を注ぐ。
正面の至近から見る龍王の顔は陶磁器のように滑らかで、彫刻のように端正。
壮麗と呼ぶのに相応しい凄みのある美しさだった。
強い酒精の香りに混じって、深い森に似た焚き香の香りがする。
シリンが注いだ酒を一気にくっと飲み干して龍王は満足げに微笑んだ。
「まあ、お強いんですのね。よろしければもう一献」
うっかりを装って盃から溢れるほどの酒を注ぐ。
龍王が零れる酒を受けようと両手を盃に添えたところで、もう一歩シリンが踏み込む。勢いよく酒器を投げ捨てると、袖の中から懐剣を引き抜き、龍王の首をかき切ろうと振りかざした。
カァンと酒器が転がる甲高い音とともに、懐剣がぬらりと鈍い光を弾く。
「やめろシリン!」
アルサラーンが事態を察知して叫ぶ。
だが、龍王は泰然として微動だにしない。
瞬きひとつせず、ただ氷のように冷たい青銀の瞳で迫り来る刃先を見据え、口の端には笑みさえ浮かんでいた。
その余裕ぶりに、甘く見られたものだとシリンはさらに一歩、強く踏み込む。
ぐにゃり。
なぜか視界が歪んで、シリンはたたらを踏んだ。
失敗した――⁉
瞬時に理解するも退くに退けず、しゃにむに懐剣を振り回す。
だが、身体がうまく動かず龍王の首どころかシリンの剣は空を切るばかりだった。
「無駄よ。今さっき冰蝶のお茶を飲んだでしょう。大丈夫、毒は盛っていないわ。眠くてたまらなくなって、すこーし身体の動きが鈍くなるだけ。よく眠れるお茶よ」
深緑の衣に金髪の妃がくすくすと笑いながら言う。
「なかなか飲んでくれないのだもの。どうしようかと思ったけれど、お妃ちゃんの言葉には子猫のように油断するのね。妹ちゃん」
一杯目は毒見をさせたが、二杯目の茶は完全に油断していた。
ざあっと青くなるシリンの首筋にひたりと短剣が押し当てられる。
武術の心得があるのか、濃緋の衣の長身の妃によってシリンの腕は後ろ手にきつくねじり上げられ、懐剣が手から落ちて転がった。
「無礼者! 放せ! 砂絹の血をなんと心得る!」
「大人しくおし。君は今、ノルシエ国王を弑し奉ろうとしたんだぞ」
「うるさい! 砂絹の女がこの血を守るため、どれほど苦汁を舐めてきたか! この男に、ノルシエに、姉さまを利用されてなるものか! ――……姉さま! 姉さまはおわかりくださいますよね? ライラ姉さま……ッ!」
ぐらぐらと揺れる視界でシリンはライラに助けを求め振り仰いだ。
「ちょっと。あなた、正気?」
藍色の衣の妃が呆れたように言った。
「砂絹の血にずいぶんご執心なようだけれど、陛下に何かあればあなただけじゃなく、同じ砂絹の血を持つご正妃も大罪人の身内として極刑を賜っても仕方ないのよ。あなたのしでかしたことはご正妃を危険に晒しただけ」
「……ッ、ちがう‼ シリンは姉さまを……」
「輝壤は! 輝壤は何も関係ございません、龍王陛下‼ すべてはシリン姫の一存。輝壤は母も私も友好的な関係を望みこそすれ、ノルシエに弓を引くつもりは欠片もない! お咎めはどうか砂絹とシリン姫に」
ただ助けたかったのだというシリンの言葉は、取り乱したアルサラーンの叫びに上書きされて誰にも聞こえなかった。
もがくと首筋に当てられた剣で細い傷ができ、血が滲んだ。
そのひりつく痛みより悔しさでシリンの目尻に涙が浮かんだ。
龍王は酒が零れて空になった手元の盃を無造作に指で弾いた。
カラン、と乾いた音が静まり返った客間に響く。
「すべては彼女の一存。――そうだろうな。輝壤の王太子とあろう者が、こんな稚拙な暗殺計画を企てるはずがない。だが、アルサラーンよ。彼女はお前の婚約者だ。輝壤が潔白だと、何も知らなかったと、ノルシエが納得すると思うか?」
「ッ……!」
龍王の切り返しに、アルサラーンの額に汗が滲んだ。
暗殺未遂は紛うことなき事実。
これを口実にノルシエが輝壤との交易を阻み、交易路から国境沿いに軍を展開すれば、輝壤は経済的にも軍事的にもたちまち退路を失い、勝つ見込みのない戦に突入するだろう。
「畏れながら陛下、少々よろしいでしょうか」
緊迫した空気を割って、高座からライラが厳かに口を開いた。
隣に座る龍王が軽く頷く。
「この件で輝壤に累を及ぼすのは得策ではないと考えます。大陸最大の物流網を担う輝壤が傾けば、ノルシエの物流も滞り、経済損失は計り知れません。……アルサラーン殿下」
「…………」
よく通る凛とした声だった。
漆黒――龍王の色を纏ったライラが黒玻璃の瞳でアルサラーンを真っ直ぐに射抜く。
王ではなく正妃が場を仕切るのは少々癇に障ったが、アルサラーンは限界の緊張の中、黙って先を聞くしかなかった。
「輝壤の潔白を証明するため、ノルシエから輝壤への輸出関税を無条件で現在の半値とすること。期間は今後協議といたしましょう。さらにノルシエへの輝壤軍の介入を一切禁じること。これを輝壤王室の正式な盟約として結べるならば、今回の件は不問に付すよう、陛下へ進言いたしますがいかがでしょうか」
アルサラーンはぐっと深く息を呑んだ。
半値の関税は輝壤にとって大きな痛手だが、ノルシエとの全面戦争や交易停止に比べれば遥かに安い。
国に持ち帰って検討するなどと悠長なことは言っていられない。
期限について交渉の余地があるだけ、ノルシエとしては温情をかけた提案と言えるだろう。
アルサラーンの王太子権限でもって、女王である母や貴族院のうるさ型どもは黙らせるしかない。
「寛大なご処置に心より感謝申し上げます」
深く一礼するアルサラーンを見て、龍王は楽しげに喉を鳴らした。
「話が早くて助かるよ。輝壤と刃を交えるのは僕としても避けたいところだ。お互いいい関係のままでいようじゃないか。星睿、書面の準備を」
「こんなこともあろうかと、すでに草案は整えております」
龍王の侍従の言葉に、アルサラーンは「嵌められた!」と内心で膝を打つ。
あまりにも手際が鮮やかすぎる。
茶会を利用して交易拡大を狙っていたのはアルサラーンだが、ノルシエはシリンが騒ぎを起こすこともすべて見越して虎視眈々と準備をしてきていた。
『殲滅戦』という文言の苛烈さに気を取られていたが、軍事だけじゃなく交易でも輝壤の動きを封じることを計算ずくでノルシエは動いていたのだろう。
大陸の大商人・輝壤の名折れもいいところだ。
だが気づいてもすでに後の祭り。
星睿と呼ばれた壮年の男に促されるまま、アルサラーンは条約の草案に署名した。
「あとは砂絹の処遇だが……ライラ。お前の妹の不始末だ。どう贖う?」
龍王の青銀の瞳が、ライラを試すように見据えていた。
王を弑逆しようとした大罪。通常であれば、砂絹への報復は免れない。
ライラは膝の上で閉じた扇をぐっと握ると、龍王を見つめ返した。
「砂絹には、わたくしに対するこれまでの度重なる暗殺未遂の件とともに賠償を申し入れましょう。金など各鉱山の採掘権、および要衝である中央の港の管理権をノルシエに割譲。王宮には監査役としてノルシエの貴族を送り込む。条件が飲めぬなら軍事的制圧もやむなしと考えます」
ひた隠しにしてきたはずのライラへの暗殺未遂をさらりと前提に盛り込まれ、龍王は一瞬だけ瞠目した。――腹の据わり方といい、自然と情報を絡めとるやり方といい、やはり間者の資質がある。ただの書物好きの姫君などではないのだ。
ライラの提案は砂絹独自の国家運営を否定し、ノルシエの傀儡となるしかない提案だ。
故国や父王に対する甘さのない、あくまでノルシエの正妃としての振る舞いだった。
控えていた星睿ら文官たちと侍女らが、そっと頭を垂れる。
瑞雪、冰蝶、香露ら側妃たちも誇らしげな笑みを浮かべて高座を見つめている。
「シリン姫はどうする」
「――動機が『砂絹の高貴な血のため』です。死罪にすれば、過激派が彼女を砂絹の殉教者に仕立て上げ反乱の火種を生むでしょう。生きて償わせます、わたくしが必ず」
「その首をかけると? 妹を殺したほうが早いだろう」
「それでも。わたくしの生涯をかけてまいります。ノルシエの正妃の責任として」
龍王がふっと相好を崩した。
狼が探していた番いをようやく見つけたかのような、満ち足りた表情だった。
「相分かった。――ライラ」
何の怒りもない甘やかな声で龍王はライラに目配せをする。
ライラは項垂れて床にへたり込んでいる妹へ、さっきまでの非情さが霧散した柔らかい眼差しで声をかけた。
「…………ねえ、シリン。砂絹はシャフリの末裔という顔をしてこれまで生きてきたけれど、本当はトウモロコシの仲間なんじゃないかしらって思うのよ」
「は……?」
拘束され、訳がわからないと眉を顰めるシリンの隣にしゃがみこみ、ライラは困ったように眉を下げたまま目線を合わせた。
龍王は小さく笑みを含んだ息を漏らし、組んだ足に頬杖をついて、聞く姿勢を作った。
「シャフリ人がどこから来てどこに去っていったかわからないように、トウモロコシもまた何が起源種かわからない。知っている? トウモロコシは種が皮に包まれているから人の手を介さないと繁殖できないって言われていたの。まあ、実際は絹糸で自家受粉するらしいのだけれど」
「姉さま、荒唐無稽な話で煙に巻くのはおやめください。シリンは姉さまをお助けするために命を賭してここにいるのです。聡明な姉さまならすべておわかりのはず」
「わかっているわ。あなたが何をしたかったのか。でももし砂絹の起源がトウモロコシだったら、尊い血など一滴も流れてない。あなたの前提はすべて崩れ去ってしまう」
「そんなはずはない! 我らは真実尊い血を! そうでなければ――……」
そうでなければ何のために。シリンの喉から悲痛な叫びが掠れて漏れた。
「シャフリ人ですら恐らく誰か異国の人々と交わって血を繋いだのでしょう。砂絹だけが純血を繋いでいくなんてできると思う? わたくしたちもトウモロコシのように誰かの手を介していかなければ、いずれ滅びる運命なのよ。それが父上の代なのか、兄上の代なのか、もっと先なのかはわからないけれど。特別な血などきっと誰にも流れていない。血はみな等しく尊く、赤い」
「姉さま、なぜ! 砂絹の女の非業を、砂絹の斜陽をあなたは知っているのに! なぜそのようなことを仰るのです。血が等しく尊いと言うのなら、なぜ砂絹の女だけが、姉さまやシリンたちだけが他国に売られていかなければならないのです! 姉さまならば、きっと救えるものもあるのに――!」
「――そうね、砂絹ではずっとわたくしたちは供物だった」
激昂するシリンにライラは自嘲するように小さく笑った。
何を茶に盛られたのかは判然としないが、眠くて眠くてたまらない。
吐き気すらする眠気に抗おうとシリンは口の中の肉を奥歯で強く噛み締める。血の味がした。
「陛下は、ノルシエの方々はわたくしの変な話を面白いと聞いてくださるのよ。わたくしはここではもう透明ではないし、供物でもない――今とても幸せよ。だからシリン。わたくしはもうあなたの『物語』には付き合えない。もし砂絹の血の尊さを理由にノルシエを殲滅するというのなら、正妃としてあなたを糾弾しなければならない。輝壤にそんなつもりはなさそうだけれど……輝壤の武力をもってノルシエに牙を剝くなら、わたくしたちも容赦はしない。だからねえ、あなたもそろそろわたくしのいない自分だけの物語を始めなくてはいけないわ」
ノルシエで充分幸せに暮らしているのだとライラが龍王に微笑みかけた。
龍王もまた穏やかな眼差しでライラを見つめ返す。
王に対しての刃傷沙汰の後始末を任せるのだから、本当に信頼しあった仲睦まじい夫婦なのだろう。
もう透明ではないと断言した姉は晴れ晴れとした顔をしている。
龍王に脅されたわけではなく、姉が自らノルシエを選んだのだろう。
使い潰されてきた砂絹の女たちとは違う。姉自身が望んだ道なのだろう。
だったら……
だったらもう、シリンが何をしても姉の邪魔にしかならないではないか。
シリンはふっと身体中の力が抜けてしまうのを感じた。
噛み締めた奥歯からも力が抜ける。眠気に勝てない。ぐらぐらと上半身が揺れる。
シリンだけの物語って何?
そんなことを言われても姉さまのいない未来なんて考えたこともない。
そもそも高貴な血じゃないというなら、他国に売られ、消えていった姫君たちはなんだったの。
どうしてシリンが正しいと信じてはくれないの? シリンは一体どうしたらいいの。
「シリンは……姉さまを王に、自由にしたかった……どうしても何をおいても」
「残念だけれど。わたくしは砂絹の王になどなりたくないわ。それに……供物でもよかったの。透明でないわたくしになれるのなら。それがわたくしの戦いなのであれば、利用されたとて満足だったのよ」
「…………そんな」
「あなたの夢はわたくしの望みではないわ。――あなたの罪とこれからをきちんと考えなさい。わたくしもノルシエの正妃として為すべきことを為してゆきます」
姉の優しくも厳しい言葉を最後にプツリと意識が遠のいていった。
***
シリンが目覚めると知らない天井だった。
藍色を基調とした花や自然が描かれており、ああそういえばここはノルシエの王城だったと思いだす。
枕元に気配を感じて目だけで追うと、アルサラーンが腕組みをしたまま舟を漕いでいた。
寝台に身を起こすと、まだ身体中に重たい倦怠感があった。
寝台が軋んだ僅かな音でアルサラーンが目を覚ます。
「ん……目覚めたか」
「はい」
「体調はどうだ。後遺症は残らないと冰蝶妃は言っていたが」
「まだ倦怠感はありますが問題ございません」
「…………」
「…………」
「ライラ妃に救われたな。ともすれば君はもちろん、砂絹も輝壤もノルシエに潰されていた。義姉上の機転と寛大さに感謝しなくては」
「…………」
「…………」
どうせ婚約破棄になるのだろう。
先ほども輝壤の保身のため、さっさとシリンを切り捨てた男だ。
もう輝壤もノルシエもどうでもいい。
何をしても姉さまは戻ってこない。
シリンの手でライラを王に、自由にしたいという夢も潰えた。
――極論、龍王や姉から極刑を申し渡されても仕方がないし、どうでもいい。
「先ほどは悪かった。見捨てたつもりではなかったが、俺はノルシエと事を構える気は一切ない。交易をもっと拡大したいんだ。龍王陛下とももっと親交を深めたい。そうすることで輝壤を守りたい」
「はあ……」
「……だから先ほどの君の行動は本当に迂闊で……迷惑でしかなかった。ただ……紳士としても、未来の夫としても姫君に対する態度ではなかったので……反省する」
未来の夫。
シリンはいささか驚いていた。
そもそもアルサラーンには好かれていないので、輝壤に瑕疵なく婚約破棄できるこの好機を逃がすわけはないと思っていた。
「改めての話になるが、義姉上の華燭の典が終わったら、君も輝壤に来ないか。龍王陛下とライラ妃には俺からきちんと話を通す。輝壤での終身刑ということにすれば、ノルシエの面子も保たれるだろう。ノルシエの厳重な監視の下、ではあるだろうが」
「――それは死罪や軟禁ではなく、後宮にということでしょうか」
「そうしたいと思っている。俺は君を正妃にはできない。だが、君はまだ世界を、義姉上のいない未来を知らない。だから輝壤で学べ。世界を広く知った上でまだ砂絹の尊い血のためにノルシエや輝壤を滅ぼしたいと思うのなら」
「思うのなら?」
「そのときは俺が君を止める『悪役』になろう」
シリンは息を吞んだ。
アルサラーンの葡萄酒色の瞳がしっかりとシリンを映している。
シリンは恋を知らない。
アルサラーンと恋をする気もなかった。
ただひたすら砂絹の血を濃く繋ぐため、姉と自分の居場所を作るため、輝壤を利用できればそれでよかった。輝壤の正妃という地位だけがほしかった。
ただ。もしかしたら、恋にはならなくとも、この人と共犯にはなれるのかもしれない。
シリンの過ちを知ってなお、迎え入れると言ってくれるこの人となら。
気づけばシリンは神妙な表情のまま、ぼろぼろと大粒の涙を流していた。
自分でも止める術がわからずに、頬が、膝が、びしょびしょに濡れていく。
「……シリンは女です」
小刻みに震えるくちびるから絞り出すように、一言漏れた。
アルサラーンは何を今さらという顔をして頷いた。
「知っている」
「兄たちのように王位継承権はありません。砂絹の法ひとつ覆す力も、戦場で剣を振るう力もありません。ライラ姉さまのように賢くも強くもありません。何も……シリンには何もありません。――輝壤で、シリンは、シリンになれますか? 殿下の傍にいたら何者かになれますか?」
たぶんずっと誰かに聞きたかった問いだった。
シリンのままでいいのだと、誰かに肯定してほしかったのだと思う。
暴れに暴れた今なら、いかに愚かしいことだったのかが少しだけわかる。
砂絹の血が尊いこととシリン自身が尊いこととは同等ではないのだから。
アルサラーンはシリンの心中を知ってか知らずか、軽く鼻で嗤った。
「さあな。そんなのわかるわけがない。俺の傍にいても君は君でしかない。自分でどうにかするしかない。その血が尊いというのなら、君が自分の行いでその尊さを証明するしかない。俺にできるのは君が成し遂げるその日まで隣で見ていることだけだ」
隣で見ている。
この人は――シリンを見限らない。諦めない。
シリンには何もないのに。シリンは、何の力もない、砂絹の女なのに。
ぐっと天井を向いてシリンは涙を堪えた。
それでも後から後から涙が溢れだしてどうしようもなく、シリンは大声を上げて泣きじゃくり始めた。
「……っ、うっ……うぇ、うわあああああん」
「えぇ? まったく……子どもじゃあるまいし、手のかかる姫君だな」
アルサラーンは涙を拭うことも背中をさすることもしなかった。
面倒くさそうにため息をついて、シリンが泣き止むまでただ横にいた。
――もう半年もすれば正式に輝壤に輿入れすることになるのだが、今は何も声をかけないアルサラーンのぶっきらぼうな優しさがシリンには嬉しかった。
***
「本当によかったのでしょうか」
「うん?」
「陛下が任せてくださるのに甘えてシリンを咎めずに終わってしまいましたが、あの子は陛下に刃を向けた大罪人。わたくしもあの子も罰を受けずに済ませてしまって本当によかったのでしょうか」
「怪我もないしなぁ。酔っ払いが暴れて昏倒した、ぐらいでいいんじゃないか」
龍王がのんびりと言う。
凛と強い顔を作っていたライラの化粧が侍女の手によって丁寧に落とされていくのを興味深く見ている。
あまり見せたいものではないとライラには少し抵抗されたが、化粧が落ちていくたび、素に戻って気弱な言葉が増えていくのが面白いのだ。
化粧は武装だと香露たちが言っていたが、あながち間違いでもないらしい。
「きれいだったよ。黒と金剛石がよく映えて、化粧もあいまって星の女神かと思うほどに美しかった。着飾ったお前が見られて僕は満足だ」
もうどこにも傷みがない黒髪をひと房取ってくちづけると「あの、もうお芝居は十分です。わたくしもういっぱいいっぱいで……恥ずかしいので、その……」ライラが身体中を紅くしておたおたする。
茶会ではずっとどこかしらに触れて撫でていたのに、我に返ると恥ずかしくてたまらないらしい。
龍王はその様がおかしくてけたけたと笑った。
「約束を忘れてはいないよな、ライラ」
「?」
「妹と輝壤が片付いたらお前を抱くと僕は言った」
「えっ、あ、でも、今日はお酒を召してらっしゃいますし……」
「酔いなどとうに抜けてる」
「色々と騒がしくてお疲れでしょうし……」
「ライラ。約束は約束だ。観念おし。僕は一刻も早く事が終わらないかと待ちかねていたのだから」
龍王の言葉に化粧を落とし終えた侍女たちが音もなく退室していく。
彼女たちがいなくなった瞬間、夜着の紐を解かれてささやかな胸をあらわにされる。
いつもの戯れのようでいて、目の鋭さが、指の熱さが違う。
本当に抱くつもりなのだと知って、ライラはくたりと身体の力を抜いた。
「――もし嫌だと言ってしまってもやめないでくださいまし。今日を逃したら、わたくしきっともう勇気がでません」
「なるべく痛くはしないから、僕に身を預けておいで」
龍王の甘い声が耳朶から脳に直接響いて、ぬるま湯に浸かっているかのように心地よい。
全身に降るくちづけと濡れた指先にライラはとろとろと融けていった。
ぎゅっと強く抱かれて擦れあう肌の感触が愛おしい。
喉を甘噛みされ、奥を暴かれると意図しない嬌声がひっきりなしに漏れて止められない。
深く舌を絡められ、流し込まれる唾液の微かな酒精の味に興奮する。
これまでの夜のささやかな触れ合いなど児戯だと言わんばかりに龍王に翻弄されて、ライラは嬉しかった。
「名を……」
「うん?」
「名を呼んでいただけますか」
「ライラ。……ライラ、僕のライラ」
龍王の、熱を帯びて額に滲む汗が自分だけのものであること。
自分の中で何かに耐えるように龍王の柳眉がきつく顰められること。
お互いの吐息が同じ温度であること。
熱に浮かされた声で名を呼ばれて、自分がここにあると知ること。
指のささくれが肌を掠めた軽い痛みですら、ライラには嬉しかった。
「舜龍さま。お慕いしております」
「――僕もだ」
陽がうっすらと窓から差し込むころ、心地よい微睡みに委ねてライラは眠りについた。
血痕が残る褥を見つめると龍王は労わるようにライラの額にくちづけ、自らもその隣で眠りについた。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます!
ようやくライラと龍王も本当の夫婦になることができました!
もし少しでも「面白い」「結末が気になる」「物語を応援したい」と思っていただけましたら、ページ下部の☆から評価やブックマークをいただけますと、執筆の大きな励みになります。
いよいよ明日が最終回。18時に更新いたします。




