第十二話 二五八年 焦り
その後、姜維から返書が届き、決戦場は祁山付近を指定された。
大方夏侯覇との連携を考えての事だろうと思ったのだが、こちらの戦術に対してそれほど大きな影響は無いと判断して司馬望は充分な兵力を率いて戦場に向かう。
ほぼ同時に蜀軍も姿を現した。
「蜀の大将軍、姜維に物申す!」
司馬望が先制攻撃と言わんばかりに、到着したばかりの蜀軍に向かって言う。
「鄧艾に対する勝利は、まず見事と言ってもいいところである。だが、それは鄧艾の無知によるところ。姜維将軍、貴将が優秀である事は認めよう。しかし、先日の勝利は貴将が優れていたと言うより、鄧艾が劣っていたのだ。優秀な貴将であればそれも分かるであろう」
これは鄧艾と共に考えた、姜維を挑発する為の言葉である。
自分は鄧艾より優れている、と言う事で姜維に興味を持たせる事が最大の目的だった。
「あまりご自身の副将を悪し様に言う事はありませんよ。鄧艾将軍は極めて有能な武将です。確かに私が勝利出来たのは、鄧艾将軍の無知によるところが大きかったかもしれませんが、それは鄧艾将軍だけでなく、魏の方々全てが同じ結果になった事でしょう。鄧艾将軍が劣っていた訳でもなく、私が優れていた訳でもなく、なるべくしてなった結果です。司馬望将軍でも同じ結果ですよ」
こちらの意図した雰囲気では無いものの、少なくとも姜維はこちらに興味を示した様に見える。
「八陣図など、今となっては珍しい陣形でも無い」
司馬望はそう宣言すると、八陣図の陣形を組んでみせる。
一応はいえ、司馬望も八陣図を組む事は出来るし、ある程度の変化も出来る。
しかし、鄧艾と比べるとその変化の種類も少なく、姜維とは比べ物にならない。
それでも誤魔化す事は出来る。
そのはずだった。
「お見事。上澄みだけとは言え、その陣を組める事は誇っていいですよ。優秀な事です」
この態度はおかしい。
姜維の余裕過ぎる態度に、司馬望は眉を寄せる。
まるでこちらが攻めてこない事が分かっているかのようだ。
「ですが、その陣形は変化にこそ真髄があります。そう言う風に教わりませんでしたか?」
「八陣図を敷く事が出来る時点で変化も当然頭に入っている」
司馬望はそう言うと、八陣図を変化させる。
「おや? 私が思っていた以上に上手ですね。初心者の域は脱していますよ。おめでとう。ですが、私の相手が務まるほどではありませんね」
「ならば、そちらの八陣図を見せてみろ。この私が採点してやろうではないか」
「いえいえ、程度の低い方に付き合うつもりはありませんよ、司馬望将軍。私の想像よりは扱える様ですが、それでもまだまだ鄧艾将軍の足元にも及ばないでしょう。私と戦える可能性が僅かでもあるのは鄧艾将軍のみ。その然るべき相手であれば、私も出し惜しみする事無く八陣図を存分にお見せしましょう」
「はっはっは! 勝てる相手としか戦わないか! なるほど、姜維将軍は兵法に通じているようだ!」
笑って挑発を続けるが、司馬望は言葉とは裏腹に恐怖を感じていた。
その予感が正しいと言わんばかりに、姜維は笑って言う。
「ああ、私の言い方が悪かったですね。鄧艾将軍を今すぐ呼び戻した方が良いですよ? もう二度と会えなくなる前にね」
鄧艾の奇襲部隊は、進軍する蜀軍を横目に見ながら素通りして蜀軍の本拠点を目指していた。
その時に目視した限りでは、蜀軍は大軍を動かしていたので拠点はカラか、あるいはごく少数の兵しか残っていないはずである。
「鄧艾将軍の予想通りですね」
今回の奇襲部隊に同行しているのは鄭倫だった。
副将である杜預は本来同行するべき立場であり本人も希望したのだが、司馬望からの強い要望があってそちらの補佐についている。
杜預自身は八陣図を敷く事は出来ないものの、戦の勘所の良い人物であり鄧艾と共に長らく戦場にいた経験と、何より先日実際に姜維の八陣図との戦いに参加していると言う事もあって、司馬望の補佐としては適任とされた。
また、鄧艾もそうするつもりでいた。
杜預の極めて高い戦闘能力は奇襲する上では欲しい戦力だったのだが、おそらく姜維は動かないと予想していたものの、もし全軍で攻撃と言う賭けに出た場合には師纂や鄧忠ではさすがに厳しいし、諸葛緒でも少々心許ない。
万が一にも司馬望の身に何かあれば雍州方面軍は壊滅してしまう。
それを避ける為の備えとして、杜預は司馬望の補佐となっていた。
師纂や鄧忠では功を焦って暴走する恐れもあったので、土地勘もある鄭倫を選んでいた。
「土地勘で言うのなら、俺だってありますけどね」
以前はその事を買われて伝令に走った事もある鄧忠なので、奇襲部隊から外されたのは不満そうだった。
鄧艾は蜀主力をやり過ごして、慎重に兵を進めていく。
そして蜀軍の本拠点を見つけた。
報告の通り、最初に地下道の罠で王含と蒋斌を撃退したところに、敢えて本拠点を置いていた。
姜維は胆の太さも当代一かもしれないな。
地下道の罠は逆に敵に利用される恐れもある為、一度使用したらすぐに塞ぐ様にしている。
それさえも掘り進んで利用する事も考えられなくはないので、さらに簡単な罠も仕掛けてあったのだが、どこに出るか把握している鄭倫ならともかく姜維も危険性を考えて利用はしていない様だ。
外から見る分には、やはりこの拠点に兵は残していない様に見える。
だが、嫌な予感がする。
何か重要な事を見落としている、そんな気がしてならない。
「占領しようかとも思っていましたが、火を放って離脱しましょう。長居しない方が良さそうです」
「わかりました」
鄧艾の言葉に鄭倫は素直に従い、蜀軍の拠点に攻め込む。
そこは外から見た通り、兵もいないもぬけの殻だった。
「……罠、か」
「将軍?」
「手近なところに火を付けて離脱しましょう。部隊を置かないにしても、最低限の見張りや伝令役などは残しておくところ。それさえもいないと言う事は」
鄧艾が蜀軍の拠点に火を放つ前に、拠点の外から蜀軍の部隊が突撃してくる。
「将軍! 拠点の門を閉めて立て篭りますか?」
「……いや、すぐにここを出て突破する。私が甘かった。急ぐぞ!」
鄧艾は今更ながらに、姜維の策を看破していた。
そう、見落としはあったのだ。
何故姜維が敢えて大軍を率いて、八陣図を見せてきたのか。
姜維ほどの用兵巧者であれば、大軍での陣形の変化も難なく行う事が出来る。
それを魏軍に見せて、大軍同士の戦いに持ち込もうとしていると鄧艾は思った。
確かに蜀軍は大軍だったが、それでもまだ雍州方面軍の方が多い。
その兵力差であっても勝てる、と姜維は大軍を率いてきたと思い込んでいたが、それさえも姜維からそう思わされていた事に気づいたのである。
八陣図は多種多様な陣型に変化出来るが、それは何も大兵力を必要とする大型陣のみと言う事は無い。
陣を形成する難易度は飛躍的に跳ね上がるが、理論上で言うのなら複数の中型陣や多数の小型陣の複合型にすら変化出来る。
それに諸葛亮が司馬懿と戦った時の状況は、今の蜀軍と雍州方面軍の兵力差以上であったにも関わらず、司馬懿ほどの実力者でも諸葛亮に勝利する事は出来なかった。
鄧艾の前提と違って、八陣図は必ずしも大軍を必要としないのだ。
だとすると、この拠点もカラでは無い。
鄭倫も鄧艾に聞きたい事はあっただろうが、言われるままに戦闘準備を整える。
「行くぞ!」
鄧艾が言ったと同時に、拠点の奥からも喊声が上がる。
やはりそうか。冷静でいたつもりだったが、勝ちを焦っていたか。
「将軍、伏兵です!」
「ああ、分かっている。今なら外から来る連中の方が薄い。突破する好機は今だ!」
鄧艾はそう言うと自ら槍を持ち、先頭を切って突撃していく。
「後ろは見るな! 前だけを、私の背を追って来い!」
檄を飛ばすと、鄧艾は槍を振るって蜀軍に突撃した。
外からやって来た部隊は、王含と蒋斌。
姜維の罠は、この外の部隊を見せて鄧艾達を蜀軍拠点に閉じ込める事だったのだろう。その後に、拠点の地下道に隠れた本来の守備隊が鄧艾達に襲いかかるはずだった。
しかし、それを鄧艾に看破された事によって挟撃の形が崩れている。
しかも二人には実戦経験が少ないので、反撃を予想していなかったのか足並みが揃っていない。
だが、別の問題もあった。
後方の蜀軍の足が、こちらの予想を超えて早い。
旗印から見ると、姜維の副将であるはずの廖化の様だ。
副将を敢えて主戦場ではなく、来るかどうかわからない奇襲部隊の備えに使うなど、普通は考えられないのだが、相手が確実に来ると読み切っていたのであれば、そこに致命的な打撃を与える事も出来る配置である。
突破に手こずると、後ろから来る廖化軍に捕まるか。
そうなったら、全滅は免れない。
鄧艾は王含と蒋斌の軍を突き崩していく。
蜀軍としても、鄧艾の圧倒的な武勇は想定外だったらしい。
蜀軍にとって、鄧艾は先の諸葛誕の乱の時に決戦に応じずに誤魔化して時間稼ぎした、小細工が得意な者と言う印象を持っていた。
また、これまでも姜維に対して智略や策略で勝負してきた事が多かったので、自ら槍を振るう猛将と言う印象をまったく持っていなかったのである。
だが、悪い事と言うのは重なるものである。
王含と蒋斌は実戦経験の乏しい若手であり、鄧艾の予想外の武勇によって冷静な判断を失ってしまった。
それによって部隊が瓦解していれば、鄧艾達はすぐに脱出したはずだった。
が、冷静さを失った王含と蒋斌は戦術などではなく、単純な義務感と恐怖から鄧艾の突進を止める為に無秩序なくらいに兵を集めて壁を作ってしまったのである。
鄧艾の予想では恐れをなして薄い壁がさらに薄くなるか、あるいは恐慌状態になって瓦解するかと思っていたのだが、この時は完全に裏目になった。
「鄧艾将軍。貴方は魏にとって必要な御方。必ず生き延びてください」
「鄭倫! 何をするつもりだ!」
「鄧艾将軍! 将軍は前だけを見て、蜀軍を突き破り、多くの兵と共に司馬望将軍の元へ。私はその為に出来る事を行いますので」
鄭倫は鄧艾が止めるより早く、反転して後方の廖化の部隊へ突撃していく。
鄧艾にしても、考えていた手ではあった。
誰かが廖化を少しでも足止めしてくれれば、この壁は破れると。その為に誰か犠牲にする事をよしとすれば、少なくとも自分は脱する事が出来ると。
しかし、命じる事が出来なかった。
この戦は自分の楽観と勝利への焦りが招いた結果であり、それを誰かに押し付ける事は鄧艾には出来なかったのだ。
鄭倫も分かっていたのだろう。
そして、彼は自らの未来ではなく祖国の未来を選んだ。
一瞬の迷いが鄭倫を走らせる。
鄧艾は吼えた。
突然の雄叫びに、目の前の蜀軍の兵が身を竦ませる。
その兵をめがけて、鄧艾は手にしていた槍を突き出し、右へ左へと繰り出しては蜀軍の兵の命を奪っていく。
にわかに蜀軍が浮足立ってきたのが分かったが、それでも鄧艾は手を緩めない。
ただ槍を突き出すだけにとどまらず、自身の槍を正面に投げつけ、近くの蜀軍の兵から槍を奪ってはさらに手当たり次第に兵をなぎ倒しては槍を投げつける。
「ゆ、弓だ! 矢を射掛けろ!」
誰かの声が聞こえたが、それを待っていたのだ。
鄧艾の前に出来た蜀軍の壁は、前もっての策として逃走経路を遮断したという訳ではなく、逃がす訳にはいかないという焦りから出来たものだ。
その焦りから兵が集まるまでが早かったところを見ると、敵将が近くにいるのではないかと鄧艾は予想していた。
それ故に、敢えて圧倒的な暴力を見せつけて焦りを煽ったのである。
当初は策に嵌った魏の武将を捕らえて武勲にしようという余裕もあったかもしれないが、その獲物は予想を遥かに超えて狂暴であり、とても手に負えない。
捕らえる余裕が無ければ討ち取るしかないが、近付かれては逆に討ち取られる恐れすらある。
ならば飛び道具で、と短絡的に考えても仕方が無いのだが、密集地帯で弓など射る事は出来るはずもなく、兵を開かなければならない。
せっかくの厚い壁も、焦った指揮官の指示によって薄く広げられたのである。
鄧艾はその隙を見逃さず、一気に弓に持ち替えようとしていた部隊に向かって突撃する。
蜀の兵にとってその時の鄧艾は、魔獣か何かに見えていたかもしれない。
明らかに優勢であり、数の上でも圧倒していたにも関わらず、蜀の兵は持ち替えようとしていた弓を投げ捨てて逃げ出す者が続出したのである。
「よし! 囲みを破った! ここから脱出するぞ!」
鄧艾がそう言って振り返った時、彼に付き従う生存者は僅か十数名にまで打ち減らされていたのである。
ここもほぼ創作です。
流れは演義と一緒で、鄧艾が蜀の拠点に奇襲をかけるが失敗して、大敗。鄭倫を失って、自身も命からがら逃げ延びた、と言うところは一緒です。
が、鄧艾が無双したという事はありませんし、廖化は拠点に潜んでいたのではないのですが、そこはまぁ、本作の創作と言う事で。
あと、本作での王含と蒋斌は、他の武将達と同じく相当若い設定で書いていますが、実際にはそこまで若手と言う訳ではありません。
ま、今更ですね。
本作で史実に近い年齢と言えば杜預くらいですし。




