第六話 二五二年 東興の戦い
鄧艾は韓綜から追い出された後に定めた合流地点に向かったのだが、そこにいた石苞や文鴦も諫言した結果は、多少扱いの差はあってもやはり奇襲に対する備えより今は休む方を優先すると言う事だった。
分からない話ではない。
いざ戦が始まったら、それこそ不眠不休で戦い続けなければならないのだ。
その時、すでに疲れていてはそれこそ戦にならないと言うものである。
とは言え、荒くれ者の文欽とは違って胡遵は最低限の警戒は必要である事を認めたと石苞は言う。
遅れてやって来た杜預だけは、司馬師、司馬昭の兄弟はその可能性はあると認め、鄧艾達予備戦力の部隊に臨戦態勢を整える様にとの指令を受けてきた。
「ですが、我らの軍は父上が動こうとしないので準備には時間がかかります」
文鴦は考えている事が顔に出るらしく、悔しそうな表情をしている。
「もっとも、俺の思い過ごしである可能性の方が高いのだが」
「いや、仲容の懸念には思うところがある。もし船での奇襲か可能であるのなら、それはこちらの想定外の事であり、兵法とはいかに相手の想定外の行動を取れるかと言う事です。それこそその奇襲が成功してしまったら、こちらは致命的な打撃を受ける」
鄧艾はそう言うと予備戦力である自分の部隊に戦闘準備を整えさせ、文鴦には文欽の元へ戻らせて少しでも兵を整えておく様にお願いする。
しかし、事態はすでに鄧艾達が考えているより悪い方に動いていた。
鄧艾達が合流して報告してあっているのは、司馬師の本陣と諸葛誕の陣の間で、予備戦力である鄧艾達や諸葛誕より後方待機を命じられている文欽の陣の近くである。
もし何かあった場合にはすぐに対応出来る様に、と言う事でこの場所を選んでいる。
「このまま何事も無ければ良いのだが」
と、石苞は呟き、鄧艾達もそう思っていたのだが、この時すでに韓綜は切られ陣は陥落していたのだが、その報告が届いていないのであった。
本来であれば韓綜の陣に何か不測の事態があれば胡遵に届くはずだったのだが、それが届かなかったのである。
理由は二つ。
呉軍の奇襲部隊である丁奉の部隊による徹底的な殲滅によって、韓綜の陣にいた韓綜の子飼いの者達も全て切り殺された事。
もう一つは、韓綜の部隊の風紀が普段から悪かった事。
しかもこの時は寒さを凌ぐ為に飲酒も許されていた事もあり、定時連絡が遅れていたのもそこまで不自然と胡遵は考えてしまったのである。
本来であればそれは非常事態だったのだが、普段から定時連絡が遅れがちであった事や胡遵自身も酒によって暖を取っていた事も重なり、その事態に気付く事が致命的に遅れたのだった。
あまりにも連絡が無かった事があり、胡遵は念の為に配下の武将である桓嘉に様子を見に行かせたのだが、その桓嘉は韓綜の陣がすでに丁奉によって落とされていた事を知らなかった。
呉の奇襲部隊は全員が軽装だった事もあり、韓綜達の身につけていた魏の鎧を奪い取って寒さを凌いでいた事もあり、それが呉の兵である事に気付かなかったのである。
桓嘉が様子を見に来たところ、まったく警戒していなかった事もあって丁奉に一刀のもとに切り捨てられた。
この時、丁奉に続いて呉軍の武将である呂拠や朱異、老将の丁奉より年上の留賛ら、呉軍の先鋒軍が到着したのだが、それすら魏軍は掴む事が出来ないでいた。
胡遵はこの時、布陣しているところの近くにある東興郡の城に睨みを効かせていた。
この城は魏にとってはさほど重要な戦略拠点とは成りえないのだが、この城を放置していては呉の本隊との戦いの時、余計な横槍を突かれる恐れがある。
この城には魏の目が常に向いていると言う事を意識させる事で、肝心な時に兵を出す事を躊躇わせる事が胡遵の狙いだった。
通常であれば良手であったはずなのだが、この時は完全な裏目になった。
胡遵の意識が韓綜から離れていた事が、事態の悪化に気付くのを遅らせたのである。
そんな胡遵なのだが、風紀に乱れる韓綜であればまだしも、信頼している部下の桓嘉まで連絡が遅れていると言うのはおかしいと、この時にようやく不信に思った。
胡遵は確認に行かせようとした時、伝令の兵が戻ったと伝えてきた。
が、その伝令の兵が胡遵の元へ来る前に、陣に混乱が起きた。
伝令と名乗って胡遵の陣にやって来たのは、呉の刺客だったのである。
呉の兵は魏軍の兵の鎧を身に付け、魏兵に扮していると言う情報が広まった為、より混乱は大きくなってしまった。
「ええい、慌てるな! 小隊ごとに分かれ確認し合えば呉の密偵などすぐに見つけられる! 焦って同士討ちになっては余計な混乱が大きくなるばかりだ!」
胡遵は近くにいた兵にそう伝えようとした時、その兵が剣に手をやるのを偶然目にした。
その偶然が無ければ、次の瞬間の斬撃を奇跡的にでも避ける事は出来なかったであろう。
胡遵は体勢を崩し、と言うより腰を抜かす様にその場に崩れ落ちたが、結果的にそれで刺客による斬撃を避ける事が出来た。
しかし二太刀目となると、それを避けられる様な体勢ではない。
刺客の剣が胡遵を捉えようとした、まさにその時。
凄まじい剣戟の響音と共に、刺客の剣は大きくはじかれた。
「胡遵将軍、無事ですか!」
胡遵を救ったのは、石苞だった。
「石苞か!」
「前線との連絡が取れなくなった事もあり、予備戦力の我らがそれぞれ確認に来た次第」
石苞は刺客と向かい合って、胡遵に説明する。
「ほう、石苞か。多少なりとも名の通った者が現れたか」
「貴様、ただの刺客ではないな。呉の武将か」
「呂拠と申す。自分を切る者の名は知っておきたいだろう?」
「ほざけ、刺客が」
石苞は胡遵を守りながら呂拠と向かう合うが、混乱する陣の向こうから大音量の歌が聞こえてきた。
「りょーきょーおう、交代じゃー」
妙な抑揚を付けた野太い大声が響くと、呂拠は苦笑いしながらその場を去っていく。
「待て!」
石苞が呂拠を追うと、その先に歌いながら大刀を奮って魏兵を蹂躙している巨漢が目に入った。
「な、何だ、ありゃ」
「てーきしょーうかぁー」
やはり妙な抑揚を付けた言い方で、大刀を振るう巨漢は石苞に向かってくる。
「わーれこーそはー、呉ぉのーぶーしょーぅ、りゅーさーんでーあーぁるぅー」
何を言っているのかわかりにくいが、どうやら呉の武将である留賛らしい。
「おーそれぬのでーあればー、来るがぁよぉーいー」
と言うものの、巨漢の留賛は朗々と歌いながら、自ら大股に大刀を振り回しながら石苞に向かってくる。
実際の武勇以上に、それは見た目に尋常ではない異常さで恐ろしささえ感じさせられる。
しかも、いやでも強い印象を与えられる留賛のせいで、最初にやって来た刺客である呂拠を見失ってしまった。
出来る事なら呂拠を追いたかったが、この異常な巨漢を放置していく訳にはいかない。
「胡遵将軍、一度退いて体勢を立て直しましょう」
「そうしたいのは山々だが、敵が入り込んでいては立て直しもきかないぞ」
「将軍、遼東の言葉で撤退を伝えれば、少なくとも子飼いの者達だけを集める事が出来るはず」
そもそも魏と呉では使う言葉が違う。
それでも魏の陣に奇襲に来た者達は伝令を装っていた事から、魏の言葉も使えるのだろうが遼東の方言まで身につけているとは思えない。
もっとも魏の兵にも遼東の方言が通じない者もいるのだが、全てを理想的に収めるより、今は多少の犠牲を出したとしてもより早く混乱を収める事が大事である。
見るからに猛将、と言うより狂人にしか見えない留賛をまともに相手に出来ないと判断した石苞は、胡遵が撤退したところを見計らって自身も退く。
「おーのれー、にーげるーのーかぁー。卑怯なーぁあ、りぃー」
歌いながら追いかけてくる留賛は、実力以上に恐怖を感じさせられるが、石苞が退くのは何も恐怖からではない。
呉の武将に恐れをなして逃げたと言われても仕方が無いところだが、ここで討ち取られる事の方が大きな問題になる。
まして石苞が討ち取られると言う事は、胡遵の身も危険にさらす事になる。
もし石苞が打ち取られた場合にはただ一武将が討たれただけで済む話だが、胡遵が討たれる様な事にでもなれば、それは魏軍全体に衝撃を与える事になってしまう。
それだけは避けようと考えたのである。
もう一つ、取り逃した呂拠の同行も気になった。
この策を胡遵の陣にのみ使うとは思えない。
十中八九、諸葛誕の陣、さらには司馬師の本隊にも仕掛けてくる。
それを防ぐ為にも、石苞はここを早く離れる必要があった。
その石苞の読みはずばり的中していたのだが、ただ一つだけ誤算があった。
石苞が考えるより早く、呉軍は動いていたのである。
それは呂拠一人に限った事では無かった。
呂拠も石苞の読み通り諸葛誕の陣に混乱を呼び起こしたのだが、呉軍の手はより深くにまで伸びていた。
さらに後方、司馬師の陣に伝令が走ってきたのを、予備戦力である鄧艾が引き止める。
「待て、これよりは本陣。どの様な要件だ」
鄧艾は伝令の小隊を呼び止め、杜預と共に伝令の元へ向かう。
「火急の知らせである! 急ぎ司馬師様に伝える事がある」
「その旨、大将軍直属の私が預かる。要件を聞こう」
「火急の知らせである事がわからぬか!」
「ならば早く申せ! 一刻を争うのであろう!」
鄧艾が一喝すると、伝令の一人が鄧艾の元へ駆け寄ってくる。
それはまさに一瞬だった。
二人の間に、凄まじい金属音が響く。
駆け寄ってきた者がその勢いのまま抜刀して鄧艾に斬りかかって来たのだが、鄧艾はそれを予想していた為、剣を抜いてそれを防ぐ。
その勢いのまま鄧艾は、逆に伝令の者に剣を振り下ろし、その兜を叩き割る。
「呉の者か。せめて名を聞いておこうか、ご老人」
「丁奉、字は承淵である。魏の木っ端者といえど、聞いた事はあろう」
「これは意外な大物が出張ってきたようだ。わざわざ手柄の運搬、ご苦労。その役目、存分に晴らすが良い」
「言ってくれる」
丁奉はそう言うと、すぐに鄧艾に背を向けて逃げ出していく。
「追うぞ、杜預! 呉の者、一人たりとも生かして返すな!」
鄧艾は大声で叫ぶと、一気に走り出す。
と言っても、逃げた丁奉達を追う訳ではなく、司馬師の本陣に向かってである。
「え? 将軍?」
「呉の者の狙いは本隊だった。司馬師様が最前線の情報を知らない今、何よりまずその事実を司馬師様に伝えるのが先だ。呉の連中も奇襲に失敗した以上、本隊ではなく前線の部隊のどれかを狙いに行くはず。悪いが、それは現場で何とかしてもらう」
鄧艾があえて大声で追撃を指示したのは、呉の刺客を本隊から遠ざける為であった。
呉の丁奉と言えば、鄧艾でも聞き知っている勇将の一人であり、武勇知略胆力のどれをとっても一流の武将である。
その武将が追手から逃れる為に司馬師本隊の方に逃げると言うほど決死とも言える大胆な逃走経路を取るとは、鄧艾には思えなかったからこその策であった。
鄧艾は急いで司馬師の陣に向かうと、まだここには混乱の手は伸びていなかった。
すぐに鄧艾は司馬師への面会を望んだが、司馬昭から止められた。
「司馬昭様、事は急を要します。すぐに動かなければ手遅れになります」
「兄上は負傷されているのだ」
「負傷? 敵襲がここにも?」
「いや、そうではない」
陣幕から現れた司馬師は、苦笑いしながら言う。
その左目には包帯が巻かれていた。
「まさかこの季節に毒虫が蠢いているとは思わなかった。目の下を刺されてな。危うく左目を失うところだった。ところで士載、急ぎのようだが、何用だ?」
「呉軍の奇襲です。先ほど丁奉と名乗る武将がこの陣に襲いかかろうとしていたところ、私と杜預で追い払う事が出来ました。しかし、呉の武将がこの様なところまで入り込んでいる事を考えると、前線はすでに混乱していると考えるべきです」
「……仲容の言っていた通りになったか。先手を取られたな。事態を確認する為に、諸葛誕の元へ伝令を出せ」
「閣下、呉の者は伝令を装っていました。下手をすると余計な混乱を招く事になりかねません」
杜預が司馬師に言う。
「……とは言え、確認しない訳にはいかない。向こうからの連絡を待つより、こちらから動いた方が早い」
「御意に」
この時はまだ対処出来る、と司馬師も鄧艾も考えていた。
呉の武将達
面白武将代表とも言うべき留賛ですが、史実にも歌いながら戦っていたと言う恐ろしすぎる特徴の猛将です。
しかも老将。
これくらい面白い呉の武将は、他には張昭か甘寧くらいしかいないのではないでしょうか。
関羽や張飛、呂布と言った一目見てその人と分かる様な猛将というのも怖いですが、こう言う狂気に満ちた老人と戦場で会うのはまた別の恐怖を感じさせます。
正直、今回の戦でしか鄧艾伝では出番が無いのが勿体無いです。
呂拠はこの物語では非常に地味な役割に徹していますが、この人もまた優れた人物で、これまでの呉を十分過ぎるほど支えてきた名将の一人です。
ただ、丁奉&留賛の面白爺ちゃんコンビのキャラが強すぎる事もあって、こんな役割になってますが、案外こう言う支える役こそが呂拠の役割だったのかもしれません。
 




