中編
その日、エヴァリーナは大神殿の最奥にいた。
そこは神殿内でもごく限られたものしか存在を知らない、秘中の秘たる部屋だ。扉は質素であるにもかかわらず、内部の壁や柱に施された装飾や室内具は一目で価値のあるものとわかる。構造やものの配置は、神殿の本殿にそっくりだった。
神殿の中に隠された、もうひとつの小さな神殿。
祭壇の上には、精緻な意匠が凝らされた聖布が敷かれ、その上には三角錐型の大ぶりな水晶が二つ安置されていた。水晶の中には、美しい光の粒が満ち、絶え間なく瞬いている。
「エヴァリーナ」
祭壇の前に佇んでいた、エヴァリーナが振り返る。
ランプを携えた二つの人影を認めて、エヴァリーナはこの一年で慣れきった微笑みを浮かべた。
「まあ、マティアス大神官が一番に来るかと思っておりましたのに」
「一番与しそうなヤツがいなくて残念だったね。マティアスは、ダーヴェッティのところに飛ばしたよ」
「その代わりのラウリですか」
パイヴィオが片手指を鳴らすと、室内の光球全てに光が灯る。光球は、室内照明用の魔法具だ。
ぱっと明るくなった室内に、まぶしそうにエヴァリーナは目を細めた。
「私では反応しなかったのよ」
「そりゃそうだろ」
パイヴィオの唇が皮肉げに歪む。嘲るような声だったが、しかしその視線は油断なくエヴァリーナを捉えていた。
「あんた、こんなとこで何しんての」
「扉に感知魔法がかかっておりましたから、どれくらいで誰が来るか、待っておりました」
「お散歩してたら、変な扉を見つけたから、つい好奇心でってか?」
「信じませんでしょう、そんなこと」
「信じねえよ。話を戻す。何してんの、って聞いてるんだよ」
「半年足らずで、ここを見つけることはできました」
にっこりとエヴァリーナが笑う。
ランプを下に置いたラウリの手が腰元に伸びるのを、パイヴィオが一端止めた。
「もちろん探そうと思って探していたのだから、何のための場所なのかは知っているつもりですわ」
パイヴィオにも、ラウリにも目立った表情の変化はない。
「パイヴィオ、ラウリ、答え合わせをしてくれます?」
「言ってみなよ」
「ここは、聖女を召喚するための部屋ね?」
二人は何も答えない。エヴァリーナは続けた。
「そして最後に召喚が行われたのは三年前。誰がこの場にはいたのかしら。ダーヴェッティ殿下はいらっしゃったかしら。ラウリはいなかったでしょうね、まだ無関係だもの。マティアス大神官とパイヴィオは絶対にいたと思うのだけれど、どうかしら。今も昔も、もっとも聖術と魔法に長けているのはマティアス大神官とパイヴィオですものね」
無関係と言われた瞬間、柄の上でラウリの指先がぴくりと跳ねる。
それを目端に捉えながらも、エヴァリーナの「解答」は止まらない。
「私では聖女に足らないと判断されたのね。でも聖女が必要だったのね。だから、この部屋を使った。歴史書をひもとけば、聖女は常に途切れず存在していたわけではない。にもかからわず、必要とされる時代には必ず聖女は存在した。神が世界の危機を予見するから? それなら危機が発生する前にどうにかしてくださればよろしいのに。でも、違う。そうじゃない」
パイヴィオは眉を顰めた表情のまま動かない。
ラウリの表情だけが少し揺らいでいるのは、事態の概要は知っていても、聖女の詳しい歴史までは彼の知るところではないからだろう。焦りや意外の表情ではなく、ただ初めてのことを聞かされた顔だ。
「神殿も国も、皆聖女が大好きですもの。聖女についてはいつも詳細な記録が残っている。そうしてよく調べれば、聖女には二種類あることがわかるわ。過去から継続して成長記録みたいに記述が存在する聖女と、ある日突然記述が現れる聖女。記述漏れかしら。でも、平和な時代にそんな聖女はひとりもいない。有事の時代にだけ、突然現れる聖女がいる。国が大変だから成長記録なんて綴っている暇はなかったのかしら。もしそうなら職務怠慢ね。ちゃんとその罪で殺されていればいいのだけれど」
言葉の物騒さに、二人の表情が一瞬険しさを増す。それは警戒の増大というよりも、不快の表出という方が近い。聖女リーナに対する心酔度が特に高かった二人は、同じ顔をしたエヴァリーナが「殺されていればいい」などというリーナに不似合いな言葉を発するのが嫌なのだ。
胸がすくような思いで笑みを深めながら、エヴァリーナは「でも、違う」と言葉を続ける。
「本当に聖女は突然現れたのよね。有事の際にいない時には、聖女をここで呼んだのでしょう? そして同じことを三年前もしようとした。けれど、歴史が証明しているわ。ひとつの時代に、聖女はひとりだけ。聖女がいなかった時代はあっても、聖女が二人いた時代はひとつもない。だから貴方達が行った儀式は、半分成功して、半分失敗したのね。完全な失敗ではなかったのは、やっぱりマティアス大神官やパイヴィオがすごいからなのかしら。星の髪に空の瞳を持った二人目の聖女は召喚できなかった。でも、その魂だけは召喚に成功し、自分の器を持たない魂は、私という同じ聖女の器に入った」
エヴァリーナは両手を自分の胸に重ねる。
「可哀想な私は、そこで力負けしてしまった。いえ、純粋な力で負けていたなんて思いませんわ。でもずるいことに、三対一の不意打ちでは流石の私も勝てなかった」
「ハッ、まだリーナより、自分の方が偉いって思ってんの?」
「挑発しないで。貴方が思っているほど、私と彼女に差はないと思いますわよ?」
「思い上がるな。彼女とお前とでは全く違う」
唸るような声をあげたのは、ラウリだ。
「まあっ」と弾むエヴァリーナの声は、笑みすら含んでいた。
「一体どこが違って? 私とあの女、一体何がそんなにも違って?」
「リーナは!」
「私、そんな人の話はしていないわ」
一転、笑みの欠片もない声でぴしゃりと切り捨てる。意表を突かれたように黙り込むラウリの顔を、エヴァリーナは嘲るように笑う。
苛々した顔で、パイヴィオが話に割り込んできた。
「ああ、それで正解だよ! 僕達には聖女がどうしても必要だったからね」
「私も聖女ですのに」
「僕も言ってやるよ、思い上がるな、貴族風情が。お化粧塗ったくったって皺は隠せないのと一緒さ。外見が優れていることは魂に関係ない。聖女はリーナだ。あんたはただ見映えがいいだけの、薄汚い人間だ」
「図々しいことね、平民上がりが。ただの人間がこれほどに聖術を扱えるわけないじゃないの。大体、貴方達が大好きな聖女様だって、元を正せば同じ人間ではありませんか」
「彼女は、聖女だ」
噛んで含めるように、ラウリが言う。
エヴァリーナは小さく鼻を鳴らすと、肩をすくめる素振りをする。
「あらそうなの。聖女も人を殺すんですのねえ」
「それ、自分の親のこと言ってるなら、お門違いもいいとこじゃん。あんたの親は、罪に相当する罰を受けたんだよ」
初めて、エヴァリーナの笑顔が僅かに崩れる。
「受けさせたのは、あの女ではないの」
「ばれなきゃよかったのかよ。下品な貴族はこれだから嫌だね。考え方が犯罪者と変わらないんだから」
「方法はあったはずだわ。父があそこまでの罪に問われたのは、あの女のせいよ」
「話聞いてる? そもそも、それだけのことを犯していたからこその結果だろうが。自業自得だっつーの」
「母のことだって、そうですわ」
「あの女が首落とされずに済んだのは、リーナが直訴したからだよ?」
「そうよ、そのせいで、母は貴族として死ぬこともできなかった。みすぼらしい下賤に身ぐるみを剥がされ、辱めを受け、なぶり殺しにされた!」
「あのさあ、結局それも自業自得にしか思えないんだけど。同じこと、やり返されてるだけじゃん。リーナを責めるのおかしいだろ」
パイヴィオは呆れた顔で両手を横に広げる。
ラウリもまた、不快そうに鼻に皺を寄せた。
「リーナはそもそもヘルミネン伯爵の命すら助けようとしていた。しかし罪状からしてそれだけは不可能だったのだ。そして、放逐が決まり自害しようとした伯爵夫人にすがって、リーナは言った。『生きて下さい』と。『どうかここで死なないで。生きていればきっと未来はあるから。償ってやり直して、立ち直って』と。彼らのしてきたことを知りながら、それでもリーナは彼らのためにもまた、祈ったのだ」
「だからなんだと言うのよ! お父様の命を救いたいならば、そもそも全てを暴き立てなければよかった! お母様に生きよと言いながら、結局は最も不名誉で惨めな死をお母様に与えただけではないの!」
「話にならないね。結局腐ったお貴族様には、彼女の清廉さなんて理解できないのさ」
「貴方達だって、何も理解していないでしょうに」
一瞬前の激高が嘘のように静まった瞬間、ばん! と音を立てて居並ぶ光球が半分ほど弾けた。
破片から目を庇いながらパイヴィオが長い袖を振るうと、袖口から幾筋かの細い閃光が飛ぶ。魔力を帯びた針剣は、素早く顔を背けたエヴァリーナの頬を掠めて壁に突き刺さった。
「ッ!」
針剣が裂いた頬を手で押さえ、エヴァリーナは燃えるような憎悪を宿した目を二人に向けた。それでも唇だけがゆっくりと柔らかい弧を描く。一年間ずっと、リーナの姿を真似ることだけを考えて浮かべていた笑みは、今も形だけはかつていた聖女にそっくりだったが、纏う気配も、目に浮かぶ感情も、似ても似つかぬ今となっては逆にいびつな禍々しさを増すだけにすぎない。
「ひどいわ。パイヴィオ。女性の顔に傷をつけるだなんて」
「そりゃごめんね。ところで、エヴァリーナ。あんたの長い解答につきあってやったんだ。今度は僕の答え合わせにつきあう番じゃない?」
剣を抜き放ったラウリと共に、油断なくエヴァリーナを睨むパイヴィオは、しかし不敵に唇を上げる。
「あら」と声をあげたエヴァリーナは、頬を押さえたまま祭壇に寄りかかる素振りを見せた。
「一体何を採点してほしいのかしら」
「あんたに二年間の記憶がなかったっていうのが嘘だっていうのはもうわかってる。意識はずっとあったんだろ。で、リーナのことを逆恨みしてるのも、よーくわかった。そんなに憎くて嫌いでしょうがないリーナのことを、一生懸命ドヘタクソに真似ていたのは、聖女の地位にしがみつくためだよね」
探るような視線に、「どうぞ続けて」とエヴァリーナは空いた片手を上にして示す。
「それは聖女であれば、王宮でも神殿でも、大抵の場所への入室が許されるからだろ。さっきあんたが喋った通りのことが、調べられた痕跡もあった。でも、それだけじゃないよね?」
暗い炎が燃える目を、エヴァリーナが細める。唇は変わらぬ緩い弧を描いたままだ。
パイヴィオは一度言葉を途切らせた。もはや彼の目に浮かぶのも、リーナを貶められる怒りや貴族を見下す嘲りではない。国に、そして人に仇をなす外敵を打ち倒さんとする強い意志が燃えていた。ラウリも同様だ。
「最初に話を戻すよ。あんた、ここで、何してんの?」
「まあ、パイヴィオ。私はひとつしか答え合わせをしていないのに、貴方、それでは質問がふたつよ。しかたがないから両方に答えてあげますけれど、その代わりに、私の質問にもうひとつお答えなさいな」
そう言うと、エヴァリーナはまっすぐパイヴィオの顔を見つめた。
「ねえ、貴方、さっき私が光球が反応しないと言った時、『そりゃそうだろ』と言ったわよね。どうしてそんな風に思いましたの?」
「ここの光球は聖術に対応してる。――そんなドロドロに濁った術、もはや聖術なんて呼ばねえよ」
「あら――――そう。そうなの、私、もう、聖術使いではなくなってしまったのねえ」
その時、ぐううっと不自然なまでにエヴァリーナの笑みが深くなった。見る者に無条件に不穏を与えるような表情に、パイヴィオとラウリが体を固くした瞬間、エヴァリーナが頬から離した手の下から、ドロリと真っ黒いぬめりが溢れ出す。
パイヴィオの針剣で裂かれた皮膚の痕には一滴の血もなかった。ただ頬にはパックリと裂けた暗い洞があり、そこから黒い闇が噴き出していた。
すかさず投擲された針剣は、泥に沈むように闇に呑み込まれる。
「チッ。……クソッ、ダーヴェッティとマティアスは何やってんだよ!」
「お忙しいのではないかしら?」
エヴァリーナの声は穏やかだったが、そこに滲む仄かな笑いの気配は明らかな見下しを孕んでいる。
「……! あんた!」
「頑張って時間を稼いでいたのに、教えてあげなくてごめんなさいね? でも、四対一だなんて、そんなのずるいじゃありませんの」
今やエヴァリーナ自身の体積を超えるほどの量の闇を周囲に携えて、娘はやんわりと嗤う。
エヴァリーナの状態は、パイヴィオやラウリの予測を超えていた。それが後手となり、防御に専することを余儀なくされる。
「質問に答えていなかったわね」
パイヴィオの魔法を弾き、ラウリの剣を叩く、その闇の鋭さが嘘のような軽さでエヴァリーナは語る。
「でも、私が何を何のために調べていたのかについては、もう答え合わせは十分でしょう。もうひとつは、そう、ここで何をしているのか、でしたね」
聖女リーナが施した闇の封印を解くこと自体に困難はなかった。リーナが闇を封じる前後を、もっとも近くで観察していたのはエヴァリーナである。同じ体を共有したリーナとエヴァリーナは、同じ力を扱うことも当然できた。
ただし、エヴァリーナは、再び闇の脅威で世界を呑み込もうと考えたわけではなかった。彼女は自らの手で復讐を果たすために、闇を呑み込んでやろうと考えたのだ。
果たしてエヴァリーナの執念は実った。闇を唯一封じる聖女の力を使って、リーナが封じた闇を自らの魂の内側に封じ変えた。魂を檻としたのではなく、完全にひとつに混ぜ込んだ。一歩間違えば、自我もない化物が一匹誕生しただけである。しかし、太古の闇冥を、彼女の怨讐はねじ伏せた。
「私、考えましたの」
凄まじい音を立てて、闇の塊がパイヴィオとラウリのいた場所に叩き付けられる。床石には放射状のヒビが走り、石材の欠片が飛び散った。
「闇を払えるのは聖女だけ。ならば、聖女さえいなければ、一体誰に私の邪魔ができるのかしら。『ここで何を』? 聖女なんて、邪魔なもの。喚べなくしてやりたいのですわ、私」
エヴァリーナの手が、祭壇上の水晶のひとつに伸びた。ほっそりした指先が水晶に触れようとしたその瞬間、ばつん、と激しい火花が弾け、彼女の手が跳ね上がる。
エヴァリーナが驚きに目を見開いた隙を突いて、パイヴィオの魔法が炸裂した。祭壇から弾き飛ばされた体が柱にぶつかって止まる。直接には柱との間に生じさせた闇の塊に受け止められた体に損傷はなかったが、ただ右手の皮膚は爛れて血の代わりに闇を滴らせた。
水晶の聖光が、エヴァリーナの闇を拒絶したのだ。
「あんたなんかが、触れるわけないだろ」
安堵を含みながらも、パイヴィオは不敵に牙を剥いた。のしかかる闇を躱して地を蹴ったラウリがエヴァリーナに斬りかかる。
闇で剣を受けたエヴァリーナは、しかし、パイヴィオよりなお不敵に唇を吊り上げた。
「聡明な大魔法使いとも思えない言葉ね。触れないわけないでしょう」
パイヴィオの眼前に、巨躯が迫った。急激に膨れあがった闇の鞭を叩き付けられたラウリの体である。パイヴィオがそれを躱し、またラウリが受け身をとって膝を床についた時には、すでにエヴァリーナの姿は再び祭壇の前にある。
水晶の上にかざされた右手から、闇がだらだらと滴っている。黒い粘りは水晶に触れる前に聖光に灼かれ、ひとかけの灰も残らなかったが、――不意に、黒の中に赤が混じったかと思うと、瞬きの間に傷口から溢れるのが赤いただの血液に変わった。赤い、ただの、聖女の血だ。聖光を透過し、水晶の表面を赤い滴りが伝う。その、滴りが、次の瞬きよりも早く再び黒に転じると、水に落とした墨のように、水晶の内部へと闇が浸潤した。
「自在かよ」
心底忌々しそうに吐き捨てるパイヴィオ達に見せつけるように、輝きを失した水晶を胸に抱いて、エヴァリーナは二人に向き直った。
「ほうら、ひとつめ」
ずず、と水晶がエヴァリーナの胸元に呑み込まれる。同じ胸元に生じていた小さな渦は、水晶が完全に呑み込まれるのと共に消えた。
そしてふたつめの水晶へと伸ばしたエヴァリーナの右手の、肘から先が全て消失した。彼女がそれに対して何らかの反応を見せるよりも先に、再び痩躯がその場から弾き飛ばされる。壁際に追いやられたエヴァリーナの体と周囲を包む闇を、新しい聖術が押さえ込んでいた。
「――そこまでだ、エヴァリーナ」
「おや、殿下ではありませんか。それにマティアス大神官も」
エヴァリーナに聖術を放ったのはダーヴェッティである。ダーヴェッティはエヴェリーナの有様を、血の一滴も零さない右腕を見つめ、暗い面持ちで眉を顰めた。
「……そこまで堕ちたか」
「ごきげんよう、殿下。もうおいでになりましたのね」
マティアスが、エヴァリーナから水晶を庇うように前に立つ。素早く、しかし強固に編まれた聖術の光が水晶の上に降り注いだ。国一と名高い大神官の守護の術である。もはやエヴァリーナとて容易に手が出せるものではなくなった。
「頃合いねえ」
救世の英雄との四対一だ。
「観念しろ、エヴァリーナ」
硬い声でダーヴェッティが言う。エヴァリーナを抑える聖術の光が増し、娘は俯いて小さく呻いた。
エヴァリーナは、俯いた先で一度目を閉じる。息を整える。いっとき闇のうねりを押さえ込む。
四人の警戒が増した。ラウリが剣を鳴らし、パイヴィオとマティアスの手にそれぞれ魔法と聖術の光が灯る。
「エヴァリーナ、無駄な抵抗はよせ。すでにお前の真実は暴かれている」
好ましい表情を、声の響きを、エヴァリーナは、思い出す。晴空の瞳が、ダーヴェッティを見た。
「――――ダブ」
かつて、しばしば耳に聞いた声。ダーヴェッティの瞳に映っていた晴れやかな笑顔。ただ一人、異国の呼び名が口慣れない娘にだけに許された、彼女が彼を呼ぶためだけの、愛称。
「殿下!」
マティアスの声は、遅い。
術者の動揺による聖術の揺らぎをエヴァリーナは見逃さなかった。右腕の断面から、幾重にも枝分かれして飛び出した闇の筋が、彼女の体の拘束を噛み砕き、ラウリの投擲した長剣を弾き飛ばす。パイヴィオとマティアスの術には幾らかが消滅させられたが、エヴァリーナ本体を損傷させるまでには至らない。
残った闇の塊が楔状に分かれ、エヴァリーナを取り囲むようにして床に突き刺さった。伏せていた目を、エヴァリーナが開ける。
白い強膜に赤い血管が浮かび上がっていたのは僅かな時間のことだ。赤い筋は端からみるみる黒に色を変え、やがて虹彩に突き刺さると、そのまま浸食した。誰もが愛した澄んだ空の色の瞳が、闇に犯されていく。
ぱちりと最後にエヴァリーナが瞬いた後、そこに現れたのは、光を映さない、闇だけが凝った漆黒の瞳であった。
誰もが刹那息を飲んだ時、楔を穿たれた床が決定的な音を立てた。
「下がれ!」
床が崩落する。砕けた石材と共に地下に沈み、闇に身を包もうとしているエヴァリーナが、まるで聖女リーナのように微笑んだ。
「それではごきげんよう、救世の英雄の皆様方」
しかし聖女とは、星を集めたような銀の髪と、晴れ空のように澄んだ青い瞳を兼ね備えた乙女を言う。
かくしてエヴァリーナは聖女の資格を失い、その地位をもまた失ったのである。