日咲〜後編〜
12月。
提出期限が迫っていた。
夜の共同アトリエで丸椅子に座って私は悩んでいた。
目の前には私の作品がある。
私の卒業制作は自画像。
F100号。
サイズは162㎝×130.3㎝。
大きなキャンバスに描かれた丸椅子に座ってこちらを見ている女性。
これで提出してもきっと問題はない。
でも、これで完成にしてもいいのだろうか。
じっと見つめていると声がした。
「これは悠木さんですか?」
振り返る。
そこには教授が立っていた。
私の担当教授。白髪に銀縁眼鏡。いつも少し猫背で笑顔を絶やさない穏やかな人だった。
はい、私です。
言おうとして口ごもる。
これは本当に私だろうか。
丸椅子に座ってこちらを見ている女性。
それは確かに私だった。
でも、どうしても自分に思えなかった。
それはただ自分に似ている人だった。
答えられない私に教授は微笑む。
「生まれてから死ぬまで。ずっと共にあるものなのに、自分を描くとはどうしてこんなに難しいのでしょうね。悠木さん、目に見えるものだけを描いていませんか? あなたはこんなに綺麗なモノでしょうか?」
その言葉に衝撃を受ける。
改めてキャンバスを見る。
そこに描かれた私そっくりの女。
見た目は確かにその通りだ。
でも、私はこんなに綺麗なモノだっただろうか?
「まだ時間はあります。どうか焦らず、自分自身とじっくり向き合ってください」
教授の足音が遠ざかる。
私は筆を持つ。
見つめるのは自分自身。
この4年間で味わった感情全て。
それはこんなに綺麗なモノではなかった。
怒り。悲しみ。羨望。苛立ち。不甲斐なさ。
それでも私は──絵を描くことが好きだった。
視界が滲み、瞳から何かが零れる感触がする。
いいじゃないか。これもここに刻もう。
自分の全てをこの場所に──。
どれぐらい時間が経ったのだろう。
気付くと脳も心も身体も全てが疲れ切っていた。
力を振り絞り、キャンバスに向き合う。
鏡を見ているのかと思った。
目の前に存在する女。
それは紛れもなく私だった。
そこに浮かぶのはあまりに生々しい傷と欲と愛だった。
私は筆を置く。
「出来た……」
タイトルは『絵を描く女』。
提出が終わり、次は卒業制作展に向けて準備が始まった。
会場の設置と絵の搬入は自分たちで行う。
時間通りに集合して慌ただしく準備していく。
自分の作品を展示しながら思う。
私の作品は姫華の隣か。
思っていると呼ばれた。
「悠木、自分の展示終わった?」
「あ、うん、もうすぐ終わる」
「ごめん、じゃあ、それ終わったらこっち手伝ってくれる?」
「分かった」
ゆっくりと見る暇もなくバタバタと時間は過ぎて行く。
2月。
卒業制作展が始まった。
自分の全てを掛けて描いた作品が展示され、色んな人に見られる。
緊張すると共にワクワクする自分もいた。
展示会場に入って人だかりが出来ていることに気付く。
あの場所は──
ドキドキしながら近付く。
気付く。
私じゃない。
姫華の絵だ。
姫華の絵の前にたくさんの人が集まっていた。
人混みを掻き分けて絵の正面に立つ。
それは私と同じF100号のキャンバスを4つ使っていた。
タイトルは『四季』
春、夏、秋、冬。
4つの季節が表現されている。
そこにあるのはこの国の私たちの四季だった。
匂いも温度も感触も伝わるようだった。
綺麗……。
ダメに決まっている。
ダメに決まっているのに触れたくなってしまう。
触れようとして気付く。
まだこれが自分のものでないことを。
思ってしまう。
この絵を自分のものにしたい。
私は頭を垂れる。
認めるしかない。
私は勝てない。
私はこの作品がたまらなく好きだ。
堂々と掲げられた「学長賞」。
美術学科の中、卒業制作の一等賞。
「すみません」
声がして横へと押しのけられる。
押しのけられた先にあったのは私の絵だった。
そこには誰もいない。
いや、違う。
一人の少女。
黒髪ショートカット。白いダッフルコートを着た幼い少女が一人で私の絵を見上げていた。
その絵、好き?
縋るように訊きたくなる。
「こら、そんなところで何してるの? もう行くよ」
「は~い」
しかし、少女は母に呼ばれて行ってしまう。
ひとりぼっちになった私は『絵を描く女』の前で顔を覆って泣いた。
何度も聞いた言葉が頭の中をぐるぐる回る。
あの子の隣に並びたくない。
自分の作品が可哀想に思えるから。
卒業制作展は終わり、搬出作業が終わって作品は私の元に返ってきた。
「にこちゃん!」
後ろから声を掛けられて私は無表情で振り返る。
「卒業制作、見たよ! すごい、すごいよ、にこちゃん!」
そこには興奮した様子の姫華がいた。
私はじっと姫華を見る。
姫華は私の持っているものに気付く。
「あ、その子、『絵を描く女』だよね? 私、もう一度見たい」
私はにっこり笑う。
「いいよ、捨てる前に見て?」
「え……」
姫華の表情が固まる。
「捨てるって、にこちゃん、何言ってるの?」
「そのままの意味だよ。こんなに大きなもの、あっても邪魔だろ?」
「どうして? すごい絵だよ。見た人の心を揺さぶるすごい絵だよ」
「でも、誰も揺さぶられてなかったよ」
ああ、違う。こんなこと、言うべきじゃないのに。
「にこちゃん?」
「みんな、姫華の絵ばっかりで、私のなんて誰も見てなかった」
「そんなこと……」
「そんなことあるんだよ! 私の全力なんて何の意味もなかったの!」
「…………!」
姫華が泣きそうな顔になる。
ああ、私、最低だ。
「ごめん、こんなのただの私の実力でしかない……」
うなだれていると声がした。
「……私は欲しいよ」
絞り出すような声。
「え?」
姫華は涙をこらえた目でまっすぐにこちらを見た。
「私はその絵が欲しいよ」
私は苦笑する。
「いいよ。ごめん、気を遣わせて」
「気を遣うとかじゃないの、本当に欲しいの! 私はその絵が欲しい! 捨てるなんて許さない。私はその子を自分のものにしたい。私にその絵を買わせて!」
「買うって……お金なんてもらえないよ……」
捨てるものに何の価値があると言うのだろう。
戸惑っていると姫華が自分のつなぎのポケットを探し始めた。
その手が止まる。
少しためらった後、姫華が取り出したのは──
「……これで売ってください」
差し出されたのはにこちゃん貯金のがま口財布だった。
「それ……」
「その絵の価値には足らないかもしれない。だから、今の私の一番大切なもので許してほしい」
手を伸ばす。
受け取る。
思ったよりも重い。
私は絵を差し出す。
姫華は小さな身体で守るように受け取った。
「ご購入ありがとうございました」
頭を下げる。
姫華は去って行く。
その姿が見えなくなった後、私は絵の対価を改めて見る。
中を開けるとたくさんお金が入っていた。
これは何回分の私たちのお金だったのだろう。
「なにしてんだ、私」
何で受け取ってしまったんだろう。
後悔してももう遅い。
私は姫華を追い掛けることが出来なかった。
私の絵が売れたのはこれが最初で最後だった。
それから私たちは一度も会うことがなかった。
卒業式に姫華は来なかった。
大学に行けば会えたから互いの連絡先さえ知らなかった。
卒業後、姫華は個展を開いたり、企業とコラボしたり、画集を出したり。
その活躍は眩しいほどだった。
私は高校の美術教師になった。
あの時の対価はひとつも使えないまま、手元に残っている。
購入したいちごミルクを自動販売機から取り出す。
ストローを刺して飲むと眉間に皺が寄った。
「あま……」
やっぱり私には甘すぎる。
「会いたいな……」
自分勝手な願い事が口をつく。
思い出通りの場所で欠けたところがズキリと痛む。
翌日。放課後。
顧問をしている美術部。
美術室の扉を開けると黒髪ショートカットの後ろ姿が見えた。
そこでは2年生の日向が一人で絵を描いていた。
イーゼルにキャンバスを置いて、油絵の具で色付けている。
「日向、今日は松永はいないのか」
後ろから話しかけると日向が振り返る。
「見たいテレビがあるって帰りました」
「松永の見た人みんながむせび泣く超大作はいつ出来るんだろうな。先生、大きめのバスタオル用意して待ってるんだけどな」
「あはは、いつでしょうね。私も大星の絵、楽しみにしてるんですけどね」
「日向は「未完」、もうすぐ完成しそうだな」
「はい」
うれしそうに笑う。
その前には2つ並んだ架空の花が花開いていた。ひとつは背が高くてひとつは背が低い。
1年生の時からずっと下書きのままだった「未完」だったが、なにかきっかけがあったのか今年の春に進み始めた。
その花はとても幸せそうで、互いへの愛情に満ちていた。
「いい絵だな」
自然とそんな言葉が出てくる。
「ありがとうございます。卒業までに完成できそうで安心しました」
「4月から3年生か。もう進路は決まったのか?」
「う〜ん、まだ迷ってるんですよね。好きなことも学びたいこともたくさんあって。絵は趣味のままの方がいいのかなと思ったり」
「まあ、好きなことを好きであり続けるためにはそれも選択のひとつだな」
日向が私をじっと見る。
「ニコチンは今の大学に行って良かったと思いますか?」
「え?」
突然の質問に驚く。
今の大学に行って良かったか?
そうだな……。
卒業制作展で思い出したもの。
辛いことも悲しいこともたくさんあったけど──。
「たぶん、また人生をやり直したとしても私は同じ大学を選ぶと思うよ」
自然と笑顔がこぼれる。
あの日々は私にとってかけがえのないものだった。
叶うならば、もう一度あなたに会いたいと思うから。
日向は納得したように頷いた。
「私もそう思えるような進路を選びたいです。最近も絵は描いてるんですか?」
「いや、大学卒業してからは全然描いてないな」
「え、そうなんですか。私、ニコチンの絵、好きなのに」
「ははは、ありがとう。日向、私の絵なんて見たことないだろ」
気を遣って言ってくれたのだろうと笑えば、日向は大きく瞬きをする。
「何言ってるんですか。姫華ちゃんの卒業制作展で見ましたよ」
私は固まる。
姫華?
「姫華って、日向、姫華のこと知ってるのか?」
「知ってるも何も姫華ちゃんは私の母の妹さん。私の叔母です」
……叔母?
叔母!?
「嘘だろ? 姫華が日向の叔母?」
「本当ですよ、そんな嘘言ってどうするんですか。私、すごく感動したんですから『絵を描く女』。この高校に入ったきっかけは大星ですけど、美術部に入ったきっかけは先生が顧問だからですよ」
思い出す。私の絵の前にいた白いダッフルコートを着た黒髪ショートカットの女の子。もしかして、あれが日向だった?
時を超えて届いたものがじんわりと心に沁みていく。
ああ、そうか。届いていたのか。
私の絵はあの子の心に届いていたのか。
「ありがとう……」
なんだか泣きそうになりながらお礼を言うと日向は不思議そうな顔をしていた。
それにしても世間って狭いな。まさかこんなところで姫華に繋がるとは。
ん? 待てよ? 繋がる?
「日向、姫華の連絡先、知ってるか?」
日向はキョトンとした顔をする。
言ってから気付く。
しまった。先生が生徒にこんなこと訊いてどうするんだ。
「あ、ごめん。今の言葉、忘れてくれ」
慌てて撤回するが、日向は何かを考えるように上を向く。
ポツリと話し始める。
「先生、知ってます?」
「ん? 何を?」
「姫華ちゃんのアトリエの一等賞の位置にある絵は何か」
「一等賞の位置?」
「はい、当たり前ですけど、そこには姫華ちゃんの絵がたくさんあるんです。でも、一番目立つ場所にあるのは違う人の絵なんですよ」
日向の顔がこちらを向く。その目はとっておきのことを教えるように細められる。
「『絵を描く女』ですよ」
私は息を呑む。
あの時の私の全て。
亡くすはずだったもの。
あの子はそんなにも温かい場所で今も生きていたのか。
何も言えずに固まる私に日向は紺のスクールカバンからスマホを取り出すとニッコリ笑った。
「姫華ちゃん、きっと喜びますよ」
夜。自宅のマンション。
「ふう……」
スマホを両手で持ち、私はひとつ大きく息を吐く。
こんなに緊張しながら電話を掛けるの人生で初めてかもしれない……。
震える指で日向に教えてもらった番号を押すと耳に当てる。
鳴る呼び出し音。
プルルルル。
プルルルル。
プルルルル。
『ただいま電話に出ることができません。ピーッという発信音の後に……』
それはしばらく鳴り続け、留守電のアナウンスに変わった。
力が抜ける。
それもそうか。そもそも知らない番号だし出ないよな……。
仕方ない。メッセージだけでも残しておくか。
発信音の後、軽く咳払いをして話し出す。
「あ~、悠木です。覚えていますでしょうか。……また電話します」
電話を切り、ため息を吐く。
もうちょっと良いメッセージがあったんじゃないか? 不審に思われて着信拒否にされたらどうしよう。
もやもや考えながらうなだれる。
途端、手の中のスマホが震えた。
「え、」
画面を見る。表示された番号に驚く。
「も、もしもし!」
慌てて電話に出る。
聞こえてきたのは──
『……にこちゃん?』
呼び声。
懐かしい懐かしい私の呼び方。
嬉しくて、嬉しくて、
「……久しぶり、姫華」
私は今の気持ちのすべてを込めてあなたの名前を呼ぶ。
電話の向こうで姫華のしゃくり上げる声がした。




