姫華〜前編〜
絵を描くのが好きだった。
まっしろな紙と描くものがあればひとりぼっちでも平気だった。
生まれつきのふわふわの茶色い髪はやけに目立って。
かわいいから調子に乗ってるなんて意味の分からない言葉が聞こえてきたりした。
学校での私の居場所は教室の机ひとつ。
休み時間もお昼休みもずっとそこで1人で絵を描いていた。
だめだよ、先生。好きな人と一緒に組んでなんて言わないで?
私が好きな人はいても、私を好きな人なんていないんだから。
ああ、今日描いたあの子がここにいればいいのに。
あの子の目はね、雨上がりの空の色をしているの。とてもとてもきれいな色をしているの。あとで私がぬってあげなきゃ。
ぼんやりとそんなことを思いながら先生の困った顔を見上げてた。
中学生、高校生も同じだった。
美術部に入ったけど友達は出来なかった。
私が絵を描くとなぜかみんな離れていく。
私の横で描いていた子が泣き出した。
霧島さんみたいに描けないと言う。
どうしてだろう。
あなたの絵はあなただけのもので私と比べる必要なんてないのに。
私はその子のやさしい絵が好きだった。
私はあなたの絵が好きだよ。
素直に伝えたら、ただの「嫌味」としてその子の心を傷付けた。その子は美術部をやめてしまった。他の子たちは私のせいだと言った。
それでも、美術室のはしっこで私は絵を描き続けた。
だって、私にはそれしかなかった。
高校3年生になって迷うことなく美術学科を選んだ。
もしかしたらと思った。
その場所なら私にも友達が出来るかもしれない。
思った通り、そこにいたのは絵を描くことが好きでたまらない人ばかりだった。
ワクワクした。
こんなにもいっぱいどこにいたのだろう。
色の使い方、景色の切り取り方、斬新なテーマ。
すごい。
すごい。
目をキラキラさせながらみんなの作品を見てた。
私も負けていられない。
描きたい。描きたい。もっと描きたい。
目の前にはたくさんの「まっしろ」があった。
うれしい。うれしい。もっと描きたい。
描いても描いても描き足りなかった。
見れば見るほど学べば学ぶほど私の中にあふれてくる。
課題以外にも私は描き続けた。
たりない。たりない。もっとちょうだい。
そうして、気付くと私の周りには誰もいなかった。
おかしいな。ここなら出来ると思ったのに。
天才って何?
意味の分からないことを言わないで。
私はそんなものじゃないよ。
お財布のお金は画材に消えていく。
お昼ごはん代は残しておこうと思うのに、描きたいと思ったらもう止められなかった。
1年生の秋。
私は自動販売機の前でパックのいちごミルクを凝視していた。
飲みたい。おいしそう。
でも、どれだけ見つめても当たり前だけど何も出てこない。私のお財布の中身も増えやしない。
あきらめよう……。
そう思った時──
ぐ〜きゅるるるる〜
私のお腹が盛大になった。
まっ赤な顔でお腹を押さえるけど、もう遅い。
横の自動販売機の前で同じ学科の悠木さんがゆっくりとこちらを見た。
恥ずかしい……。
「ごめんなさい……」
私は小さくそう言うと自動販売機から離れようとする。
その時、悠木さんが紙パックの自動販売機にお金を入れた。
あ、こっちのものが買いたかったのか。私、ジャマだったよね。
申し訳なく思っていると悠木さんはいちごミルクを押した。
「ワア、シマッタ、マチガエタ」
聞こえる棒読み。
私はびっくりする。
え?
悠木さんは取り出すとそのまま続ける。
「ドウシヨウ、コンナニアマイノノメナイヤ」
ちらりと私を見る。
「いる?」
私の目がうるうる潤む。
「悠木さんは神様ですか?」
悠木さんは大げさなと言うように苦笑した後、意外そうに言った。
「私の名前、覚えてたんだ」
「え、もちろん」
何を当たり前のことをと思った。みんなの名前、ちゃんと覚えてるよ。あ、そうだ、この機会に伝えたかったこと伝えなきゃ。
「あのね、この前の課題、すっごく素敵だったよ」
「いや、そんなお世辞を言わなくてもあげるよ」
「ちが、本当に本当にそう思ったんだよ。あれってここの景色を描いたんだよね。自動販売機の前で語り合うひとたち。煙草の煙。景色だけじゃなく、色んな人の感情も透けて見えてすごく素敵だった!」
学内を描く課題。作品の講評。教授には散々な言われようだったけど、私はとても好きだった。いつかその気持ちを伝えたいと思っていた。
言ってからハッとする。
これってまた「嫌味」だと思われる?
過去の記憶が甦って慌てて悠木さんを見る。
その顔には照れが浮かんでいた。
それを隠すようにいちごミルクを押し付けられる。
傷付いてない、よかった……。
ホッとして私は顔いっぱいに笑って「ありがとう」と両手でそれを受け取った。
それから、悠木さんはブラックコーヒーを買って、横の階段に座ってお話をした。
こんな風に誰かと隣に座っておしゃべりするのは初めてのことだった。
悠木さんはこうなった理由を聞くと呆れたような顔をした。
「え、もしかして今日のお昼それだけ?」
「うん、悠木さんのおかげで満たされた〜」
「いやいや、満たされるか。ちょっと待って、何か買ってくるから。おにぎりとかでいい?」
「いやいやいやいや、そこまでしてもらう訳には!」
慌てて止めようとすると悠木さんは怒った。
「午後からの授業どうすんの? 絵を描くのが好きなのは分かるけど、自分の身体も大切にしな?」
びっくりした。
私のこと、本気で心配してくれてるんだ。
悠木さんは立ち上がると私に向かって手を伸ばした。
「じゃあ、いっしょに買いに行こ? 思えば、霧島さんの好きなおにぎり知らないや」
私は泣きそうになりながら、その手を取って立ち上がった。
思った。
私、この子と友達になりたい。
諦めるばかりの人生だけど、これだけは諦めたく無い。
一緒に売店に向かって歩き出す。
「おにぎりはシャケが好きです……」
「そうなんだ。私はツナマヨが好き」
「悠木さん、お友達になりたいです……。苗字じゃなくて下の名前で呼んでもらってもいいですか?」
「姫華って? 別にいいけど」
「悠木さんの下の名前は……」
「……言わない」
「え、なんで」
「知らなくていい」
「知りたい」
「知らなくていい」
「なんで〜」
その後、悠木さんは頑なに教えようとしなかったけど、なんとか下の名前を知ることが出来た。
にこちゃん。
日に咲と書いて日咲ちゃん。
なんてかわいらしい名前だろう。
ただ本人はなぜか嫌いらしく、呼ぶといつも嫌そうな顔をした。
でも、私は呼び続けた。
にこちゃん。にこちゃん。にこちゃん。
だって、私はこの名前が好きだった。
私も呼んで?
姫華。姫華。姫華。
にこちゃんが名前を呼ぶと幸せな気持ちになった。
そして、すぐにお金を使い切る私ににこちゃんは約束をした。
お昼をいっしょに食べよう。だから、その分のお金は残しておいて。
私は手芸屋さんに行くと布を買って、がま口財布を作った。
一目惚れした青い布。昔描いたあの子の目の色に似ていた。雨上がりの空の色。
それに黒の糸で「にこちゃん」と刺繍した。
名前はにこちゃん貯金。
このお金だけは絶対に使わないと決めた。
にこちゃんに見せると吹き出した。
「せっかく綺麗な布が台無しじゃないか」
そう言っておかしそうに目尻の涙を拭われた。
私は「いいの」と言った。
この布はこの使い方が一番幸せなの。
にこちゃんは不思議そうな顔をしていた。
それから、にこちゃんとたくさんの時間を過ごした。
春。お花見をしたことがないと言うと「もったいない」と言われ、レジャーシートを持ち込んで大学の桜の下でお昼を食べた。
売店で買ったおにぎりとポテトチップス。2人で分け合ったポテトチップスはいつもより食べる量は減ったはずなのに、とてもとてもおいしかった。
夏。溶けそうに暑かったのでソーダアイスを買った。
食べるよりも溶ける方がはやくて手がベトベトになって2人で大笑いした。
秋。告白せずににこちゃんの恋が終わった。
20歳になって煙草を覚えたにこちゃんの喫煙量がぐ〜んと増えた。
「あんな男もういい」と言いながら煙草をスパスパ吸っていた。
健康には悪いけど、煙草を吸ってるにこちゃんはカッコよくて好きだった。
冬。全ての授業が終わった後、にこちゃんに言われた。
「今日はスクールバスに乗らないで駅まで歩いて帰らないか?」
駅まではバスで10分ほど。歩いたら結構掛かる。
大学のペットボトルの自動販売機でにこちゃんはホットコーヒー、私はホットミルクティーを買った。
2人であったかい飲み物を飲みながら帰った。
距離が気にならないほど楽しくて、この道が終わらなければいいと思った。




