第二十五話「それでも」
激しい揺れが、意識を現実から離していく。ゆりかごの中にいる赤子のような気分。
何も考えられない。
考えることが辛い。
辛いことばかりだ。
理不尽だ。
ちくしょう。
ちくしょう――。
何が間違っていたのか。
どうすればハッピーエンドが迎えられたのか。
こんなバッドエンド、あんまりだ。
倉凪。
涼子。
――――。
――。
「久坂零次」
冷たい声が聞こえた。
顔を上げる気にもなれないから、動かなかった。
頭上で、冷夏が深い溜息をつく。
こちらの弱さを理解しているのだろう。彼女も、同じような経験をしたのだから。
だからか、彼女はこちらを責めるようなことは言わなかった。
「きついなら、遥を連れて早めに逃げなさい」
「……」
「ここにいたら死にます。言いたくはありませんが……冬塚涼子の判断は裏目に出た。土門荒野は復活する」
涼子の決断は零次を救ったのかもしれない。その代わり、守るべきはずだったものは危険に晒されている。
「今は辛いかもしれない。ですが考えてください。彼女が何を望んだのか。あなたや遥がこれで命を落としたら、彼女の決断は本当に無駄なものになってしまう」
「無駄……」
それは嫌だ。
だが、このまま逃げるのも――何か嫌だった。
面を上げる。
「俺は」
「生半可な覚悟で来られても邪魔です」
口に出そうとした言葉は、言う間もなく封じられた。
「逃げなさい、助けたい人たちを連れて。しばらくしてから戻ってくれば……すべて、終わっているはずです」
最後の最後で、冷夏は優しげな――それでいて儚げな表情を浮かべた。
まただ。
その顔は、もう嫌だ。
頼むから、そんな顔をしないでくれ。
皆、その顔をした人は、皆――。
だが、零次の思いはまとまらず、言葉にならない。
冷夏は既に駆け去ってしまった。
零次は動けない。全身から力が抜けて、一歩も進めない。
このまま眠ってしまえたらどんなに楽だろう。そんなことを、思った。
この絶望的な状況で飛鳥井冷夏が思うのは、霧島直人や八島優香のことでもなく、飛鳥井本家のことでもなく、倉凪梢や冬塚涼子のことでもなかった。
……賭けはしない。
危険な賭けは嫌いだ。少しずつ確実に。それが彼女のやり方である。
飛鳥井の人間には、今後どうすべきかを通達した。
尻込みしている各組織に対しては、発破をかけつつ餌を投げつけてやった。そうでなくとも、これほどの事態になった以上、どこの組織も本腰を入れてくるに違いない。
だが、時間がない。
街の被害を度外視するなら、各組織の人員が集まるのを待つのが無難だ。街の人たちも避難させればいい。多少の犠牲は出るかもしれないが、被害は抑えられる。
だが、それよりも少ない被害で済む方法がある。
確実に可能な時間稼ぎ。
上手くいく。
……上手くやるんだ。
震源地が近い。
程なく、樵と涼子によって作られたであろう巨大な空洞が見えてきた。
この奥に、すべての元凶がいる。
冷夏は無意識に鉄扇を手にしていた。樵の手負い具合からすると、もしかしたら自分でも倒せるのではないか――。
その期待は、即座に消えた。
声なき咆哮が空洞の奥底から響きわたり、大地が鳴動する。身体的負傷など、もう関係がない。土門荒野は一つになったのだ。もともと生き物ではなく概念として扱うべきその災厄は、むしろかつてないほどに絶好調なのである。
冷夏は鉄扇を投げ捨てた。
そして、高速で周囲一帯に結界の術式を展開し始めた。
奈良塚の技術者が作った封魔の効果を持つ着物。それによって長年抑えられていた冷夏の魔力は、膨大な出力量である。制御するのは至難の業だった。
それを、舞い散る砂塵の粒子すら見分けるほどの集中力で、冷夏は操る。
この鳴動を抑えるために、結界は地中にも伸ばさなければならない。範囲も広すぎず狭すぎないよう調整しなければ、土門荒野を封じるほどの強度は保てない。
針の穴を通すような精密さで、弾丸並の球を投げるようなものだ。少しでも集中力が切れれば破綻する。
……まあ、失敗してもリスクは少ないですけどね。
だからこれは賭けではない。ただの悪あがき、あるいは無謀な挑戦である。
けれど、やる価値はある。
滅ぼすのは無理だが、肉体の損傷は土門荒野の行動を束縛しているらしい。禍々しい魔力は秋風市全体を覆い尽くすほどに巨大だったが、土門荒野そのものに動きはない。
冷夏としては、結界の構築に専心することができる。
身体の中から何かが抜けていく。その度に強烈な寒気が襲ってきた。
不思議と、苦しくはない。ただ、結界の展開がある程度安定してくると、少しずつ落ち着かなくなってきた。手持ち無沙汰だ。
内ポケットから携帯を取り出す。
馴染みの番号にかけると、相手はすぐに出た。
『もしもし、冷夏か』
「孝也」
声を聞いて、散漫になりかけていた意識がはっきりしてきた。
『君は何をしている』
「結界の構築を。成功すれば、皆が集まるまでの時間稼ぎにはなるわ」
『……被害も最小限で抑えられる、ってわけか』
こっちが向こうの考えていることを理解しているように、彼もこちらの考えは察しているのだろう。
「孝也に電話して良かった。やっぱり、あなたの声を聞くとほっとする。結界の構築もこれで成功したようなものね」
『お役に立てて光栄だよ――と言えばいいのかい』
「不服そうね」
『まったくだ。馬鹿ばかりで困るよ。まったく、本当に……』
そんな馬鹿ばかりを好きになる彼が悪い。口には出さずに、そう思うことにした。
土門荒野を中心に球状となって展開する式は、最初こそ糸の集まりでしかなかったが、徐々に補強されてきた。ほんの少し、揺れが弱まる。
「実はね、孝也。私、最初は直人のことが好きだったのよ」
『ああ、なんとなくそんな気はしてたよ』
「ふふ、孝也は勘がいいものね。そんなのお見通しだったか」
『ついでに言うとな、僕は最初優香さんに惚れてた』
「ああ、やっぱり」
『お互い様だったわけだ』
「罪作りね、あの二人も」
その言葉の応酬は、感傷ではなかった。冷夏の意識は結界の構築に向いている。これはその集中力を維持するための、適度な軽口だ。
『最初は君のこと、おっかない子だと思ったよ』
「私は最初変態だと思ったわ」
『断言するけど、それは直人と委員長のせいだ』
「それで?」
『ああ、うん。少ししたら、なんか放っておけない子に思えてきたよ。強がってるだけで本当は弱いんだなぁ、とか』
「勝手ね。高校生ならもう少しましなこと考えられない?」
『はは、ごめんごめん。冷夏には適わないな』
そんなことはない。その勝手さで、冷夏は随分救われた。優香が消えた日からずっと、幸町孝也には助けられてばかりだ。
だけど、それを口にはしたくない。何か癪だ。
結界がだいぶ強固なものになりつつある。展開し始めてからどれぐらいだろう。さっき彼とは何を話したか。
気を抜くと意識が飛んでしまいそうだ。
『冷夏、聞いてるかい?』
「…………ええ。ああ、そうそう孝也」
『ん?』
「郁奈のこと、お願いね」
それは、軽口ではなかった。
「血は繋がってないけど……あの子は私の子だから。私たちの子だから」
初恋の人と、最愛の友人の子だ。
理解してやれなかったところも、きっとたくさんある。もっといろいろ、親代わりとしてできたこともあったろう。そのことだけが、心残りだった。
『……まだ僕三十路前だけど、なんか自分が無駄に長生きしてる気がしてきたよ』
「無駄じゃないわ。生きていて無駄なことなんか、ない」
結界に反応して、土門荒野が放つ魔力が苛烈さを増した。だがもう遅い。冷夏の結界は既に完成間近だ。
九年間溜め続けた執念。飛鳥井冷夏のすべてを込めた結界は、そう簡単に突破できるものではない。
視界が揺れる。
平衡感覚を失ったのか、冷夏は立っていることもできず、その場に膝をついた。
『――冷夏?』
幸町の声には応えず、冷夏は自分の足元を見た。
つま先が消えている。足元から、身体が霧のように霧散しつつあった。
「……孝也。あとの指揮は喜八郎に一任してください。彼が役者不足を訴えたら、そのときは真泉未了様にお願いするよう」
こちらの状態を察したのだろう。幸町は息を呑んで、
『……分かった』
とだけ答えた。
「久坂零次と榊原遥については、榊原幻氏に任せるように。彼らはあくまで、事件に巻き込まれた被害者です。古賀里の二人については、積極的に絡んできましたからね……。私の後任、喜八郎か未了様に任せましょう」
膝が消え、腰元も消えた。
霧となった身体は、結界を覆い尽くすように広がっていく。これが最後の仕上げだ。
すべてを賭けた結界の構築。
並々ならぬ覚悟で挑んだ時間稼ぎ。
失敗するはずもない。
確実で、リスクもなく、被害は最小限――たった一人――に抑えられる。
土門荒野を完全に封じることはできないだろうが、時間さえ稼げば、あとは後任の人々がどうにでもしてくれるだろう。
いかに強かろうと、所詮土門荒野は個だ。個は組織に勝てない。
やるべきことは、みんなやった。
溜め続けてきたものを吐き出して、冷夏は久々に――穏やかな気持ちになっていた。
「孝也」
『……うん』
「今まで、ありがとう」
『ああ』
「一番好きでした。直人より、優香より。……大好きです」
『……ああ』
町中を覆っていた地震が徐々に収まりつつある。
その最中、通話中のままだった携帯が落ちた。
揺れが収まった。
携帯が、切れた。
揺れが収まると、逆に落ち着かなくなってきた。
かと言って、どこに行けばいいのか分からない。
ふらふらと、正体もなく歩き回った。
ここは見慣れた場所だろうか。それとも、あまりよく知らない場所だろうか。
住宅地を抜け、公演を抜け、商店街を抜けて、次はどこを抜ければいいのか。
くさっていても、どうしようもない。そんなことは分かっている。だが――。
どこをどう歩いたのだろう。結局零次は、朝月学園に戻ってきていた。
だが、もう誰も残ってはいなかった。
上泉陰綱も、フィストも、遥もいない。
まるで自分一人が置いてけぼりをくったような気分だった。
……あの頃と一緒だ。
母に死なれ、妹に死なれ、周囲からは悪意の眼差しを向けられた。それに耐えきれずふらふらとさまよっていた、子どもの頃と同じだった。
何も成長していない。
何も変わっちゃいない。
涼子のおかげで救われて。
倉凪のおかげで、この町という居場所ができた。
周囲の悪意から逃げることしか考えてなかった自分が、はじめて守りたいと思えるものができた。
なのに――何も守れない。
荒れ果てた無人の校庭を前に、零次は崩れ落ちた。
理不尽だ。そして、自分にはその理不尽を覆すだけの力もない。
何もできない。役立たずのクズだ。
梢も涼子も、あと少し頑張っていれば助けられたかもしれないのに。
どれぐらいの時間、そうしていただろう。
遠くの方から、消防車の音が聞こえてきた。
ふと目をそちらに向けると、真っ暗だった夜空の一部が赤くなっていた。
……火事だ。
地震は収まったが、ここ数日の度重なる揺れは町を確実に傷つけていた。
建物は劣化し、人々は疲弊し、大小様々な事故が相次いで起きている。
もう動きたくない。そう思っていたはずなのに、零次の足はそちらに向いていた。
野次馬根性か、それとも誰かの姿を見たかったのか。
おぼつかない足取りで現地についた零次が見たのは、ぱちぱちと音を立てて、意外な程静かに燃え上がる家屋だった。
家の前では、家族と思われる人々が呆然と炎を見上げており、その手前には消防隊員らしき人々が陣取っている。
「まだ一人、中にいるそうよ……」
集まっていた野次馬の中からそんな声が上がった。
「さっきまで揉めてたもの。でも、あれだけ火が広がっちゃ……」
目の前の家は炎で埋め尽くされていた。地震があった頃に火がついたなら、だいぶ長い時間経っている。消防士たちが一生懸命消火活動を行っているが、全焼するのも時間の問題――という有様だった。
家族は泣き伏している。
消防士たちの怒号が響く。
野次馬たちは不安そうに互いを見やる。
……くそ!
それに零次は耐えられなかった。
「おい、君!」
消防士の静止を降りきって、零次は火の中に突っ込んだ。外では「誰か飛び込んだぞ」と新たなざわめきが生まれる。
……どこだ。
熱い。
焼けそうだ。
いくら異法人と言えど、基本的な部分は人間と同じだ。火にあたれば火傷もする。火傷が酷くなると助からない。
「どこだ!? 返事をしてくれ!」
辺りのものを蹴散らしながら、零次は火の海を突き進んだ。
「誰かっ……!」
呼べど叫べど声は届かない。
もう駄目か。
零次が歯噛みして足を止めた、そのときだった。
「……ぉぁぁ」
小さい、か細い声が聞こえてきた。
「そこか!?」
藁にもすがるような思いで、零次は声が聞こえてきた方に進んだ。
小さな居間。赤ん坊を寝かしつけるベッドの上。
そこに、何かを訴えるように口を動かす幼子がいた。
零次は一目散に駆け寄って、その子どもを抱き上げた。
「……生きてる?」
不安になって胸に耳を押し当てる。そこからは、確かに心臓の鼓動が聞こえてきた。
小さくて弱い鼓動だ。それでも生きている。
「……死なせるものか」
落とさないよう抱きしめて、零次は外に向かって駆け出した。
行く手を阻む炎も気にならない。ただがむしゃらに、腕の中にある命を守ろうと、無心で走った。
ほんの数秒のことだったろう。
外に出た零次は、まだ呆然としている家族の元に向かった。
母親らしき人に、そっと赤ん坊を渡す。
何か言おうとして――何も言えなかった。
ぐしゃぐしゃの泣き顔で、何度もお礼を言われた。嬉しい半面苦しくて、零次は人々の目から逃れるようにその場を離れる。
誰かが、追いかけてきた。
「おい、久坂!」
その声に振り返る。そこにいたのは藤田だった。
「藤田……か」
「どうしたよ、いきなり駆け出して。大丈夫か」
零次の様子がおかしいことに気づいて追ってきたのだろう。藤田は心配そうな顔をしていた。
「藤田は、どうしてここに?」
「ああ、情報収集も兼ねて皆と一緒にボランティアだ」
「ボランティア?」
「町がこんなだろ? どこもかしこもざわついて、落ち着かないったらありゃしない。だから町を見回ってるんだよ」
さすがにあの火はもう駄目だと思ったけどな――と藤田は苦笑する。
「で、お前はどうした? 連絡はないけど、何か進展あったのか」
「……」
何と言えばいいのか分からず、零次は口をつぐむ。それで察したのだろう。藤田も難しい顔をして、
「――厳しいのか? さっきの地震とか……やけにでかかったけど」
「そう、だな……。土門荒野は、復活する」
涼子が死んだことは言えなかった。零次自身、まだどこか信じきれない。
「そっか……」
藤田は険しい表情で黙り込む。
零次が何か言おうと口を開きかけたとき、藤田は顔を上げた。
「久坂、もっと集めよう」
「集める? 何をだ……?」
「人だよ、人。このままじゃ大勢死んじまう。もっと多くの人を集めて、皆で力合わせて逃げるなりなんなりしねぇと」
「だ、だが……こんな話をしても、信じてもらえるかどうか」
「町の全員に全部話せとは言わねえ。けど、俺や高坂、水島以外にもいるだろ。お前が信じられる奴。そういう人たちには事情を説明して、そこからもっといろんな人に協力してもらえるようにすんだよ」
「……」
確かにそうだ。
藤田たち三人や、そこからの繋がりだけでは――正直厳しい。
それは分かっている。だが。
「うじうじ悩んでる暇はねぇぜ」
零次の腹に拳を当てて、藤田は言う。
「お前がどんだけしんどいか、正直俺には分からない。今すぐ話聞いて励ましてやりてぇけどよ……それより先に、やらなきゃいけないことがあるんじゃねえか」
「……そう、だな」
どんなに辛くとも、やるべきことは残っている。
まだ終わったわけではない。地震は一時的に鎮まったが、街全体を覆う不吉な気配は消えていなかった。
「どんだけ辛くても、俺たちにはできることがある。お前、さっき一人助けただろ」
「……ああ」
「百人助けられなくても、一人助けられる。だったら動こうぜ、零次」
「――ああ」
心は晴れない。
胸の奥には、まだ痛みが残る。
それでも、立ち上がって進むことは――どうにかできそうだった。




