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異法人の夜-Foreigners night-/第二部  作者: 夕月日暮
十二月十日(土曜日)
30/34

第二十五話「それでも」

 激しい揺れが、意識を現実から離していく。ゆりかごの中にいる赤子のような気分。

 何も考えられない。

 考えることが辛い。

 辛いことばかりだ。

 理不尽だ。

 ちくしょう。

 ちくしょう――。

 何が間違っていたのか。

 どうすればハッピーエンドが迎えられたのか。

 こんなバッドエンド、あんまりだ。

 倉凪。

 涼子。

 ――――。

 ――。

「久坂零次」

 冷たい声が聞こえた。

 顔を上げる気にもなれないから、動かなかった。

 頭上で、冷夏が深い溜息をつく。

 こちらの弱さを理解しているのだろう。彼女も、同じような経験をしたのだから。

 だからか、彼女はこちらを責めるようなことは言わなかった。

「きついなら、遥を連れて早めに逃げなさい」

「……」

「ここにいたら死にます。言いたくはありませんが……冬塚涼子の判断は裏目に出た。土門荒野は復活する」

 涼子の決断は零次を救ったのかもしれない。その代わり、守るべきはずだったものは危険に晒されている。

「今は辛いかもしれない。ですが考えてください。彼女が何を望んだのか。あなたや遥がこれで命を落としたら、彼女の決断は本当に無駄なものになってしまう」

「無駄……」

 それは嫌だ。

 だが、このまま逃げるのも――何か嫌だった。

 面を上げる。

「俺は」

「生半可な覚悟で来られても邪魔です」

 口に出そうとした言葉は、言う間もなく封じられた。

「逃げなさい、助けたい人たちを連れて。しばらくしてから戻ってくれば……すべて、終わっているはずです」

 最後の最後で、冷夏は優しげな――それでいて儚げな表情を浮かべた。

 まただ。

 その顔は、もう嫌だ。

 頼むから、そんな顔をしないでくれ。

 皆、その顔をした人は、皆――。

 だが、零次の思いはまとまらず、言葉にならない。

 冷夏は既に駆け去ってしまった。

 零次は動けない。全身から力が抜けて、一歩も進めない。

 このまま眠ってしまえたらどんなに楽だろう。そんなことを、思った。


 この絶望的な状況で飛鳥井冷夏が思うのは、霧島直人や八島優香のことでもなく、飛鳥井本家のことでもなく、倉凪梢や冬塚涼子のことでもなかった。

 ……賭けはしない。

 危険な賭けは嫌いだ。少しずつ確実に。それが彼女のやり方である。

 飛鳥井の人間には、今後どうすべきかを通達した。

 尻込みしている各組織に対しては、発破をかけつつ餌を投げつけてやった。そうでなくとも、これほどの事態になった以上、どこの組織も本腰を入れてくるに違いない。

 だが、時間がない。

 街の被害を度外視するなら、各組織の人員が集まるのを待つのが無難だ。街の人たちも避難させればいい。多少の犠牲は出るかもしれないが、被害は抑えられる。

 だが、それよりも少ない被害で済む方法がある。

 確実に可能な時間稼ぎ。

 上手くいく。

 ……上手くやるんだ。

 震源地が近い。

 程なく、樵と涼子によって作られたであろう巨大な空洞が見えてきた。

 この奥に、すべての元凶がいる。

 冷夏は無意識に鉄扇を手にしていた。樵の手負い具合からすると、もしかしたら自分でも倒せるのではないか――。

 その期待は、即座に消えた。

 声なき咆哮が空洞の奥底から響きわたり、大地が鳴動する。身体的負傷など、もう関係がない。土門荒野は一つになったのだ。もともと生き物ではなく概念として扱うべきその災厄は、むしろかつてないほどに絶好調なのである。

 冷夏は鉄扇を投げ捨てた。

 そして、高速で周囲一帯に結界の術式を展開し始めた。

 奈良塚の技術者が作った封魔の効果を持つ着物。それによって長年抑えられていた冷夏の魔力は、膨大な出力量である。制御するのは至難の業だった。

 それを、舞い散る砂塵の粒子すら見分けるほどの集中力で、冷夏は操る。

 この鳴動を抑えるために、結界は地中にも伸ばさなければならない。範囲も広すぎず狭すぎないよう調整しなければ、土門荒野を封じるほどの強度は保てない。

 針の穴を通すような精密さで、弾丸並の球を投げるようなものだ。少しでも集中力が切れれば破綻する。

 ……まあ、失敗してもリスクは少ないですけどね。

 だからこれは賭けではない。ただの悪あがき、あるいは無謀な挑戦である。

 けれど、やる価値はある。

 滅ぼすのは無理だが、肉体の損傷は土門荒野の行動を束縛しているらしい。禍々しい魔力は秋風市全体を覆い尽くすほどに巨大だったが、土門荒野そのものに動きはない。

 冷夏としては、結界の構築に専心することができる。

 身体の中から何かが抜けていく。その度に強烈な寒気が襲ってきた。

 不思議と、苦しくはない。ただ、結界の展開がある程度安定してくると、少しずつ落ち着かなくなってきた。手持ち無沙汰だ。

 内ポケットから携帯を取り出す。

 馴染みの番号にかけると、相手はすぐに出た。

『もしもし、冷夏か』

「孝也」

 声を聞いて、散漫になりかけていた意識がはっきりしてきた。

『君は何をしている』

「結界の構築を。成功すれば、皆が集まるまでの時間稼ぎにはなるわ」

『……被害も最小限で抑えられる、ってわけか』

 こっちが向こうの考えていることを理解しているように、彼もこちらの考えは察しているのだろう。

「孝也に電話して良かった。やっぱり、あなたの声を聞くとほっとする。結界の構築もこれで成功したようなものね」

『お役に立てて光栄だよ――と言えばいいのかい』

「不服そうね」

『まったくだ。馬鹿ばかりで困るよ。まったく、本当に……』

 そんな馬鹿ばかりを好きになる彼が悪い。口には出さずに、そう思うことにした。

 土門荒野を中心に球状となって展開する式は、最初こそ糸の集まりでしかなかったが、徐々に補強されてきた。ほんの少し、揺れが弱まる。

「実はね、孝也。私、最初は直人のことが好きだったのよ」

『ああ、なんとなくそんな気はしてたよ』

「ふふ、孝也は勘がいいものね。そんなのお見通しだったか」

『ついでに言うとな、僕は最初優香さんに惚れてた』

「ああ、やっぱり」

『お互い様だったわけだ』

「罪作りね、あの二人も」

 その言葉の応酬は、感傷ではなかった。冷夏の意識は結界の構築に向いている。これはその集中力を維持するための、適度な軽口だ。

『最初は君のこと、おっかない子だと思ったよ』

「私は最初変態だと思ったわ」

『断言するけど、それは直人と委員長のせいだ』

「それで?」

『ああ、うん。少ししたら、なんか放っておけない子に思えてきたよ。強がってるだけで本当は弱いんだなぁ、とか』

「勝手ね。高校生ならもう少しましなこと考えられない?」

『はは、ごめんごめん。冷夏には適わないな』

 そんなことはない。その勝手さで、冷夏は随分救われた。優香が消えた日からずっと、幸町孝也には助けられてばかりだ。

 だけど、それを口にはしたくない。何か癪だ。

 結界がだいぶ強固なものになりつつある。展開し始めてからどれぐらいだろう。さっき彼とは何を話したか。

 気を抜くと意識が飛んでしまいそうだ。

『冷夏、聞いてるかい?』

「…………ええ。ああ、そうそう孝也」

『ん?』

「郁奈のこと、お願いね」

 それは、軽口ではなかった。

「血は繋がってないけど……あの子は私の子だから。私たちの子だから」

 初恋の人と、最愛の友人の子だ。

 理解してやれなかったところも、きっとたくさんある。もっといろいろ、親代わりとしてできたこともあったろう。そのことだけが、心残りだった。

『……まだ僕三十路前だけど、なんか自分が無駄に長生きしてる気がしてきたよ』

「無駄じゃないわ。生きていて無駄なことなんか、ない」

 結界に反応して、土門荒野が放つ魔力が苛烈さを増した。だがもう遅い。冷夏の結界は既に完成間近だ。

 九年間溜め続けた執念。飛鳥井冷夏のすべてを込めた結界は、そう簡単に突破できるものではない。

 視界が揺れる。

 平衡感覚を失ったのか、冷夏は立っていることもできず、その場に膝をついた。

『――冷夏?』

 幸町の声には応えず、冷夏は自分の足元を見た。

 つま先が消えている。足元から、身体が霧のように霧散しつつあった。

「……孝也。あとの指揮は喜八郎に一任してください。彼が役者不足を訴えたら、そのときは真泉未了様にお願いするよう」

 こちらの状態を察したのだろう。幸町は息を呑んで、

『……分かった』

 とだけ答えた。

「久坂零次と榊原遥については、榊原幻氏に任せるように。彼らはあくまで、事件に巻き込まれた被害者です。古賀里の二人については、積極的に絡んできましたからね……。私の後任、喜八郎か未了様に任せましょう」

 膝が消え、腰元も消えた。

 霧となった身体は、結界を覆い尽くすように広がっていく。これが最後の仕上げだ。

 すべてを賭けた結界の構築。

 並々ならぬ覚悟で挑んだ時間稼ぎ。

 失敗するはずもない。

 確実で、リスクもなく、被害は最小限――たった一人――に抑えられる。

 土門荒野を完全に封じることはできないだろうが、時間さえ稼げば、あとは後任の人々がどうにでもしてくれるだろう。

 いかに強かろうと、所詮土門荒野は個だ。個は組織に勝てない。

 やるべきことは、みんなやった。

 溜め続けてきたものを吐き出して、冷夏は久々に――穏やかな気持ちになっていた。

「孝也」

『……うん』

「今まで、ありがとう」

『ああ』

「一番好きでした。直人より、優香より。……大好きです」

『……ああ』

 町中を覆っていた地震が徐々に収まりつつある。

 その最中、通話中のままだった携帯が落ちた。

 揺れが収まった。

 携帯が、切れた。


 揺れが収まると、逆に落ち着かなくなってきた。

 かと言って、どこに行けばいいのか分からない。

 ふらふらと、正体もなく歩き回った。

 ここは見慣れた場所だろうか。それとも、あまりよく知らない場所だろうか。

 住宅地を抜け、公演を抜け、商店街を抜けて、次はどこを抜ければいいのか。

 くさっていても、どうしようもない。そんなことは分かっている。だが――。

 どこをどう歩いたのだろう。結局零次は、朝月学園に戻ってきていた。

 だが、もう誰も残ってはいなかった。

 上泉陰綱も、フィストも、遥もいない。

 まるで自分一人が置いてけぼりをくったような気分だった。

 ……あの頃と一緒だ。

 母に死なれ、妹に死なれ、周囲からは悪意の眼差しを向けられた。それに耐えきれずふらふらとさまよっていた、子どもの頃と同じだった。

 何も成長していない。

 何も変わっちゃいない。

 涼子のおかげで救われて。

 倉凪のおかげで、この町という居場所ができた。

 周囲の悪意から逃げることしか考えてなかった自分が、はじめて守りたいと思えるものができた。

 なのに――何も守れない。

 荒れ果てた無人の校庭を前に、零次は崩れ落ちた。

 理不尽だ。そして、自分にはその理不尽を覆すだけの力もない。

 何もできない。役立たずのクズだ。

 梢も涼子も、あと少し頑張っていれば助けられたかもしれないのに。

 どれぐらいの時間、そうしていただろう。

 遠くの方から、消防車の音が聞こえてきた。

 ふと目をそちらに向けると、真っ暗だった夜空の一部が赤くなっていた。

 ……火事だ。

 地震は収まったが、ここ数日の度重なる揺れは町を確実に傷つけていた。

 建物は劣化し、人々は疲弊し、大小様々な事故が相次いで起きている。

 もう動きたくない。そう思っていたはずなのに、零次の足はそちらに向いていた。

 野次馬根性か、それとも誰かの姿を見たかったのか。

 おぼつかない足取りで現地についた零次が見たのは、ぱちぱちと音を立てて、意外な程静かに燃え上がる家屋だった。

 家の前では、家族と思われる人々が呆然と炎を見上げており、その手前には消防隊員らしき人々が陣取っている。

「まだ一人、中にいるそうよ……」

 集まっていた野次馬の中からそんな声が上がった。

「さっきまで揉めてたもの。でも、あれだけ火が広がっちゃ……」

 目の前の家は炎で埋め尽くされていた。地震があった頃に火がついたなら、だいぶ長い時間経っている。消防士たちが一生懸命消火活動を行っているが、全焼するのも時間の問題――という有様だった。

 家族は泣き伏している。

 消防士たちの怒号が響く。

 野次馬たちは不安そうに互いを見やる。

 ……くそ!

 それに零次は耐えられなかった。

「おい、君!」

 消防士の静止を降りきって、零次は火の中に突っ込んだ。外では「誰か飛び込んだぞ」と新たなざわめきが生まれる。

 ……どこだ。

 熱い。

 焼けそうだ。

 いくら異法人と言えど、基本的な部分は人間と同じだ。火にあたれば火傷もする。火傷が酷くなると助からない。

「どこだ!? 返事をしてくれ!」

 辺りのものを蹴散らしながら、零次は火の海を突き進んだ。

「誰かっ……!」

 呼べど叫べど声は届かない。

 もう駄目か。

 零次が歯噛みして足を止めた、そのときだった。

「……ぉぁぁ」

 小さい、か細い声が聞こえてきた。

「そこか!?」

 藁にもすがるような思いで、零次は声が聞こえてきた方に進んだ。

 小さな居間。赤ん坊を寝かしつけるベッドの上。

 そこに、何かを訴えるように口を動かす幼子がいた。

 零次は一目散に駆け寄って、その子どもを抱き上げた。

「……生きてる?」

 不安になって胸に耳を押し当てる。そこからは、確かに心臓の鼓動が聞こえてきた。

 小さくて弱い鼓動だ。それでも生きている。

「……死なせるものか」

 落とさないよう抱きしめて、零次は外に向かって駆け出した。

 行く手を阻む炎も気にならない。ただがむしゃらに、腕の中にある命を守ろうと、無心で走った。

 ほんの数秒のことだったろう。

 外に出た零次は、まだ呆然としている家族の元に向かった。

 母親らしき人に、そっと赤ん坊を渡す。

 何か言おうとして――何も言えなかった。

 ぐしゃぐしゃの泣き顔で、何度もお礼を言われた。嬉しい半面苦しくて、零次は人々の目から逃れるようにその場を離れる。

 誰かが、追いかけてきた。

「おい、久坂!」

 その声に振り返る。そこにいたのは藤田だった。

「藤田……か」

「どうしたよ、いきなり駆け出して。大丈夫か」

 零次の様子がおかしいことに気づいて追ってきたのだろう。藤田は心配そうな顔をしていた。

「藤田は、どうしてここに?」

「ああ、情報収集も兼ねて皆と一緒にボランティアだ」

「ボランティア?」

「町がこんなだろ? どこもかしこもざわついて、落ち着かないったらありゃしない。だから町を見回ってるんだよ」

 さすがにあの火はもう駄目だと思ったけどな――と藤田は苦笑する。

「で、お前はどうした? 連絡はないけど、何か進展あったのか」

「……」

 何と言えばいいのか分からず、零次は口をつぐむ。それで察したのだろう。藤田も難しい顔をして、

「――厳しいのか? さっきの地震とか……やけにでかかったけど」

「そう、だな……。土門荒野は、復活する」

 涼子が死んだことは言えなかった。零次自身、まだどこか信じきれない。

「そっか……」

 藤田は険しい表情で黙り込む。

 零次が何か言おうと口を開きかけたとき、藤田は顔を上げた。

「久坂、もっと集めよう」

「集める? 何をだ……?」

「人だよ、人。このままじゃ大勢死んじまう。もっと多くの人を集めて、皆で力合わせて逃げるなりなんなりしねぇと」

「だ、だが……こんな話をしても、信じてもらえるかどうか」

「町の全員に全部話せとは言わねえ。けど、俺や高坂、水島以外にもいるだろ。お前が信じられる奴。そういう人たちには事情を説明して、そこからもっといろんな人に協力してもらえるようにすんだよ」

「……」

 確かにそうだ。

 藤田たち三人や、そこからの繋がりだけでは――正直厳しい。

 それは分かっている。だが。

「うじうじ悩んでる暇はねぇぜ」

 零次の腹に拳を当てて、藤田は言う。

「お前がどんだけしんどいか、正直俺には分からない。今すぐ話聞いて励ましてやりてぇけどよ……それより先に、やらなきゃいけないことがあるんじゃねえか」

「……そう、だな」

 どんなに辛くとも、やるべきことは残っている。

 まだ終わったわけではない。地震は一時的に鎮まったが、街全体を覆う不吉な気配は消えていなかった。

「どんだけ辛くても、俺たちにはできることがある。お前、さっき一人助けただろ」

「……ああ」

「百人助けられなくても、一人助けられる。だったら動こうぜ、零次」

「――ああ」

 心は晴れない。

 胸の奥には、まだ痛みが残る。

 それでも、立ち上がって進むことは――どうにかできそうだった。

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