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第2話

「どう、順調?」


 携帯電話を肩で挟み込み、片手にキャベツの入ったボウル、もう片方の手にモルモット用ペレットの箱を持って、イツァークは戸棚の扉を尻で強く押し閉めた。

 前の住民が勝手に取り付けたというこの棚は、それなりに便利ではあるが建て付けが極めて悪い。電話の相手――ジリアンは、この音を聞くたび「小型のマンドラゴラを絞め殺しでもしているようだわ」と言って笑った。この部屋の以前の主人は、きっと、瞬発的な行動力には長けるものの細かいことを気にしない、典型的なネバダ人だったのだろう。


「ええ、順調よ。悪阻つわりもそんなにひどくないから助かるわ」


「それを聞いて安心したよ。性別はもう分かったの? 男の子かな?」


「ずいぶんと気が早いわね、イツァーク・フリードマン? それが分かるのはまだ二ヶ月以上も先のことよ」


「きっと男の子だ、ジル」イツァークは若者に説教する酔っ払いのように、どこか性急な熱っぽさをもって続けた。「僕には分かる。君に似て、すっと抜けるように青い、フロリダの空のような目をした男の子だよ」


 静電気の音に混じり、ジリアンの楽しげな吐息が揺れる。それを耳に心地よく感じながら、イツァークはペット用ケージの前にしゃがみ込んだ。

 戸棚の軋む音から察したものか、あるいは早くも餌の匂いを嗅ぎつけたのか。イングリッシュモルモットのファクトが器用に二本脚で立ち上がり、ケージの柵を掴んで待っている。その小さな手の前でゆっくりとキャベツを揺らしてみせると、ファクトの鼻が期待にひくひくとうごめいた。


 ジリアンが待望の赤ん坊を授かったのは、今からおよそ三ヶ月前のこと。かつては医者から「信頼できるアダプション(養子縁組)エージェンシーを紹介しますよ」とさえ言われた彼女からの嬉しい報せに、もちろん、イツァークは心の底から喜んだ。そして彼女のために神に感謝した。


 もし、事情を知らない人が二人を見れば、彼らはきっと仲のいい幼馴染に違いないと思っただろう。あるいは学生時代にテーブルの上で夜通し踊り倒した仲だと思うかもしれない。

 しかし、彼らの関係性はそれよりも少しばかり複雑だった。ひとつには、彼らは五年前まで夫婦であった。


 ちぎったキャベツをファクトに与えていると、ガタリと窓枠が持ち上げられる音が聞こえてきた。腰を伸ばしたイツァークの顔に、流れ込んできた冷たい外気がぶち当たる。思わず小さく非難の呻きを洩らしていたようで、ジリアンが「どうしたの?」と不思議そうな声を出した。


「なんでもないよ。近所の野良猫が入ってきたんだ」


「ミシェルね」


「そう。たしかそんな名前だった」


 その野良猫(・・・)は、外階段を伝ってイツァークの部屋に入り込むと、暖かい室内に満足したのかひとつ大きく伸びをした。この猫はイツァークの上階の部屋に住んでいるのだ。

 遠慮もなく冷蔵庫を開けると、野良猫ことミシェルは牛乳パックを取り出した。不作法にもパックに直接口をつけて飲み始めるが、イツァークにそれを断りもしない。叱ったところで悪びれもしないだろう。ただ、よく日焼けした喉がいかにも美味そうにうねるさまは、健康的でありながらもどこか官能的で、イツァークの目を強く捕らえて離さなかった。

 こういう奔放な仕草がイツァークにどういう効果をもたらすか、ミシェルはすっかり知り尽くしている。それはもう、残酷なほどに。


「誰? ジリー?」


 馴れ馴れしく愛称で元妻の名を呼ぶミシェルに、イツァークは眉を持ち上げて答えてみせた。ふうん、と軽く鼻を鳴らしたミシェルは、早々と興味を失ったものか、しなやかにソファの背を飛び越えた。まさしく猫だ。筋張った前脚(・・)でリモコンをり、サッカー中継にチャンネルを合わせる。

 靴のままソファに座り込んだミシェルに、イツァークは電話口を手で覆った。「先にカーテンを閉めなさい」――人一倍気位の高い猫は、この口振りがお気に召さなかったらしい。


「なに、その言い方。生徒にやるように言わないでよね」


 イツァークは再び手で電話口を抑えると、ちゃんと体全体でミシェルに向き直った。この困った野良猫は、一度機嫌を損ねるとあとが大変なのだ。


「すまない。カーテンを閉めてくれ、ミシェル」


 今度は納得がいったようで、ミシェルはダークグレーの遮光カーテンをさっと引き下ろした。その流れのまま振り返り、往年のマイヤ・プリセツカヤのようにがくを感じさせる優雅な動作で悠々とお辞儀をしてみせる。


 ミシェルはイツァークの恋人だ。それも、元妻ジリアン公認の。さらに言えば、ジリアンはミシェルのことをなかなか気に入っているらしかった。三人で食卓を囲んだことだって何度もあるが、そういう時、ミシェルを誘おうと言い出すのはいつも決まってジリアンだった。

 そして、かつて夫婦だった彼らの関係性を複雑にしているふたつ目にして最大の理由に――二人の夫婦生活が始まる以前から、そして結婚中もずっと、イツァークとミシェルは長く恋人関係にあった。イツァークとジリアンは、奇妙なことに、家の外にパートナーを作る自由を持った夫婦だったのだ。


「相変わらず、ミシェルに振り回されているようね」


「そうなんだ。まったく、まいるよ」


「でも、それがあの子の魅力なんだわ」


 そう言いながらも、彼女の気分の針が急激に『憂鬱』に傾いていくのを、イツァークは敏感に感じ取った。そしてやはり、イツァークの予感は当たっていた。


「それに比べて私、私は……」


 突然、ジリアンの声が陰を帯びた。その響きを、イツァークはよく知っている。彼女がこんな声を出すのは、決まってあの話(・・・)を持ち出す時だ。

 イツァークは話題を変えようとしたが、それよりも早く、ジリアンの陰鬱なため息が電話口を押さえ込んだ。


「私は、あなたをもっと手酷く振り回してしまったわ。それも、ずっと残酷なやり方で」


「ああ……ジル。ジリアン。お願いだから、そんなことを言わないでくれ。そのことはもう言わないと約束しただろう?」


 イツァークは、粘つく舌を鼓舞して言葉を続けた。


「ジリアン。きみは少しナーバスになっているんだ。スタンはまだ帰っていないのかい? そう……ねえ、ジリー。きみは今、お腹の赤ん坊のことだけを想ってくれていたらいいんだ。ホットミルクを飲んで、ソファにゆっくり横になってごらん」


「また生徒扱いしてる」ミシェルが横槍を入れる。幸い、電話口の向こうにまでその声は届かなかったようだ。


「きみは仰向けで寝るのが好きだったけど、ねえ、ジリアン。しばらくもしたら、その体勢でテレビを観るのが難しくなってくるだろう。だんだんお腹が張り出してくるんだからね。ソファの向きを変えなくちゃならないね、ジリー? スタンに相談するといい、きっと彼は快く……」


「ねえ、イツァーク」


 不意にジリアンが割って入った。「私、本当に産めるのね」


 ジリアンの声は震えていた。イツァークもまた、喉の奥が震えそうになるのを必死でこらえた。


「産めるとも。元気いっぱいの男の子をね」


 ようやく、ジリアンが控えめな笑い声をあげた。それに安堵し、しばらくしてからイツァークは電話を切った。イツァークは最後まで快活さを失わなかったが、通話を終え、ディスプレイの電気が落ちた携帯電話は、手の中でいやに重かった。


 ジリアンの懐妊を祝う気持ちに嘘はない。

 しかし同時に、いやな苦さが舌の裏を走ることも否めなかった。


 その原因は実にシンプルだ。

 農家の一人娘の多くがそうであるように、ジリアンもまた、頑健で聞き分けのいい後継ぎを産むようにと強く両親から期待されていた。しかし、六年間の夫婦生活を経ても、結局、イツァークとジリアンの間にはついに子供ができなかった。

 そのことでイツァークは、義両親から手酷い侮蔑を受けるはめになったのだ。その矛先がジリアンに向かないよう、イツァークは二人分の、あるいはそれ以上の矢を全身に浴びねばならなかった。


 今もそのことを気に病むジリアンには口が裂けても言えないが、イツァークが受けた精神的苦痛の大きさは計り知れない。一気に15ポンド(約7kg)も体重を落としたせいで、当時持っていたトラウザーズの大半が用を為さなくなったほどなのだ。

 二人の離婚は、ジリアンが妊娠適齢期を過ぎる前に「適切な相手」――義両親は本当にそう言ったのだ――を見つけ直すためという名目があったが、イツァークの心身を守りたいというジリアンの思いもあった。


 何かの支えがほしくて、イツァークはソファの背越しにミシェルに抱きついた。普段ならば邪険に振り払いかねないミシェルも、この時ばかりは静かにその抱擁を受け入れた。


「今、イツァークが何て思っているか当ててあげようか。『プラネタリウムに行こう、ダーリン』って、そう言いたいんだ」


「……よく分かったね、ダーリン」


 ミシェルは湿り気のない笑い声をあげた。「当然だよ。なんだってお見通しさ、スイートハート」


 幼い子供がやるように、イツァークは黙り込んだまま頷いた。ミシェルの短い黒髪が、こめかみのあたりをくすぐった。


 イツァークはプラネタリウムが好きだった。ユーレカの広大な星空は、イツァークがこの土地を愛する一番の理由であったが、プラネタリウムはまた別の理由で好きだった。

 イツァークは、あの静かな暗闇を求めていたのだ。あそこなら、あの場所でなら、誰に憚ることもなくミシェルと手を繋ぐことができた。


 この町において、男同士の恋人が手を繋いで許される場所など、他にないのだ。

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