9 閑話 ~とある女学生の受難~
両親は共働きで、幼い頃から鍵っ子だった。
鍵を取り出し開ける作業も、慣れっこ過ぎて、意識した方が動きが止まるほどだ。
そんなことだから、一人で留守番が出来るようになってからはなおのこと、家で一人の時間が当たり前になり『行ってきます』も『ただいま』も、『いただきます』も『ごちそうさま』も、いつの間にやら自分の中から消えていた。
だからだろうか。
きっと、余計に。
偶然、良い点が取れたテストを、両親から手放しで褒められた時にとんでもない充足感を感じてしまったのだ。
それはあたかも、麻薬のように。
次のテストも。次のテストも。
少しでも良い点では無く、誰よりも良い点を。
誰よりも良い、一番の点を。
どんどん、どんどんと、貪欲に数字を追いかけるようになった。
それに伴い、周囲から得られる賞賛の声が手放せなくなり、努力を義務と履き違えて行った。
どん詰まりのストレスを自覚させてくれた特殊な友人のことまで思い至り、灯処は知らず苦笑する。
もうすぐテストが近いからだろうか、鍵開けの動作から栓の無い思考にまで飛んで行ってしまったが、問題はそこじゃ無いのだ。
たった今思い出していた特殊な友人、千世子のことは良いのだ。彼女のことに関しては、灯処も納得し、自ら進んで(強行して?)関係を持ったのだから。問題は、その後だ。
玄関で靴を脱ぎ、苦笑から『笑』を取り去った苦々しい表情で、灯処は階段を上がる。
いる。
今日もいる。
玄関を開けた時に感じた風圧。
決して扉を引き開いたが故に生じたものだけでは無い、頬を撫で上げるような滑らかな風は最近、富に感じるようになってきたからこそわかった、酷く特殊なもの。
あいつは、また私の部屋にいるのかっ!
「戻ったわっ!」
声を張り上げながら、自室の扉を押し開けるのは、実質今現在、両親が仕事に出ているからこそ出来る暴挙だ。
「あ! ご主人様―! お帰りなさい! お水、飲みます?」
「ありがとう、アオくん。今はいいから、後でいただくわね」
早速出迎えてくれた、青い着物を着たコツメカワウソを、さらりと流して視線はその背後。よりによって、花も恥じらううら若き乙女である灯処のベッドにだらりと寝そべり、ボリボリとせんべいを咀嚼している目も眩むような美男子、その手元に向けられた。
ピンク色、というふざけたインクのボールペンで、つまらなそうに書き込まれている灯処のそれに。
「おや。お帰り、灯処」
「おかえりじゃないわよーっ!! 私の問題集、ことごとく解くのやめなさいよねっ!!!」
手に持っていた肩掛け鞄を、ベッドの上の風の神に向かって投げつける。
例え、灯処がここで手加減しようが、全力を出そうが、奴にはかすり傷一つつかないことを知っている。なので、全力で投げたが、問題は無い。
むしろ当たろうが、当たるまいが関係無いのに、灯処の全力を、肩紐分の遠心力までつけ加えたものが、こちらを見もしない相手に、手も使わず優しくいなされる光景を見せられる方の身にもなれ。腹立つ。神か。
「ご、ご主人様、風神様に向かって、、そのような……っ」
「おお。戻ったのか、灯処よ。お帰り」
「“お帰り”じゃないわよっ!! 二度目よ、このやり取り! 無意識かっ!!」
やっと気が付いた様にこちらを見やった風神の手元から奪い取った問題集を、灯処は、破かんばかりの勢いで開く。
何てことを……。
「買ったばかりなのに、もう最後の数ページしか無い……。っ風青!! 何度言ったらわかるの!? 私の問題集はクロスワードパズルでも、難プレでも無いのっ!!
私の勉強用なんだから、私が解かないと意味無いじゃないっ。問題集だって安くないのに……」
「あー……」
時間も、暇も、ついでにお金も持て余していると言っても過言ではない風神は、やっと高校生の懐事情に思い至り、さすがにベッドから上半身を起こした。
「その……、のう。灯処、すまなんだ。これをやるから怒りを鎮めてはくれぬか?」
と言って、差し出されたのは、万札の札束。
美麗な着物の袂から無防備に出していいものでも無ければ、高校生に気軽に渡していいものでも無い。
ついでに言うと、即物的過ぎてデリカシーもへったくれも無い。
懐から札束の時点で、目が点になっていたと言うのに、さらにそれを自分に渡そうとする常識の無さは、もはや恐怖である。
家に帰り着き、自分のベッドの上、美男子に問題集を解かれるのも、かなり迷惑だが、これは無い。
いくら勉強が出来ようが、容貌が整っていようが、我慢ならないことは、我慢ならないのだと、改めて知ることが出来た。
これも一つの人生経験。
「高校生に、札束渡そうとするな!! それで常識買って来いっっ!!」
人間、本当に頭に来ると、人一人、二階の窓から放り出すこともあるのだと知った。
……ついでに、血管も切れたかと思った。
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「くっ、は、はは、はっはっはっはっはっは!!!」
風青は、放り投げられた窓の外、良く晴れた空の下、屋根の上で笑った。
本当に。
本当に、灯処は面白い。
風は、どこにでも行け、どこにでも有る。
龍神の年長者達が孫のように可愛がっている千世子に、初めて人間の友達が出来た。
好奇心から、千世子の友人の人となりを調べ、千世子と友人となる下りの口上を知り、心底面白いと思った。
本当の意味で理解していなかったとしても、千世子が普通の人間ではないと知りながら、覚悟を決め、友人になろうと言い募る。
千世子の存在を知る経緯で、人の身では心底恐ろしい目にあったと言うのに。
未知なる現象に対する恐怖はあれど、元凶であるはずの千世子にはまったく物おじせず、あまつさえ副産物的に現れたに等しい人外でさえ、受け入れて見せる始末。
名前は本質を示すがごとく、まるで灯のような存在を風青は気に入ってしまった。
彼女の目の前で、人外の力を振るっていると言うのに、この扱いの軽さはなかなかに楽しく、もう暫くは灯処で遊ぶ気満々の風神としては、このまま彼女の機嫌を損ねっぱなしというのも芸が無い。
「ふむ……。さて」
あの存外可愛らしい人の子の機嫌を取るにはどうしたら良いものか。
久しく感じていなかった、ワクワクとした高揚感に、口元を釣り上げながら、風青は今後の計画を立て始めた。
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「……っ、ハックション……。風邪かしら」
世にも珍しい、風神の寵愛を受けている自覚の無い人の子は、知らず大きなくしゃみを一つする。




