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嵐は千世子の知らない所で、ひっそりと生まれていたらしい。
片鱗は本当に些細だった。
一番初めに千世子の目の前へと小出しにされたのは、何回目かの灯処との昼食の席でのことだった。
パックの紅茶のストローを口に含みながら、彼女は思い出したように言った。
「そういえば、最近槌永先生のこと良く見るのよね。普通校舎に何か用でもあるのかしら」
「……へぇ」
その時は、そのまま流してしまった。いくら特別校舎の担当と言っても、社会科の教師ではあるのだから、普通科校舎にいても違和感は無い。
それに確か、宝円の兄は三年生だ。三年といえば受験生でもあるし、その関係もあるのだろう、と。
けれども、生まれていた嵐は、次第に大きくなりながら、ゆっくりと接近していたのだと千世子は知った。
灯処曰く、『普通校舎にて、最近良く見る槌永先生』それを千世子も実感し始めたのだ。
教室から見下ろした時に。
職員室から出てきた姿。
さらには、千世子の教室の前を通り過ぎる始末。
確かにこの学園に入学して以来、こんなにも槌永先生を見掛けるのは初めてだ。
特別校舎のお仲間はいいのだろうか。そんなことを思わなくも無いが、鳴から入る報告にも、自分で観察する分にも、これと言った問題も無く。
ならば別に良いかと放置していたのが悪かったのだろうか。
その嵐がとうとう直撃たのは、物凄く突然だった。
ポロリ、と口に銜えていたシャープペンが落ちた。
視線の先は教壇。これから始まる予定だった日本史の時間。
けれども、授業開始のチャイムと共に教室へと入って来たのは、見慣れた教科担任の姿ではなかった。
休み時間の余韻を残す、ざわついた室内だったと言うのに、扉が開いた瞬間、一瞬にしてざわめきは消えた。
無理も無い。本当だったら、この教室では見るはずもない予想外の人物が入って来たのだから。
グレイ地に黒の千鳥格子柄の細身のスラックス、黒のブイネックのインナー。チャコールグレイのジャケットを羽織った長身は、優雅に歩みを進める。
短く整えられた紅茶色の髪は自然と風に靡き、成長しきった成熟した姿は、完成された大人の気配を濃厚に振りまいていた。
舞台上の決められた定位置のように、黒板の前、教壇の横で歩みを止めた先生は、体を正面へと向け、鋭く輝く琥珀の瞳で教室を一望した。
瞬間、各々の態勢で寛いでいた格好で停止していた生徒等は、弾かれたように席へと着席し姿勢を正す。
何で、この人がここにっ!? という疑問を浮かべるよりも先に、まず生徒達が視線に屈服した瞬間だった。
もちろん例にも漏れず、千世子も姿勢を正した。
今の千世子は、水神ではなくただの十六歳の人間の少女だ。威圧感溢れる美丈夫を前に委縮したとしても誰に責められようか。
口から零れ落ちたシャープペンを机の上で、ささっと整えたあたりで、実は彼の後ろからそっと入って来ていた社会科研究室の主任である年嵩な男性教諭が、忙しなく眼鏡を拭きつつ口を開いた。
「……あー。突然ではありますが、皆さんにお知らせがあります。このクラスの日本史を受け持っていた岩垂先生は、本日より、約、……ぇー……。二……週間の間、急遽、新婚旅行へと行かれました」
ヲイ、マテコラ。
クラス全員の心が一つになったと確信した。
もし私がボケとツッコミで言う、ツッコミ要員であったとしたら「そんなに、さばききれるか!!」とでも叫んでいたことだろう。
確かに日本史の教科担任である岩垂先生は、今年の春先に結婚したばかりのホンワカ男子だった。新妻の愛妻弁当を生徒達に冷やかされ「いやー、まだ新婚旅行にも行ってなくてね。まぁ、お盆休みぐらいには行こうと思ってはいるんだ」なんて、ポロリと零してしまう可愛気全開の三十路の噂は、自然と耳に入ってくるものだ。
それが。それがだ。昨日まで、普通に学校に来ていたと言うのに、今日、突然新婚旅行に出かけたとは何事だ?
しかもそれを説明する主任教諭は、あからさまに期間の部分で、自らの横にいる男へと確認を取っている。
そして、それに当然のように了承を送り、悠然と立っている違和感しか与えないそこの男!
彼は確かに、日本史担当の社会科の教師だ。しかし、同時に日本屈指の名家、槌永の中枢の人物でもある。
彼がこの学園にいるのは、あくまでも特別クラスの担任としての役割があるからであって、事実として、いくら日本史の教師だからと言っても、彼が担当するのは特別クラスの授業だけ。それなのに、うちのクラスに何の用だというのだろう。
こんな所まで出てくるなんて、一体どのような風の吹き回しだ?
「……えー……、それにつきまして、本日から、岩垂先生が戻ってくるでの間、こちらにいらっしゃいます槌永先生に、皆さんの授業を受け持ってもらうことになりました」
…………。
「先生! と、言うことは、槌永先生は岩垂先生の授業の枠に、出来る限り入るということですか?」
勇者よっ!!
誰もが一瞬ちらりと頭を過りつつも、もんもんとしていたことを我がクラスきってのムードメーカーが突っ込んでくれた。
今ならば、彼が伝説の勇者の力を持って生まれたのだ、と説明されても納得してしまうかもしれない。
そして、あからさまに困り出す教科主任。
「あーー……。それは、ですねぇ……、えっと……」
チラチラ、チラチラと忙しなく隣に視線を向けている。
あ。とうとうハンカチで汗を拭き始めた。
「それに関しては、私からお答えしましょう」
きっと、教科主任の視線を受けたからではなく、ただ単純に主任では答えられないと判断したのだろう。今まで静観していた槌永先生がにっこりと笑顔を作り口を開いた。
「私は、岩垂先生が受け持っていた授業の代打に入るわけではありません。私が受け持つのは、このクラスの日本史の授業だけになります」
槌永先生の衝撃の答えに、クラスが数秒固まる。
主任教諭の汗を拭く手が早まる。
「……えっと、つまり岩垂先生が持っていた内の、このクラスの授業だけを槌永先生が行うんですね? どうして……」
「岩垂先生が長期休暇を取るにあたって、岩垂先生の授業は当然、他の先生方に割り振られるわけですが、皆さんの授業だけ、どうしても埋まらなかったため、特別クラス担当であっても時間の空いていた私がくることになったのです」
「え、でも、それなら……」
槌永先生も、他のクラスを手伝った方が効率的なのではないですか?
きっと勇者はそう言いかけたのだろう。だが、彼の言葉は喰い気味で発された槌永先生の台詞で意味を成さなくなった。
「表向きは」
勇者含めて、再びシンと静まり返る教室内。
オモテムキハ……?
まるで異国の言葉を聞いたかのように、上手く意味を咀嚼出来ない。
そんな中、槌永卯木ただ一人だけが、にこやかに話を続ける。
「皆さんも、もう高校生です。もう大人の方達と比べても遜色ない考えが出来ることでしょう。だからこそ、先に話しておきますが……俺は、このクラスの日本史しか見ない。理由は察しろ。”大人の事情”だ」
もう完全に、生徒達から顔を反らしている教科主任に、ガラリと口調の変わった槌永卯木の様。
……っ、権力だっ!! 槌永の権力だ……っ!!
若干十六歳にして、社会の裏側を垣間見た瞬間だった。




