2 グローリアとアダム
「まあっ! まあまあっ! 大変っ! 大変よ、あなたー!」
濡れ鼠のヘンリエッタを見るなり、そう叫んだのは三十代の女性だった。
ヘンリエッタの元家庭教師、グローリア・シェリー。
黒髪黒目で暗い色の服を着た魔女だったが、底抜けに明るい彼女は、よく魔女に向けられる怖いイメージとは無縁の女性だった。
そして、ヘンリエッタが持つツテの中で、一番柔軟に対応してくれる人だった。
父とケンカした勢いで着の身着のまま雨の中を家出してきたヘンリエッタは、グローリアに乾いた町娘の服を用意してもらい、屋敷への連絡を拒否。すでに夕刻だったこともあって、一晩シェリー家に泊めてもらうことにした。
*
借りたベッドで泣き寝入りしたヘンリエッタは、朝早くに目を覚ました。
(わわ、寝るつもりじゃなかったのに寝ちゃった! …でも、まだ薄暗いから夜明け頃よね)
慌てながらも冷静に状況を確認したヘンリエッタは、音を立てないようベッドからすべりおりた。服を着替え、静かに部屋のドアを開けた。
そして。
「おはようございます、ヘンリエッタ様」
「きゃああああっ」
男性の声に呼びかけられたヘンリエッタは悲鳴をあげた。
見張りよろしく部屋の前に立っていたのは、グローリアの夫アダム・シェリーだった。
*
悲鳴をあげたせいで寝ていたグローリアまで駆けつけてきて、ヘンリエッタはダイニングで、シェリー夫妻の前に座らされることとなった。
(あーあ、お説教されて、家に帰されるのね。こんなことなら服なんて気にせず、ずぶ濡れのままクリスに会いに行けば良かった。先生を頼ったのは失敗だったわ)
そう。
柔軟なグローリアは、ヘンリエッタの性格をよく知り、先回りすることもできる人物だった。
ヘンリエッタは、すっかり意気消沈した。
「寝室の前で見張りに立ったご無礼は謝罪致します。…ただ私も、視る者協会に勤める者としてクリス君を窮地に立たせるような事態は見過ごせませんでしたので」
口を開いたのはアダムだった。
「あ」とヘンリエッタは気付いた。
特別な視る能力者であるクリスを全力で庇護してきた視る者協会。
(そうよ。アダムさんは協会の総務長官。グローリア先生がわたしの味方なら、彼はクリスの味方)
「ですから、クリス君の気持ちを私の方で代弁させていただきます」
「や…やめて! ほかの人から聞く言葉じゃ意味がないの!」
ヘンリエッタは首を振った。
しかし、アダムも引かなかった。怖いくらいに真剣で、切迫した瞳にひたと見据えられた。
「いいえ、お聞き下さい。ヘンリエッタ様とのお話を白紙に戻すことは、彼にとっても苦渋の決断でした。ですが、貴女への思いをこらえ、王家の未曾有の危機に全力で当たってくれています。今、貴女が彼の前に姿を見せれば、その彼の懸命の努力を崩すでしょう」
「わたしが…クリスの努力を崩す?」
アダムの言葉を、ヘンリエッタは思わず繰り返した。心外だった。
父に続きアダムにまで悪者扱いされ、腹の底にくすぶっていた感情に火がついた。
「裏切ったのはクリスじゃない! わたしと結婚してマッキンレイに挑むことは、二人一緒に破滅することだって、あり得た。それを覚悟の上で一度は一緒になる決意をしたのに、敵が変わったからって急に手のひらを返して…!」
「ヘンリエッタ様。落ち着いて、冷静にお考えになってください。敵が変わったのではありません。増えたのです。それに、クリス君にとって、マッキンレイはやり口や傾向を把握した旧知の敵ですが、魔法使いダグラスは違う。どんな手を使ってくるか分からない未知の、強大な敵なのです」
「は…? なによ…マッキンレイは旧知の敵って…」
アダムの訂正にヘンリエッタは嫌な予感を覚え、ひるんだ。
「クリス君がマッキンレイに挑む決意をしたとき。あなたを守り、キングスフォード家への損害を最小限に抑える最善の方法を、彼は考えていたはずです。それが成功するかどうかは別として」
「アダムさん…まさかクリスが心変わりしたわけじゃなくて、わたしと彼の気持ちが一致しているようで、していなかったと言ってるの…?」
「さようでございます」
アダムの答えは簡潔だった。
「屈辱だわ…! 守って欲しいなんて、わたし、頼んでない! 一緒に戦いたかったのよ!」
「残念ながら、それはヘンリエッタ様だけのお気持ちかと」
クリスがヘンリエッタを受け入れてくれたのは、ある程度勝算が描けたからで、一緒に困難を乗り越えようと思ってくれたからではなかった。
結婚が決まって以来信じてきたことを重ね重ね否定され、ヘンリエッタはショックのあまり涙ぐんだ。
けれど、泣き崩れるのは矜持が許さなかった。
勝手な期待をしたのは自分だと理解した以上、思い通りにならないと暴れまわるのは、マッキンレイのような人間に成り下がることだ。
「私と致しましては、お屋敷に戻り、御父君のご意向に沿われることをお勧め致します」
厳しい声がヘンリエッタの退路をふさぐように響いた。
(終わった……家につれ戻される……)
ヘンリエッタは、ひざの上に置いた自分の手を見た。
手は血の気を失って白く、震えていた。
いや。手だけではなかった。全身が震え、血の気が引いてしまったように感じた。
それが恐怖からくるものだと、ヘンリエッタはすぐに気付いた。つい最近味わった感覚だったからだ。
そう。魔法使いダグラス襲撃の知らせを聞き、その討伐指揮官に任命されたクリスの無事を祈ったときに。
(震えが止まらない……怖い……わたしを突き放して……クリスはちゃんと自分のことを考えてる……?)
アダムが最初に教えてくれたことが頭に戻ってきて、胸をしめつけた。
(クリスが懸命の努力をしてるって言ったわ。それって無理してるってことじゃない。勝つ望みのない戦争を背負って、クリスは……)
「では、お屋敷にご連絡を…」
「やめて」
家出の終わりを告げようとしたアダムを、ヘンリエッタは強い口調で遮った。
そして、顔をあげ、まっすぐにアダムを見た。
取り乱しているわけでも、駄々をこねているわけでもない。たしかな信念をもった目で。
アダムは驚いたように目を見開いたが、すぐにヘンリエッタの視線を受け止め、困惑ともとれる硬い笑みを浮かべた。
「…理由をお聞かせください」
「クリスが…」
思いを声にしようとしたヘンリエッタは、途中で一度、それを断念した。
それを認め、言葉にすることは、想像以上に恐ろしい行為だった。口にするだけで涙があふれそうだった。
(これくらいで、くじけてどうするのよ。本当に恐ろしいのは、それが現実になることじゃない…!)
今なら分かる。
父を通してクリスの返事を聞いたときから。
自分の中で明確に言葉にすることさえできなかったその恐怖が、ヘンリエッタをここまで突き動かしてきたのだ。
「…クリスが、自分が生きることを考えていないからよ。それを分かっていて一人国外に行くってことは……わたしがクリスを見殺しにするってことだわ…!」
ゆっくりと、一語一語を丁寧に、ヘンリエッタは言い切った。
最後には感情が昂って、目尻から涙がこぼれた。
それでも視線はアダムに定めたまま、外さなかった。手をあげ、涙をぬぐうこともしなかった。
アダムもまた、芯の通った目でヘンリエッタを見返した。
しばらく、時が止まったみたいに、どちらも動かなかった。息遣いさえ消された、なんの音もない静寂がその空間を支配した。
先に動いたのはアダムだった。
彼は一度目を伏せ、息を吐いてから席を立った。
それから、ダイニングテーブルを挟んだ正面から、ヘンリエッタのそばまで歩いてきた。
「な、なに…」
身構えたヘンリエッタの前に、アダムは片膝をついた。
そして、騎士が王に忠誠を誓う姿勢で、ヘンリエッタを見上げた。
「ヘンリエッタ様のお心、この不肖アダム、確かに聞き届けました。微力ながら全力でサポートさせていただきます」




