第八章:一粒の米
相模国の西半分を手中に収めた新九郎の前に、最後の、そして最も手強い壁として立ち塞がったのが、東の三浦半島を領する名門・三浦道寸であった。
三浦氏は、源頼朝の鎌倉開府(建久三年〈1192年〉)以来、数百年にわたって相模の海を支配してきた名族中の名族である。彼らは頑強な水軍を抱え、半島の険しい地形に拠って、新九郎を「京から来た、成り上がりの法師」と激しく蔑み、敵対した。
新九郎と三浦一族の戦いは、実に長い歳月に及ぶ死闘となった。
永正九年(1512年)、新九郎はついに三浦の本拠へ向けて大軍を動かした。三浦道寸は激しく抵抗したものの、新九郎の緻密な包囲作戦の前に敗れ、半島の最南端にある要害・新井城(あらいじょう・現在の神奈川県三浦市)へと追い詰められた。
この新井城が、まことに厄介な城であった。
三方を崖と深い海に囲まれ、陸路は狭い一本道のみ。正面から攻めれば、いかに新九郎の兵が強靭であろうとも、甚大な返り討ちに遭うことは明白であった。
「新九郎様、一気に攻め落とすべきです。兵の士気は高うございます」
氏親から遣わされた若い将、今川彦五郎たちが功を焦って進言したが、新九郎はそれを厳重に退けた。
「愚か者め。敵は袋の鼠だ。わざわざ鼠の巣に手を突っ込んで、指を噛まれる必要がどこにある。城の周りを完全に封鎖し、一本の干魚、一粒の米も中へ入れるな」
余談ながら、新九郎のこの作戦は、のちの豊臣秀吉が得意とした「干殺し」の先駆けであった。新九郎は新井城を包囲するため、その目と鼻の先に「三崎城」などの支城を次々と築き、陸からも海からも、三浦の退路と補給線を完全に断ち切ったのである。
城内の兵糧が尽き、飢えが始まるのを、新九郎はただじっと待った。
時の経過は誰の身にも等しく流れるが、新九郎の精神は焦りとは無縁であった。彼の時間は、どこまでも冷徹な計算に基づいて流れていた。
(ひと月待てば、敵の矢が減る。半年待てば、敵の気力が尽きる。戦とは、時を味方につけた者が勝つのだ)
籠城は、三年に及んだ。
永正十三年(1516年)夏。
新井城の中は、もはや生き地獄と化していた。草木の根を喰らい、泥水をすすって耐えていた三浦一族の限界が、ついに訪れる。
「もはやこれまで。名門三浦の意地、見せてくれん!」
当主・三浦道寸、自由を奪われた絶望の中で咆哮し、その子・三浦荒次郎とともに、残った手兵を率いて城門を開いた。怒涛のごとく新九郎の陣へと突撃した。それは、中世という時代が、新九郎の「近代的な合理」に対して挑んだ、最後の絶望的な反撃であった。
戦は数時間に及んだが、飢え疲れた三浦の兵は、新九郎が万全の構えで配置していた槍隊の前に、次々と討ち取られていった。三浦道寸、三浦荒次郎の父子は、一族の者たちとともに次々と腹を切り、その血は崖を伝って下の海へと流れ落ちた。
あまりの血の多さに、湾の海が一面、油を流したように真っ赤に染まったという。のちにその地が「油壺」と呼ばれるようになった、凄絶な結末であった。
三浦一族、滅亡。
新九郎は、血の臭いが立ち込める新井城の跡地に立ち、静かに海を見つめていた。
これで、相模の国はすべて彼のものとなった。伊豆と相模――二国を領する、関東最大の戦国大名が、ここに誕生したのである。
しかし、この大勝利の瞬間にあっても、新九郎が勝ち鬨を上げることはなかった。彼はただ、自らが引いた境界線と、これから築くべき盤石な秩序の設計図を脳内で検め直していた。
次章、第九章へ続く。
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