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全部、一瞬で終わった

 ガレージに着くといつも、コーヒーの匂いがした。

 正確には、コーヒーというよりインスタントの粉をお湯で溶かしただけのやつで、それをマグカップに入れて飲んでいる人間が一人いた。チェスカだ。

 チェスカ・モーリン。近獣種、兎、27歳。組織のガレージ番兼、帳簿担当。背は低くて細くて、ぱっちりした目が特徴的な女だった。毛の色はグレーがかった白で、長い耳をいつも片方だけ折り曲げていた。癖だと本人は言っていたが、たぶん考えごとをしているときだけそうなる、と私は思っていた。

 「今日の仕事、南の港エリアだって。気をつけてね。」

 チェスカはマグカップを両手で持ちながら言った。気をつけて、という言葉がやけに似合う人間だった。心配性なのか、天然なのか、いつもそういうことを言う。

 「何があるの、南の港」

 「先週、別の組の連中が摘発されたでしょ。警官の巡回ルートが変わったんだって。マルコが言ってた。」

 マルコ。

 マルコ・ヴァスケス。近人間種、熊、34歳。組織の中堅で、私が入って最初に面倒を見てくれた男だった。体が大きくて声も大きいのに、妙に気が利く。仕事の前に必ず「飯食ったか」と聞いてくる。食ってないと言うとコンビニで何か買ってきてくれる。それが習慣になっていた。

 「マルコ、今日は?」

 「南側の別ルートを走ってる。夜には戻るって。」

 私はうなずいて、コーヒーを一杯もらった。

 チェスカが入れてくれたそれはやっぱりインスタントの味がして、でも悪くなかった。


 組織に入って、二年が経っていた。

 最初は父の紹介だった。父が長年お世話になっている、と言っていた組織で、私が16の頃から父の助手として荷物を運んでいた。免許取り立てで、ハンドルを握るのが面白くて仕方なかった頃の話だ。

 父が消えたのは、私が17になった年だった。

 理由はわからない。ある朝、父の部屋が空になっていた。荷物もない。書き置きもない。ただ、空だった。

 それから私は一人で仕事を続けた。父の代わりに、父のポジションで。組織の人間は誰も文句を言わなかった。むしろ「シャルは父親より速い」という話になっていった。褒め言葉かどうか、今でもよくわからない。

 ガレージには五人の人間がいた。

 チェスカ。マルコ。それから——

 リョウ。

 キルヒ・リョウ。近人間種、猫、22歳。私より四つ上で、組織の中では一番のお調子者だった。口が軽くて、笑い声がうるさくて、でも仕事のときは別人みたいに黙る。その落差が私はわりと好きだった。

 「シャル、昨日の仕事どうだった?」

 リョウは私が来るとすぐに聞いてくる。仕事のことが好きなのではなく、話したいだけなんだろうと思っていた。

 「問題なかった。」

 「問題なかった、しか言わないよね、シャルって。」

 「問題なかったんだから仕方ない。」

 リョウは笑った。うるさい笑い声で。

 もう一人、ペトラという子がいた。

 ペトラ・ガルシア。近獣種、鹿、18歳。私と同い年で、入ったのは私より半年後だった。細くて、目が大きくて、緊張するとすぐ顔に出る。仕事は丁寧だが遅い。マルコがよく「焦らなくていいから、確実にやれ」と言っていた。

 ペトラは私のことを「先輩」と呼んでいた。年が同じなのに。

 「シャル先輩、今日一緒のルートじゃないですか……?」

 「別々だよ。南と北で分かれてる。」

 「そうですか……」

 ペトラは少し残念そうな顔をした。

 そういう子だった。


 そして最後に一人。

 ドウ・アンセル。近人間種、犬、41歳。組織のガレージ担当の最年長で、みんなが「アンセルさん」と呼ぶ人だった。寡黙で、笑わなくて、でも仕事の丁寧さは誰よりも上だった。車のことなら何でも知っていた。

 アンセルさんは自分の車を一台持っていた。組織の備品ではなく、私物の車だ。古い型落ちのセダンで、でも外見は独特だった。インチアップした大径ホイール、エアサスで落とされた車高、トランクの中には小型のサブウーファーが仕込んである。地味な車体色なのに、近づくと音がする。低くて、静かな音。

 「あの車、なんの曲が入ってるんですか?」とペトラが一度聞いた。

 「古い曲だ」とアンセルさんは答えた。

 「教えてくれないんですか?」

 「聞けばわかる。」

 「聞かせてくれないじゃないですか。」

 そこで会話が終わった。アンセルさんはそういう人間だった。

 私はその車のドアに一度だけ触れたことがある。鍵は開いていた。助手席側から少しだけ中を覗いたら、センターコンソールにMP3プレーヤーが置いてあった。古い機種だった。画面は小さくて、文字が滲んで見えた。

 何の曲が入っているのか、私も結局知らないままだった。


 その夜、仕事は普通に終わった。

 北側のルートを走って、荷物を届けて、ガレージに戻った。チェスカがまだいた。マルコも戻っていた。リョウが「お疲れ」と言った。ペトラが「お疲れ様です」と言った。

 アンセルさんは車の下に潜って何かを整備していた。

 普通の夜だった。

 そういう夜が、少し続いた。


 崩壊は、何の予兆もなく来た。

 午後10時すぎだった。

 私はガレージの奥でシートに座って、次の仕事のルートを頭の中で整理していた。チェスカが帳簿を更新していた。リョウが仮眠から起きてきたところで、眠そうな目をしていた。マルコが外から戻ってきたばかりで、ジャケットを脱ごうとしていた。ペトラが私のそばで、地図を広げていた。アンセルさんはまた車の下にいた。

 ドアが蹴り破られた。

 一瞬、何が起きたかわからなかった。

 音だけが先に来た。金属が歪む音。次に怒鳴り声。次に光。懐中電灯の光が何本も、一気に入ってきた。

 「動くな!伏せろ!手を上げろ!」

 警察だった。

 何人いるかわからない。光が多すぎて顔が見えない。防弾ベストを着た人間たちが、ガレージの中に流れ込んでくる。

 リョウが叫んだ。

 「やばい——」

 その一言だけ聞こえた。

 マルコが動いた。脱ぎかけていたジャケットを投げた。それが警官の一人の顔に当たった。一秒の隙。マルコが怒鳴った。「シャル、逃げろ!」

 銃声がした。

 一発。

 マルコが倒れた。

 撃たれた、という事実が、私の頭に届くのに時間がかかった。倒れた、という映像は見えた。でもそれが何を意味するのか、処理が追いつかなかった。

 チェスカが悲鳴を上げた。

 リョウが飛びかかった。二人の警官に押さえつけられた。「離せ!離せよ!」という声がして、それから鈍い音がして、声が止まった。

 ペトラが私の腕をつかんだ。「先輩!先輩、逃げてください!」

 ペトラの目が見えた。大きな目が、恐怖でいっぱいになっていた。

 「ペトラ——」

 「逃げてください!」

 ペトラが私の体を押した。

 私は走った。

 走るしかなかった。


 ガレージの裏口から出た。

 夜の外が冷たかった。

 頭の中がうまく動かない。走りながら考えようとしているが、考えがまとまらない。マルコが倒れた。リョウが押さえられた。チェスカが。ペトラが。アンセルさんは——

 車が見えた。

 アンセルさんの車だった。

 裏口の脇に駐めてあった。いつもの場所に。

 私は迷わなかった。

 いや、正確には迷う時間がなかった。

 ドアを開けた。鍵は刺さっていた。アンセルさんの癖だった。ガレージの中に停めるときは、いつも鍵を刺したままにしていた。

 乗り込んだ。エンジンをかけた。

 センターコンソールのMP3プレーヤーが、振動でスリープから起きた。小さな画面に曲名が出た。文字が滲んでいて、最初は読めなかった。

 でも音が出た。

 ギターの音から始まった。古い録音で、少しノイズが混じっていた。でも、きれいな音楽だった。懐かしい感じのする音楽。私の知らない音楽。アンセルさんの音楽。

 アクセルを踏んだ。


 走り出した瞬間、後ろでサイレンが鳴り始めた。

 バックミラーに赤と青の光。

 この車は重かった。インチアップしたホイール、エアサスの改造、トランクのサブウーファー。ドレスアップカーの宿命で、純粋な速さよりも重量が増している。コーナーの入り方も、私がいつも乗る車と少し違う。

 でも走れる。

 走れることはわかった。

 R2に乗るのは危険だった。高速は検問を張られたら終わりだ。一般道を行く。路地を使う。自分の地図を使う。

 左折。次の路地で右。一方通行を逆走する。狭い道に入る。

 後ろの光が遠くなる。

 遠くなったところで、また曲がる。また路地。また一方通行。

 音楽が続いていた。

 古い曲。歌詞はわからない言語だった。でも、メロディーだけは耳に残った。どこか遠くに連れて行かれるような、そういう音楽だった。

 マルコが倒れた映像が、頭の中に何度も再生された。

 ジャケットを投げたマルコ。大きな背中。「シャル、逃げろ」という声。

 それから銃声。

 それだけ。

 私はアクセルを踏み続けた。考えないようにした。考えると止まってしまいそうだった。走ること以外のことを考えると、たぶん止まってしまう。

 走ること。それだけ。


 エンジンの音が変わったのは、走り始めて20分ほどしたころだった。

 低い、嫌な振動が混じり始めた。

 「……嘘でしょ」

 燃料計を確認した。針がほぼ空を指している。半分以上残っているはずのタンクが、こんなに早く減るはずが——ドレスアップの重量増加のせいで燃費が悪かったのか、それとも最初からもっと少なかったのか。どちらにしても、判断する時間はなかった。

 エンジンが咳き込んだ。

 速度が落ちた。

 「頼む——」

 でも、車は止まった。

 人通りの少ない大通りのど真ん中で。街灯の下で。

 後ろにパトカーの光はなかった。まいていた。でも、ここに突っ立っていれば見つかる。

 私は車を降りた。

 MP3プレーヤーを抜いた。なぜそうしたのかわからない。でも、手が動いた。ポケットに入れた。

 走った。


 走りながら、状況を整理しようとした。

 できなかった。

 現金は多少持っている。カードは使えない——口座はすぐ凍結される。携帯は電源を切った。位置情報が怖い。着替えがない。行き先がない。

 ひとつひとつが、じわじわと重くなってくる。

 繁華街に入った。

 夜10時過ぎの繁華街はまだ人がいる。ネオンがある。若い人間たちがいる。私は人の流れの中に紛れ込んだ。

 後ろから声がした。

 「おい、止まれ!」

 振り返らなかった。

 人混みの中に入った。人を避けながら走った。速度を上げた。

 角を曲がったとき、路地の入り口に高校生くらいの男子集団がいた。四人。ひとりがスケートボードに乗っていた。残りは地べたに座ってスマホを見ていた。

 私は考える前に声をかけていた。

 「そのスケボー、ちょっと貸して。」

 「は?」

 「あとで返す。貸して。」

 「え、ちょ——」

 ボードを受け取った。正確には取った。乗った。

 スケートボードに乗ったのは小学生のとき以来だった。それでも乗れた。体が覚えていた。バランスの取り方は、車の感覚に少し似ている。重心の移動。速度の感じ方。どこに力をかければ曲がれるか。

 繁華街の歩道を滑った。

 人を避けた。段差を超えた。看板の柱を使ってコーナーを曲がった。

 後ろの声が離れた。

 次の交差点で路地に入った。ボードから降りた。走った。


 ファストファッションの店が見えたのは、偶然だった。

 夜11時近いのに、まだ営業していた。蛍光灯の光が窓から漏れていた。ガラスの向こうに服が並んでいた。

 私は入った。

 店の中は明るかった。音楽が流れていた。店員がレジにいた。私のことを一瞬見たが、すぐ手元に戻った。

 自分の格好を確認した。ジーンズ、フードパーカー、黒いスニーカー。仕事の格好だった。走り回ったせいで乱れている。汗をかいている。匂いがしているかもしれない。

 服を選んだ。早く。考えすぎずに。

 グレーのトレーナー。明るいカラーのカジュアルパンツ。白のスニーカー。フードのないシンプルなアウター。

 試着室に入った。

 着替えた。

 鏡の中に知らない人間がいた。

 さっきまでの私じゃない顔が、鏡の中にあった。同じ顔なのに、違って見えた。近獣種の耳がある。尻尾がある。それは変わらない。でも、服が違うだけで、輪郭が変わる。

 私は鏡を見るのをやめた。

 元の服をたたんで試着室のフックにかけた。スニーカーを履き替えた。

 レジに行って、選んだものを全部出した。現金で払った。

 店員は何も言わなかった。

 「ありがとうございました」とだけ言った。

 私は「どうも」と言って、店を出た。


 夜の街に出た。

 人が歩いていた。車が走っていた。ネオンが光っていた。

 何も変わっていなかった。

 私の世界が全部ひっくり返ったのに、街は何も変わっていなかった。

 足が動いた。歩いていた。どこへ向かうかを考えていなかった。

 考えようとした。

 逃げ切ったら、何をしようか。

 どうやって暮らそうか。

 考えられなかった。

 マルコが倒れた。リョウが押さえられた。チェスカの声がした。ペトラが私を押した。アンセルさんの車が止まった。

 それだけが頭の中をぐるぐるした。

 先のことを考えようとするたびに、その映像が割り込んできた。

 逃げ切ったら。

 逃げ切ったとして。

 私は何になるんだろう。

 答えが出なかった。

 出るわけがなかった。

 組織がなくなった。家族みたいな人間たちがいなくなった。口座は凍結される。家に戻れば待ち構えられているかもしれない。正規の職には就けない——指名手配になるから。

 何もない。

 何もないところに、私だけが立っていた。

 ポケットの中でMP3プレーヤーが重さを持っていた。

 アンセルさんの音楽が、まだそこに入っていた。


 夜が深くなるにつれて、人が減っていった。

 私はアンダーラインの方向に歩いていた。行くあてがあるわけじゃない。ただ、知っている場所に向かって歩いていた。

 途中で一度だけ、パトカーがそばを通った。

 私は歩く速度を変えなかった。視線を道の先に向けたまま、普通に歩いた。

 パトカーは止まらなかった。

 通り過ぎていった。

 服が変わっていたからか。それとも、ただ運が良かっただけか。どちらでも良かった。

 通り過ぎた、それだけで今夜は十分だった。


 公園のベンチに座ったのは、夜中の1時を過ぎたころだった。

 誰もいない公園だった。街灯が一本、ぼんやり光っていた。

 座ったら、立てなくなった。

 疲れていた。足が痛かった。走りすぎて、あちこちが重かった。

 MP3プレーヤーを出した。

 小さな画面をつけた。文字が滲んでいた。アンセルさんが入れていた曲が並んでいた。知らないアーティスト名ばかりだった。

 イヤホンジャックに合うものを持っていなかったので、音は出せなかった。

 ただ、画面の文字列を眺めた。

 アンセルさんが好きだった曲たちの名前を。

 明日、どうするか。

 考えなければいけないのはわかっていた。口座は使えない。家には帰れない。仲間は捕まった。マルコは撃たれた——生きているか、どうか。

 でも、今夜はもう考えられなかった。

 考えようとすると、頭が空白になった。

 空白の中に、ペトラの目だけが浮かんだ。

 恐怖でいっぱいの、大きな目。

 私を押して、「逃げてください」と言ったペトラ。

 私は逃げた。

 逃げた。

 それしかできなかった。

 公園の街灯が、風でぼんやりと揺れた。

 揺れていなかったかもしれない。

 ただ私の目が、ぼやけていただけかもしれない。

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