夜の仕事、昼の顔
仕事の前夜は、いつも同じ夢を見る。
幼いころ、父親に連れられて出た夜のドライブ。街の明かりが雨に濡れたアスファルトに溶けて、色とりどりの川みたいに流れていた。運転席の父は何も喋らなかった。私も何も聞かなかった。ただ、ハンドルを握る父の手の、あのしっかりした形だけを覚えている。
目が覚めると、天井のシミが見えた。
6畳のアパート。ユニットバスつき、コンビニ徒歩3分、南向きだが日当たりが悪い。それがラーヴェンの外縁部、通称〈アンダーライン〉と呼ばれる地区の相場というやつだ。家賃を聞いたとき、不動産屋——正確には、近獣種と近人間種専用の非公式賃貸をやっているおじさん——は「獣人向けにしては安いよ」と言って笑った。
私は笑い返さなかった。
ベッドから起き上がり、カーテン越しに外を確認する。曇り。ラーヴェンの朝はだいたい曇りだ。快晴のときはある意味逆に怪しい。
今日の仕事は夜だ。
シャルロッテ。それが私の名前で、みんなはシャルと呼ぶ。近獣種、狐、18歳。
職業は、運び屋。
運び屋というのは聞こえがいいが、要するに「運んではいけないものを運ぶ人間」のことだ。荷物の中身は聞かない。行き先だけ聞く。報酬をもらって走る。それだけ。
一族代々の稼業だった。父がそうで、父の父もそうだったらしい。近獣種の狐というのは昔から「運び屋の血筋」と呼ばれる。理由はわかりやすい。反射神経、空間認識能力、危機察知の本能。人間や近人間種よりも少し、いや、かなりそれが鋭い。獣の血がそうさせる。
才能だ、とみんなは言う。
私はそれを才能と思ったことが一度もない。
昼過ぎ、テレビをつけながら遅い朝食を食べていた。
画面の中では、スーツ姿のコメンテーターが口を開いている。
「先週の連続窃盗事件ですが、容疑者の一人が近獣種であったことが判明しまして——」
トーストを口に運びながら、音量を少し上げた。
「やはり獣人、特に近獣種においては衝動的な犯罪行動のリスクが……専門家の見解では、社会適応能力の問題が根本にあるということで……」
隣の席で別の評論家がうなずく。若い女性のアナウンサーが神妙な顔で「なるほど」と言う。
私はトーストを置いた。
三人組の連続窃盗事件だった。主犯が近獣種の犬で、残りの二人は人間だったはずだ。私はそのニュースを三日前に見ていた。でも今日の画面の中では、なぜか人間二人の話はどこにも出てこない。近獣種の犬の話だけが切り取られて、「獣人の犯罪性向」という枠組みに嵌め込まれて流れている。
当たり前のように。
毎朝これだ。私は慣れた。慣れるしかなかった、というのが正確なところだけど。
テレビを消して、食器を洗う。流しの窓から外が見える。アンダーラインの路地。電柱。ゴミ捨て場に、昨日から放置されている誰かのバッグ。この街では、誰も拾わない。管轄の清掃員も来ない。「あのエリアは対応が遅れている」と区の担当者が言ったというニュースを見たことがある。遅れているんじゃなくて、最初からやる気がないだけだ。
夕方、一本の電話があった。
「今夜、例の場所で。荷物あり。客が一人乗る。」
電話をかけてきたのは、組織の連絡係をしている中年の男だ。名前は知らない。声だけ知っている。
「客?」
「そうだ。荷物の護送。女だ。問題ない。」
私は少し考えた。
問題ない、という言葉を私はあまり信用しない。問題のある話をするとき、人はだいたい「問題ない」と言うからだ。でも、断る選択肢はなかった。今月の家賃の締め日まであと九日で、口座の残高は見ないことにしていた。
「わかった」と言って電話を切った。
夜の11時。
私は車の中にいた。
組織から借りている車で、黒のセダン。外見は普通のサラリーマンが乗っていそうな地味な車だが、中身はまったく別物だ。エンジンはチューニングされていて、サスペンションは固く締められている。シートはノーマルのままにしてある——派手な改造車は目立つから。目立ってはいけない。
待ち合わせ場所は、アンダーラインの外れにある廃ビルの駐車場だった。
11時15分になっても、客は来なかった。
私はハンドルの上に腕を乗せ、ぼんやりと外を眺めた。ここから少し先に、環状高速R2の高架が見える。夜の高架は光の帯みたいで、それだけ見ると少しきれいだ。実際に走ると、きれいなんて思っている余裕はない。あの道は速い。速いくせに、油断すると壁がある。
11時23分。
駐車場の入り口に人影が現れた。
走っていた。
ただ歩いてくるのではなく、明らかに急いでいた。女だった。背が高い。近人間種、たぶん狼。耳が立っている。
彼女は私の車のドアをノックもせずに開けて、後部座席に飛び込んできた。
「行って。今すぐ。」
声に余裕がない。息が少し乱れている。私はバックミラーでその顔を確認した。20代後半くらい。短く刈り込んだ明るめの髪。切れ長の目が、緊張に細くなっている。
「どこに」
「とにかく走らせて。方向はあとで言う。」
私はギアを入れた。
後部座席から「なんで荷物を先に運ばなかったのよ」という独り言が聞こえたが、私には関係のない話だ。運び屋は走ることが仕事で、事情を聞くことが仕事ではない。
ビルの駐車場を出て、路地を抜けようとしたとき、赤と青の光が視界の端に見えた。
パトカー。
2台。路地の向こう側に停まっていて、こちらに向かってくる。
「やばい」と後ろで声がした。
私はアクセルを踏む量を変えなかった。
パトカーが近づいてくる。私は迷わず左折して、細い裏路地に入った。車1台がやっと通れる幅。両側に古いビルの壁が迫る。スピードを落とさずに進む。感覚でわかる——この幅なら通れる。鏡が当たるかどうかのギリギリだが、当たらない。
「ちょっ……」
後ろで声がしたが、私は聞こえないふりをした。
裏路地を抜けた先で右折、一方通行を逆走して大通りに出る。大通りに出た瞬間、私は速度を普通の流れに合わせた。何事もなかったように。
バックミラーに赤と青の光はない。
「……通り抜けたの?」
後ろから、少し驚いたような声がした。
「問題ない」と私は言った。
10分後、後部座席の女から行き先を聞いた。
ラーヴェンの南西、港に近いエリアにある倉庫街だった。裏の物流拠点として使われているところで、私も何度か来たことがあった。
走りながら、バックミラーでちらちらと後ろを確認する。パトカーの気配はない。女は黙って外を見ている。荷物は小型のハードケースで、膝の上に乗せている。中身には興味がない。
「さっきのパトカー、あなたを追っていたの?」と私は聞いた。
「多分ね」と彼女は言った。多分、ということは確証はないということだ。
「あなたのことを?」
「私というか……あの辺を走る獣人ってだけで十分でしょ、あの警官たちには。」
私は何も言わなかった。
わかっていたからだ。
近獣種や近人間種の多いアンダーライン周辺では、事件があると警官がまず「近くにいた獣人」を止める。理由は問わない。怪しいかどうかも問わない。いたから、獣人だから、それだけで十分な理由になる。
三ヶ月前、私はコンビニに寄る途中に止められた。何もしていなかった。ただ歩いていただけだった。警官が言ったのは「この辺で最近ひったくりがあった」という一言だけで、私が証明しなければならなかったのは「ひったくりをしていない」という事実だった。
「ひったくりをしていない」を証明するのは難しい。
20分近く路上に立たされた。最終的には「今回はいい」という言葉で解放された。今回は、という言葉の意味を私はずっと考えている。
倉庫街に着いた。
指定の場所に車を停めると、女は「ありがとう」と言ってドアを開けた。
「助かった。あの路地は私には抜けられなかった。」
私は振り返らずに「どうも」と言った。
「腕がいいのね。」
「仕事だから」と私は言った。
彼女は何か言おうとして、やめた。ドアが閉まった。バックミラーの中で、彼女が倉庫の中に消えていく。背の高い後ろ姿。
それだけだった。
私はエンジンをかけたまま、しばらくそこにいた。
今夜の報酬は封筒で連絡係に渡してもらう手はずになっている。仕事自体は問題なく終わった。パトカーをまいた。客を届けた。荷物も無事だ。
完璧な仕事だ。
なのに、なぜかその夜、しばらく走れなかった。
帰り道、R2の高架下を通った。
深夜になると、あそこには時々変な車がいる。族の連中だったり、ただのドライブ好きだったり。みんな、なんかそわそわしている。自分でも気づいていないくらいのそわそわが、アクセルの踏み方に出る。私にはわかる。
ハンドルを握ると、わかることがある。
速度と、空気と、路面の感触と、コーナーの先の景色と。それが全部、一本の線みたいに繋がって流れ込んでくる瞬間がある。頭が何も考えなくなる瞬間。心配事も、家賃も、明日の仕事も、全部どこかに行く。
それが嫌いじゃない。
嫌いじゃない、というのが問題だということも、わかっている。
この感覚が気持ちいいから、私はこの仕事を続けている部分がある。お金のためだけじゃない。それが呪いだということも、わかっている。わかっているのにやめられない。やめようと思ったことは何度もある。でも、毎回ハンドルを握ると、そんなこと全部どうでもよくなる。
最悪だ、と思う。
最悪なのに、R2の高架の明かりがきれいだった。
家に帰ったのは深夜2時過ぎだった。
シャワーを浴びて、ベッドに横になる。天井のシミ。昨日と同じシミ。変わらない天井。
テレビはつけない。
つけると、また誰かが「獣人の犯罪性向」について語っていそうで、それを聞かされて眠るのは嫌だった。
今夜の客のことを少し考えた。あの女。狼。背が高くて、パトカーが来たときに「やばい」と言った。やばい、は確かにそうだ。でも、パトカーが来ただけであの声色になる、というのは——何か、理由がある人間の顔だった。
まあ、関係ない。
運び屋は依頼を完遂したら忘れる。それが鉄則だ。
父がそう言っていた。情を持つな。依頼人のことを考えるな。荷物も人間も、目的地まで運んだら、それで終わりだ。
父は今どこにいるのか、私は知らない。組織が壊滅したあと、父の消息はわからなくなった。生きているのか死んでいるのかも。
天井を見たまま、目を閉じた。
雨に濡れたアスファルトが色の川になる夢を見る前に、今夜は眠れますように、と思いながら。
翌朝も、テレビは同じことを言っていた。
容疑者が逃走した。
現場近くで警官が職務質問を行い、数名を任意同行した。
「任意同行された中に近獣種が含まれており、関係を調べています」と女性アナウンサーが読み上げる。
容疑者は別の方向に逃げていった、と昨日のニュースで言っていた。
でも今日の画面に容疑者の話はない。
任意同行された近獣種の話だけがある。
私はトーストをかじりながら、それを眺めていた。怒っていない。驚いていない。ただ、眺めていた。
これが日常だ。
毎朝これを食べて、毎夜どこかへ走って、たまに寄り道して、それでまた朝が来る。
変わらない。
変わらない、と思っていた。
その日の夜、また電話が来た。
「今夜もある。例の客、また乗せてほしいと指名だ。」
指名。
私は一瞬黙った。
「昨日の女?」
「そうだ。腕がいいと言っていた。」
腕がいい。さっき倉庫街でそう言っていた女だ。あの狼の。
「……わかった」と私は言った。
理由はない。ただ、なんとなく、あの「やばい」という声のことを思い出していた。あの声は本物だった。作ったような怖さじゃなかった。本当に何か、追われているものを持っている人間の声だった。
そういう人間は、嫌いじゃない。
待ち合わせ場所と時間を確認して、電話を切った。
窓の外で、R2の高架がまた光っている。




