表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/13

第二話 あたしの矛盾

      六花


 朝、まどかと並んで通学路を歩いていた。並んで、というのは正確じゃない。あたしが半歩前を歩いていた。


 まどかはスマホの画面を見ながら歩いている。昨日の夜からずっとそうだ。LINEの既読は今朝ようやくついた。返事は「ごめん寝てた」の一言だった。クレープについては何も書いていなかった。


 あたしは前を歩く。まどかの視界の端に電柱があれば少し寄る。段差があれば「段差」と言う。自転車が来れば腕を引く。


 まどかは気づいていない。気づいていないことに、あたしも気づいていないふりをしている。


「りっか、ちょっと止まって」


 まどかがスマホを持ち上げた。カメラをあたしの顔に向けているのではなく、あたしの後ろの、通学路の脇の階段に向けていた。神社に上がる古い石段。毎朝通る道。


「この階段、何段?」


「え? ……知らない。数えたことない」


「数えて」


 あたしは階段を見上げた。苔が生えた灰色の石段。上まで見える。一、二、三、と目で追った。


「十三段」


「もう一回」


「十三……」


 もう一度数えた。今度は下から一段ずつ指さして。


「……十二?」


 おかしい。同じ階段を二回数えて、答えが違う。


 まどかがスマホの画面を見せてくれた。階段の画像にタグが浮かんでいる。あの、昨日見せてもらった表示。


  B ⚠


 赤い文字。


「B値。真かつ偽。この階段は十三段であると同時に十二段。矛盾してる」


 まどかの声は弾んでいた。面白いものを見つけたときの声。あたしはその声が好きだ。あたしに向けられたことはあまりないけど。


「昨日からあちこちに出てる。教室の時計もそう。三時十五分と三時十六分を同時に指してた」


「同時にって、二本ある針がそれぞれ——」


「違う。同じ針が、十五分のところにあると同時に十六分のところにある。写真撮ると撮るたびに違う」


 あたしにはよくわからなかった。でもまどかの目が光っているのはわかった。昨日の夜からずっと光っている目。あたしのLINEに返事をするのも忘れるくらい、何かに夢中になっている目。


 あたしたちはまた歩き始めた。あたしが半歩前で、まどかがスマホを見ながら。


 商店街を抜けるとき、あたしは何気なく左側を見た。いつも通る道。いつもの店。特に何も変わらない。だが朝の光がまぶしく感じて、つい目を細めた。視界の端で、古い煎餅屋の隣あたりに、建物の輪郭が二つに見えた。同じ形をした灰色の壁が、ほんの少しだけ重なっている。一瞬だけ。目をこすったら消えた。



 昼休み。


 お弁当を食べた。卵焼きと、昨日の残りの煮物と、ごはん。窓際の方で遠野さんが大きな声で笑っていた。毎日聞こえる笑い声。ちゃんと食べた。食べたのに、五時間目が始まる頃には、ひどくお腹が空いていた。


 朝も食べた。昼も食べた。それなのに、体が「食べていない」と言っている。頭は「食べた」と知っている。胃袋は「空だ」と訴えている。


 変な感じだった。体のどこかが少しずれている。食べたという事実と、空いているという感覚が、同時に存在している。


 隣の席の鮎川さんが「ねえ六花ちゃん、今朝のニュース見た?」と聞いてきた。見てない、と言ったら、スマホの画面を見せてくれた。「能登で原因不明の方向感覚障害 住民十数人が自宅への帰路を見失う」。


「こわくない? 急に道がわからなくなるって」


「……うん、こわいね」


 こわかった。でもなぜこわいのか、うまく言えなかった。道がわからなくなる。食べたのにお腹が空く。体が知っていることと、現実がずれる。


 昼休みの残りを中庭で過ごした。ベンチに座って、空を見た。来週の本読みの台詞が頭に浮かんだ。口の中だけで動かした。声は出さなかった。


 放課後、部室に行くと、まどかがあたしにスマホを向けた。


「りっか、ちょっといい? LOGICAで見ていい?」


「え、あたしを?」


「うん」


 カメラがあたしの体を映す。まどかの目が画面に落ちる。しばらく黙っている。それから、ゆっくりと顔を上げた。


 目が光っていた。昨日より強く。


「りっか、すごい」


「……何が」


「りっかの体、B値が混ざってる。ところどころ矛盾してるの。食べた、かつ食べてない。ここにいる、かつここにいない。なのに壊れてない」


 すごい、と言った。面白い、ではなくすごい。まどかがそういう言い方をするのは珍しい。


 でもあたしは、すごいと言われたことが嬉しくなかった。


 なぜかわからない。褒められているのだと思う。たぶん。でも、何を褒められているのかがわからない。あたしの矛盾。あたしの体のバグ。それがすごいのであって、あたし自身がすごいのではない。


「……すごいの、それ? 変なだけじゃなくて?」


「変じゃないよ。つむぎが昨日、LOGICAの画面見ただけで気持ち悪いって言ってたでしょ。B値に触れると普通はああなる。りっかはなってない。矛盾を矛盾のまま抱えて普通に動けてる。それがすごいの」


 まどかはもう画面を見ていた。あたしの顔ではなく。スマホの中のあたしのデータを見ていた。


 つむぎくんが向かいの席でノートを開いていた。顔を上げて、あたしを見て、それからまどかを見て、何も言わずにノートに目を戻した。


 よはんさんは窓際にいた。本を膝に載せていたけれど、ページを繰る手が止まっていた。机の端に購買のメロンパンの袋が置いてあった。半分だけ食べて、きれいに袋を折り返してある。



 まどかとつむぎくんが、ホワイトボードの前で何かを議論し始めた。昨日まどかが見つけたという、ホワイトボードの中の宇宙の話。つむぎくんが「それ本当にフィラメント構造か? ただのパターンマッチングじゃないのか」と言って、まどかが「じゃあ別の場所でも試す」と言い返して、二人でスマホと鉛筆を交互に使い始めた。


 あたしはすることがない。


 部室でいつもそうだ。まどかとつむぎくんが数学の話を始めると、あたしには入れない会話になる。記号と数字と、聞いたことのない名前が飛び交って、あたしは透明になる。


 窓際に行って、よはんさんの隣の椅子に座った。


「何読んでるの?」


 よはんさんが本の表紙を見せてくれた。英語だった。あたしには読めない。


「哲学の本です。矛盾についての」


「矛盾」


「ええ。『真である矛盾は存在するか』という問題があるんです。普通は、矛盾は間違いだと考える。でも矛盾は実在する、と主張する人もいる」


「……難しそう」


「いえ。六花さんにはたぶん、直感的にわかることだと思います」


 よはんさんはそう言って、微笑んだ。あたしに向けた微笑みだった。まどかに向けるのとは違う種類の。まどかに向けるときは観察している感じがする。あたしに向けるときはもっとやわらかい。


 窓からの光がよはんさんの横顔に落ちていた。頬骨の線が細い。角張ってもいないし丸くもない。睫毛が長くて、目の縁に影を落としている。きれいだった。男の子のきれいさとも女の子のきれいさとも違う。分類できない。分類しなくていい、と思った。


「あたしに?」


「六花さんは、十六夜さんのことが、好きですか?」


 唐突だった。


「え。……好き、だと思う」


「嫌いですか?」


「嫌いっていうか、うざいっていうか。いや、嫌いじゃない。でもうざいときはうざい」


「好きで、かつ、うざい」


「……そう」


「それは矛盾ですね」


 よはんさんは穏やかに言った。


「でも六花さんは、その矛盾を抱えたまま、ここにいる。壊れていない」


 あたしは黙った。


 よはんさんの言うことはわかるような、わからないような。でも、さっきまどかに「すごい」と言われたときよりも、ずっと何か近いものに触れられた気がした。


 まどかはあたしの矛盾を「すごい」と言った。よはんさんは「矛盾ですね」と言った。同じことを指しているのに、全然違う。まどかの言葉はあたしを遠くに置く。よはんさんの言葉はあたしの隣に来る。


 よはんさんの制服はいつもきっちりしている。ボタンが全部留まっていて、襟が正確に折られていて、スカートの、いや、ズボンの、よはんさんは制服をどう着ているのか、あたしはいつもよくわからなくなる。男子の制服のはずなのに、そう見えない瞬間がある。女子の制服にも見えない。ただ、正確に着ている。一ミリのずれもなく。よはんさんの一人称が「僕」なのに、声がどちらとも言えない高さで、それが不思議なのか自然なのか、あたしにはわからなかった。


 息をするみたいに正確に。逆にいうと、息をするのにも力がいるみたいに、正確に。


「よはんさんは?」


「僕は?」


「よはんさんは、矛盾してる?」


 よはんさんの手が、一瞬だけ右手が制服の左袖をきゅっと握った。すぐ離した。あたしが見ていたことに気づいたのかもしれない。同時に、窓ガラスが微かに共鳴する音がした。誰かの声か、外の音か、判別できない共鳴。


「……さあ。どうでしょう」


 笑った。いつもの笑顔。でも今の一瞬だけ、何かが揺れた。



 放課後の遅い時間。


 まどかが「ちょっと外出る」と言った。LOGICAで街のB値を調べたいらしい。あたしもついていった。つむぎくんも。よはんさんも。名取はPC部の合宿で来なかった。


 まどかはスマホをかざしながら商店街を歩いた。あたしは今朝と同じように、半歩前を歩いた。


 視界の端で、古い煎餅屋の隣あたりに、建物の輪郭が二つに見えた。同じ形をした灰色の壁が、ほんの少しだけずれて重なっている。立体的に。空間が二重になっているみたいに。一瞬だけ、そこにあるはずのない壁が見えた。石でできた、古い、灰色の壁。目をこすったら消えた。


 まどかに言おうかと思った。でもまどかはスマホの画面を睨んでいて、あたしの方を見ていなかった。言わなかった。いつもそうだ。あたしが見るものは、まどかの優先順位に入らない。


 商店街の真ん中あたりで、まどかが立ち止まった。


「ここ、B値が集まってる」


 スマホの画面を見せてもらった。赤いB表示がいくつも重なっている場所があった。ちょうどベンチがある辺り。その赤い点たちが、何か立体的に層をなしているように見えた。


「他と全然密度が違う。何かがここに集中してる」


 まどかの声が途切れた。


 あたしは何も聞こえなかった。でもまどかの顔が変わった。何かを聞いているような顔。耳を澄ましているような。


「……聞こえる」


「何が?」


「何か脈みたいな。ドク、って。不規則な」


 あたしには聞こえない。つむぎくんも首を傾げている。


 よはんさんだけが、黙ってまどかを見ていた。首を傾げてもいない。驚いてもいない。知っているみたいな顔だった。


 まどかがよはんさんを見た。


「よはん、聞こえる?」


「……ええ」


「何これ」


「反復です。何かが繰り返している。矛盾が集中している場所では、その反復が乱れる。あなたが聞いているのは、乱れた反復です」


 まどかがしばらく黙った。


「宇宙の、心臓みたいなもの?」


「心臓は正確すぎます。これはもっと脆いものです」


 でも。


 今日は、少しだけ違うことを思った。あたしには宇宙の心臓が聞こえない。でも、自分の体が矛盾していることは知っている。食べたのにお腹が空くことを知っている。好きなのにうざいと思うことを知っている。


 あたしの矛盾は、宇宙の矛盾と、何か関係があるんだろうか。


 たぶん、ある。まどかならそう言うだろう。「面白い」って顔で。


 だけど。


 それが楽しいのか、つらいのか、あたしにはまだ、わからなかった。



 帰り道。商店街を四人で歩いた。まどかが先頭で、つむぎくんが隣で、よはんさんが少し後ろ。あたしだけもっと遅れていた。


 路地に猫がいた。茶トラ。丸くて太い。あたしは立ち止まった。


 猫の背中を撫でた。温かかった。指先に体温が伝わった。


 後ろから声がした。でかい声。


「あ、チャーちゃんだ!」


 うちのクラスの遠野さんだった。走ってくる。日焼けした腕。ポニーテール。しゃがんで猫を撫でる。あたしに一瞬目を向けて、にっと笑って、猫に戻った。


 前の方で、まどかとつむぎくんが角を曲がろうとしていた。あたしは猫から手を離して小走りで追いついた。


 つむぎくんは駅の方向が違うので途中で別れた。よはんさんも、いつものように「お先に失礼します」と丁寧に言って、違う方向に歩いていった。


 よはんさんがどこに住んでいるか、あたしは知らない。聞いたことがあるような気もするし、ないような気もする。


 まどかは歩きながらスマホを見ていた。


「ねえ、まどか」


「ん?」


 まどかがスマホから一瞬だけ顔を上げた。一瞬だけ。


「今日のまどかの言い方、ちょっと——」


 言いかけて、止めた。


 何が嫌だったのか、言葉にできなかった。あたしの矛盾がすごいのであって、あたし自身がすごいのではない、そこまでは、わかる。でもそれをどう言えばいいかがわからない。


「ん? 何?」


 目はもうスマホに戻っている。


「ううん。なんでもない」


 飲み込んだ。


 夕暮れの空が赤かった。空気が湿っていて、肌に張りつくような暑さだった。六月の終わりはもうすぐだ。蝉はまだ鳴いていない。


 すれ違う人たちの足取りが、なんとなくゆっくりに見えた。みんな少しだけ疲れた顔をしている。六月の湿気のせいだと思った。



 その夜、体の輪郭がぼんやりしたまま、なかなか眠れなかった。


 次の日の放課後、部室に行くと、まどかがよはんさんにスマホを向けていた。LOGICAの画面。


 つむぎくんが黙って立っていた。腕を組んでいる。表情が固い。


「よはん、動かないで」


「ええ」


 よはんさんは椅子に座ったまま、微動だにしなかった。制服はいつも通り正確に着ている。襟。ボタン。袖。一ミリのずれもない。


 まどかがスマホの画面を見つめている。長い。三十秒くらい何も言わない。


 つむぎくんの鉛筆が止まっていた。


 よはんさんだけが、いつも通りだった。本を膝に置いたまま。袖を握ってもいない。まるで、この瞬間を知っていたみたいに。


 それから、まどかが顔を上げた。


 あたしはまどかのそういう顔を見たことがなかった。興奮でも驚きでもない。もっと静かで、もっと深い。怖がっている、に近いかもしれない。まどかが何かを怖がるのを、あたしは見たことがない。


「……よはん」


「はい」


「あんた、全身B値じゃん」


 部室が静かになった。


 よはんさんの手が、右手が左の袖をきゅっと握った。今度は離さなかった。


「ええ」


 よはんさんは静かに言った。


「知っていました」



---



まどかのノート #2


【矛盾許容論理】

 矛盾許容論理パラコンシステント・ロジック。矛盾があっても全体は壊れない。矛盾を「含んだまま」推論を続けられる論理体系。


【双面真理主義】

 「真である矛盾は存在する」という哲学的立場。グレアム・プリーストが提唱。ある命題が真であり、かつ偽であることが、本当にありえる。


【LOGICA v1.0】

 空間走査モジュール実装。v0.1は静止画解析だけだったが、カメラを移動させながらリアルタイムでB値マッピングできるようにした。商店街を歩きながらスキャンしたら、煎餅屋の壁の付近にB値集中域を検出。半径二メートル。別の場所の建物が透けて見える領域と一致する。


 りっかをスキャンした。全身がB値。普通は気持ち悪くなるはずなのに、普通にしている。矛盾耐性。これは体質なのか、それとも——。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ