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第三幕・再びオフィス 十七 花の色

「それじゃあ、そろそろ、挨拶回ろうか」

 大野が佐由利に声をかけた。二年以上いた者は上司に連れられて各部署に退職の挨拶に行く。この会社の恒例行事だ。

 連れだって歩きながら、人目がなくなったタイミングで大野は小さく佐由利に言った。

「みっともない真似はしないけどさ、……ホントに俺、キミが嫁さんだったらなって思ってたんだよ。この歳になったら、ガキみたいな恋なんてなかなかできないってだけで」

 そのままエレベーターに乗り、二人きりの空間が維持されたので、佐由利は十分な返事ができた。

「だとしたら、多分私は大野課長にとってはまだ若いんだと思います。まだ、『ガキみたいな恋』を求めてるから。……でも大野さん、すぐそばにもっと可愛い女性……いるんですよ。見つけてあげてください。お似合いだと思います」

 大野が何か言おうとした瞬間にエレベーターは目的の階に到着した。ドアが開いたら、大野はもうただの上司だった。

 社員旅行でちょっとした噂が流れてしまったこともあって、大野と佐由利が二人で社内を回るのは若干気まずいところだったが、この時に大野が上司然として、佐由利が大野を上司として敬う態度をしていたことは、結果的に鎮火の役割を果たしてくれた。最初こそ好奇の目が向けられたが、二人が堂々としていたので、次第にそんな気配は消えていった。

 挨拶回りは総務が最後になる。IT統括部は総務と同じ階にあるから、最後から二番目だった。いよいよ磯原の部署。大野が扉を開け、佐由利は緊迫の息をのんだ。

 磯原は出社していた。「仕事しかしない」無表情で立ち上がり、他の人と一緒に大野と佐由利に一礼して、失礼でないタイミングでさっと座った。それだけだった。

 仕事中はそういう人だとわかっていても、佐由利は不安だった。二人で過ごして楽しかった磯原の片鱗もない。もう仕事以外で会っても佐由利にはあの表情しか向けてくれないのかもしれない。それでも、もう想いは止められない。

 総務で手続きをして説明を受けて、定時の三十分前に佐由利は自分の席に戻った。それから急いで磯原にメールを打った。

『磯原さん お詫びしたいことと、お話ししたいことがあります。白い壁に赤いドアの、磯原さんの「肉の日」のお店でこの後お待ちしてます。遅くなってもかまいません。私のPCはこのあと不要データを全部消して外してしまうので返信が見られません。お店でずっと待ってます。 仲本佐由利』

 このメールを送信したら運命は転がりはじめる。佐由利は意を決して送信を押した。そして全メールを消去して、佐由利のパソコンは三年分の記憶を失った。

「仲本さん」

 思いがけない声に顔を上げた。慌てて、佐由利は立ち上がった。

 磯原がすぐそばに立っていた。

「あ、……もうパソコンの回収ですか?」

 激しく打つ鼓動を隠して佐由利は聞いた。たった今送信したメールを、磯原はまだ見ていない。見たらどういう反応をするだろう。この後、店には来てくれるんだろうか。

 磯原は表情を変えずに、ただ淡々と言った。

「いや、パソコンの片づけは週明けにやります。届け物に来ただけです。以前依頼されたものとは違ってますが、手元にあったのはこれだけなので、不要だとは思いましたがお届けしました。むしろご迷惑かとも思いますが、その場合は破棄してください」

「あ、――はい」

 佐由利は戸惑った。「以前依頼されたもの」に心当たりがない。磯原が封筒を手渡してきた。受け取る瞬間、周囲を憚るような声が届いた。

「ここでは開けないでください」

 ドッキリして、佐由利は身動きができなくなってしまった。磯原はパソコンを直しに来た時のようにさっさといなくなった。いつまでも立っていたらおかしいから、佐由利はとりあえず座って、それからわざと若干ぞんざいに、カバンのそばに封筒を置いた。指が封筒の表面を滑った時、硬いリングのような起伏を感知した。

(スケッチブック……)

 プラリオ・ハイビスカスを描いてくれたのだろうか。きっとそうだと佐由利は思った。磯原は餞別のつもりなのかもしれない。それでも、どうしても……スケッチブックを思い出に受け取って、それだけで終わりになんてできない。

「仲本さん!」

 終業間際、今度は山辺が姿を見せた。佐由利は立ち上がり、自分から歩み寄った。結果として、佐由利にとっては山辺が最大の救世主だった。

 山辺は手にした紙袋から花束を出した。

「思いっきりフラれちゃったけど、いい女に敬意を表して」

 佐由利は困った笑いを浮かべた。こんな場面は部署の仲間にも、大野に対しても少々気まずい。だが遠慮なく花束は受け取った。

「山辺さん、ありがとうございました。山辺さんとお話ができてなかったら、私、いろんなことモヤモヤしてここを去ってました」

 温かいような、でもどこかちょっと居心地悪いような、恋の駆け引きをした者同士の独特の気配が佐由利と山辺の間に流れた。そこに大野が飛び入りした。

「山辺くん、キミもフラれたの? 実は俺もなんだよ!」

 あまりに堂々と言うので佐由利は慌てたが、それで部署の中でも気負いが消えた。冗談にして、笑ってもいいんだという空気が広がった。

「大野課長、オッサンはお呼びじゃないそうですよ!」

「山辺さんも、手当たり次第にチョッカイかけるからダメなんですよ!」

 からかう声が飛び、「オッサンとはなんだ」「俺だって、手当たり次第じゃない!」と二人が反論して言葉の応酬になった。佐由利が渦中で花を抱えて困惑していると、美紀が場を収めてくれた。

「ちょっと、仲本さんが帰れないでしょ! 定時の鐘が鳴ってるの、聞こえないの?」

 そういえばこんな場面が何度もあったな、と佐由利は思った。それまでは、どこか棘があって、裏ではもっとギスギスしていたけれど、今日はとても温かい。

「三條さん、最後まですみません。気をつかわせちゃいました」

 佐由利が照れたように礼を言うと、美紀はわざと腕を組んでしかめっつらをしてみせた。

「私、仲本さんに『綺麗にして来い』って言ったの、絶対失敗だった。まさか、社内のめぼしい男、みんなかっさらっていっちゃうなんて思わなかった」

 一同が美紀の大仰な言い方に笑った。佐由利はその中で、大野が「おや?」と少しだけ反応したことを見逃さなかった。美紀が今「社内のめぼしい男」と言ったのは、元よりご執心の山辺と……あとは大野のことだ。

 佐由利は大野にちらっと視線を送り、目が合った瞬間に目をそらして思わせぶりに笑った。そして荷物を手に、マーケティング部に深々とお辞儀をして、挨拶をして、三年間過ごした職場を後にした。


 白い壁に、錆びたような赤いドア。ランチタイムとは違って、外壁にメニューの看板はなかった。磯原を待つために店のドアを開けた。店内はすいていた。磯原と以前来た時の席が空いていたので、そこに座ってもいいかと店員に聞いた。腰を落ち着けると、壁にかかっていた夜のメニューの中から野菜のマリネとワインを頼んだ。そしてやっと、磯原からの封筒を開けた。中身はやっぱりスケッチブックだった。

 三十分後、思ったよりもずっと早く、磯原が姿を見せた。佐由利は静かに視線を送り、磯原が自分を見つけて歩いてくるのを見ていた。磯原は仕事の時以上に仏頂面だった。佐由利は黙ってそのまま磯原が座るのを待った。

 磯原の視線がワインを捉え、次に佐由利を向いた。佐由利も視線を返した。

「……僕はちょっと、ちゃんとメシ食っていいですか。仲本さんは、それ以上飲まないでください。話ができなくなる」

 抑揚もなく感情もこめずに磯原が言った。

「飲んだって話はできます」

「冷静な話はできなくなる。僕は飲みません」

 奇妙な空間ができあがった。互いに探り合うでもなく、意地を張り合ったような、どこか頑なな空間。

「あの――これ」

 佐由利はスケッチブックの入った封筒をわずかにカバンから抜き出して見せた。磯原はまた、仕事の時のような仏頂面で言った。

「話は後にしましょう。僕はこの店を今後も使います。お店の人だって、聞いてないふりしたって聞こえるものは聞こえる。僕は余計なことを言われるのも思われるのも面倒です」

 なんだかなあ、と佐由利は思った。話をしないのなら、この場はどう過ごしたらいいのだろう。

「仲本さんも、腹の足しになるものを食べておいたらどうですか。腹が減ったら戦はできませんよ」

 磯原の伏せた目の奥を覗いた気がして佐由利は可笑しくなった。この後、磯原としては、どうやら戦になる予定らしい。

「戦の準備をするつもりはありません」

「じゃあ、すきっ腹にワインは酔います。酔わないでください」

「……わかりました」

 佐由利も食事になるものを注文した。その後しばらく会話は途絶えた。でも、もう会話をせずに二人でいることにも慣れていたし、まだまだ時間はたくさんあった。

 静かに食事をしながら、佐由利はぽつりと言った。

「先に、誤解を謝っておいていいですか。……私、今日まで知らなかったんです。旅行でご一緒した日、夕方、磯原さんが私を呼んでくれたこと」

 磯原の手が止まった。佐由利は繰り返した。

「……知らなかったんです。今日まで」

 しばらく、磯原はカレーをかき回すだけで口に運ばなかった。佐由利はその様子を少し見ていたが、まずは心からの謝罪をしたかった。

「あの日、磯原さんと一緒だったってこと、駒形さんに言ってなかったんです。だから彼女、磯原さんが突然私を部屋に呼びつけたと勘違いしちゃって……。気分が悪くてつらいところ、放っておいてすみません。不愉快な思いをさせてすみません。『呼んでください』って言ったこと、嘘になっちゃってすみません。今日まで、それを謝るのが遅れてしまったことも……。私自身も、すごく、残念です」

 磯原はしばらく黙っていた。それから、おもむろに口を開いた。

「……でも客観的に、やっぱり、仲本さんを来させることにならなくてよかった。いろんな意味で」

「一人で、大丈夫だったんですか?」

「地獄を見ました。思わず呼んじゃいましたが、吐いたものの面倒みさせるとこでした。日中、意地で耐え抜いたのに、最後それじゃ意味ないだろって。渦中はまるで冷静じゃなかった。結果的にあなたが来なかったのは、よかった」

「私は力になりたかったです」

「でもやっぱりね、男の部屋には行ったらダメです。まあ当日の僕に何ができるはずもないけど。駒形さんに、デリヘルじゃないんだからって言われました。的確な批判です」

 磯原は無表情で話していたが、佐由利の脈拍はかなり速くなった。

『当日の僕に何ができるはずもないけど』『デリヘルじゃないんだから』……性的な出来事を意識させる言葉。佐由利は決して初心うぶではない。それでもよかったのにと、一瞬思ってしまってから慌てて打ち消した。それでも脈の速さは体に残った。

「……やっぱり話は後にしましょう。これじゃ、会社の女性相手にデリヘルの話をしてる変な男に見える」

「けっこう、人目、気にするんですね」

「すごく気にするんです。だから目立たないようにしてるんです。気にしないでいられるんなら、好きなようにやってればいいんですけど」

 そこからは黙って食事を済ませた。支払いについての問答を経て、磯原がやや多めの割り勘にした。

「毎回この問答になるのは面倒ですよね。法律でルール化するとか、してくれたらいいのに。今のお店は仲本さんが決めたから割りましたが、次のお店は僕が決めて僕が払います」

 そう言うからには次の店に行くのかと思ったら、磯原は会社から少し離れた公園に佐由利を連れていった。五月の夜はかすかな風が肌に心地よかった。

 磯原はベンチを軽く手で払い、綺麗なことを確かめてから佐由利を促した。

「ここ、たいがい昼間には誰かが座ってるので、汚れてることはまずないですよ。でも気になったら、何か敷きますか」

「いえ、いいです。……磯原さん、気をつかいすぎです」

「気をつかってる自覚はないですよ。もう身についたから」

「じゃあ、せめて私といる時は……」

 磯原は遮るように何かを言いかけて結局はやめて、ベンチに座った。佐由利は、迷惑がられなそうなくらいちょっとだけそばに座った。

「僕も話したいことはありますが、まとまりません。あなたに話があって僕が呼ばれたんだから、あなたの話からどうぞ」

 オフィス街の夜の小さな公園は静かだった。佐由利はこの物音のない空間で、いきなり恋心を告げる勇気が出なかった。

「あの……スケッチブック……ありがとうございました」

 佐由利はおずおずと言った。磯原は小さく自虐的なため息を吐いた。

「中のメモにも書いておいたでしょう、気持ち悪かったら捨てるようにって」

「気持ち悪くなんかないです。でも、なんで? って……聞きたくて。不自然だから。すごく。なんで描いたのか、聞きたいんです」

 たぶん、と佐由利は心の中で繰り返していた。そう、たぶん、それしか答えはないのだろう。だから耳をそばだてた。

「一足飛びの話になりますよ」

「いいですよ」

「せっかくだから、もっと長く話していたいけど」

「この後、まだ時間はあります」

「五分後、この公園に、僕だけが残されているかもしれない」

「次のお店は自分で、って言ったじゃないですか。連れていってくれないんですか?」

「あなたには断る権利がありますからね」

 佐由利は潮が満ちてくるのを感じていた。その瞬間を待つために目を閉じた。

「……プラリオ・ハイビスカスはオレンジに蛍光ピンクを配合した色です。あなたは、僕と過ごしたあの一日、ピンクの混じったオレンジのワンピースを着ていた。あのスケッチブックは、僕があの日、見ていたあなたの色です」

 佐由利はスケッチブックの入ったカバンを指先でそっと抱きしめた。そこに磯原の気持ちがある。

「あなたは僕を品定めしなかった。待ち合わせに遅れても、体調の調整に失敗しても、船に酔ってベンチにひっくり返っても、勝手に歩いて帰ると言いだしても、最後まで一緒にいたいと言ってくれた。僕があの日にあなたを見ていて感じた、胸の中にまで入ってくるような印象的な輝きを描こうと思ったら、買ったばかりのプラリオ・ハイビスカスの絵の具を使うしかなかった。全部、絵の具を使いきってしまうまで、ずっとあなたを描いていた。だから、その後でハイビスカスを描いてほしいと言われても、どうしようもなかったんです。使いきってしまっていたから。あの時間からじゃ一緒に買いに行くことも不可能だし、帰国してから通販で買ったんじゃ意味がない。あなたが欲しがったのはあの日、一緒に買ったあのチューブから描いた花ですよね。……まさか、絵の具を使いきるほど執拗にあなたの絵を描いていたなんて言えなくて。普通に考えれば気持ち悪いことだから」

「だったらどうして、今、話してくれてるんですか」

「勝手なことを言います。……あなたの気持ちが確信できたから。僕だってバカじゃありません。一生懸命向かって来てくれてるのはずっと感じてました。でも、本当にそうなのか、あなたの感情がちゃんと美しい、いいものなのか、いろんなことを計りかねてました。でも、社員旅行であなたと一日いて、信じる気になれました。……今日までかかったのは、誤解があったから」

「誤解?」

「……僕がなんで気分が悪くなるほど飲んで待ち合わせに現れたか、考えてみたことはありませんでしたか。普通、相手が誰であれ、女性と二人でどこかへ行くときに、そんなことになる奴はいませんよ。でも……あの前日に、プールで最後、大野さんと三人になりましたよね。そして僕と大野さんがエレベーターを降りた。僕は往々にしてそういうことを経験するんですが……多分、僕が口外することはないと思ったんでしょう、大野さんは部屋に向かって歩きながら、意味もなく僕に宣言しました。『仲本さん、可愛いよな。もうすぐ退職しちゃうし、この旅行でなんとかするぞ』って。実際は……もうちょっと品のない言い方をしてましたが、男の会話なんてそんなもんだから。でも僕にはちょっとしんどかったです。とにかく大野さんがあなたを……って思ったら全然寝られなくて。明日二人でいる時に眠そうにしたり、あくびをしたりしたらいけないと思うと、眠れずに夜が更けていくことにどんどん焦ってきて。それで、酒の力を借りようとして失敗しました。

 僕自身、僕の感情がどこまでのものなのかを計りかねていましたが、そのときに観念しました。だったら大野さんより先に、あなたと一日過ごした夕方には僕の気持ちを伝えられたら……なんてことも考えたんですが、あれだけ迷惑をかけておいて告白なんてできるわけがない。それでも、部屋に戻って七転八倒していたら、どうしてもあなたに来てほしくて……そしたら、呼んでも、あなたは来なかった。あなたの気持ちが僕に向いているように思ったのは、勘違いだったのかなと思いました。あなたは来てくれるはずだと思ってたから。

 翌日ずっとあなたの絵を描いて……もしも夜、プールに来るようなら、会いに行こうと思ってました。でも僕が見つけたのは、ずっと、何時間も大野さんと過ごすあなたの姿だった。……普通は、親しくない男とあんなに長く、二人っきりでプールにいないでしょう。あなたは大野さんといたいんだなと、ならば、大野さんがうまくいったのかなと思って……あるいは駒形さんが代わりに来たのも、仲本さんの答えだったのかもしれないって……」

「待ってください、最終日のプール……私、大野さんとずっといたんじゃなくて、磯原さんが来るのを待ってたから戻るに戻れなかっただけです。私、エレベーターホールをずっと気にしてました。磯原さん、来てないですよね?」

「二人部屋は正面に海が見えて夕景もよく見える南西向きですが、一人部屋は真南向きです。南向きの部屋のバルコニーからはプールの全景が見えるんです。多分大野さんもバルコニーから見ていて、プールにあなたを見つけて下りていったんでしょう。僕はワンテンポ、のろいんです。逆に大野さんは仕事の面でもやり手だし、行動も早い。……あの日は旅行の最後の夜です。あなたと大野さんがずっと一緒にいるのを見て、僕は部屋を出て深夜までふらふらして時間をつぶしていました。大野さんの部屋は僕の部屋の隣です。大野さんの立てた物音が聞こえることもあった。もしも、廊下を二人で通る声がしたら、大野さんの部屋からあなたの気配がしたら……そう思ったら、そこからはもう、あなたと関わるのが怖かった。何も知らずにいたかったから、極力あなたに近づかないようにして……そうしたら案の定、帰国したら社内にあなたと大野さんの噂が広まった。その夜は、まだ旅行の疲れが残っているのに、また眠れなくて……今度は酒は飲まなかったんですが、熱を出しました」

 佐由利ははっとして、追及するような口調で言った。

「磯原さん、その時、なんで三條さんに連絡したんですか。三條さん、変な風に言って、うちの部署に誤解させちゃったままなんですけど……」

「え? 何があったんですか?」

「磯原さんが今日休みだよっていう話になった時、三條さん、妙にアピールする口調で『彼、風邪で、今、熱出して寝てますよ』って言ったんです。……磯原さんのプライベート、それも朝の様子なんか、なんで知ってるんだろうって。ああ、朝まで一緒だったってことを自慢したいのねって……ああ、磯原さん、そういうことになったんだって……」

「それは逆です。僕が三條さんに連絡したのはあれが初めてで……仲本さんがもし、僕がいないのを知らずに最後に何かの連絡をしてきていたらって思ったら、どうしてもマーケティング部に『今日は休む、明日も不明』って伝えたくて。僕が休みの時は宇川さんが告知を出してくれますが、時々彼、忘れるんです。告知しておけと念を押しても、忘れる時は忘れます。仲本さんに伝えてくれと三條さんに言うわけにはいかないから……僕が風邪で熱出して寝てる、会社を休むってことを周囲に言っておいてくれとメールを入れました。あれはあなたへの伝言です。マーケで連絡先を知ってるのが、三條さんしかいなかっただけ」

 山辺の推測は正解だった。磯原は、美紀を通じて誰かに個人的な伝言を頼んだだけ。その「伝言」の相手が自分だなんて考えてもみなかった。佐由利はその事実にこめられた磯原の気持ちをじっと噛みしめていた。

「……お昼、イタリアンに連れていってくれた時、お店は三條さんに教わったって言ってたから……三條さんと磯原さん、親しいんだなって思ってました……」

「教わったって……一緒に行ったわけじゃないですよ。前、一度何人かで野球に行った時、会社周辺のお店詳しいって言ってたから、翌日お手製のグルメガイドをコピーしてもらいました。実際行ってみて、いいお店が揃ってたから、そのうちの一番気に入った店にあなたと行きました」

「グルメガイド……」

「紙ですよ、ただの。僕が女性とランチに行く時点で、ホントは普通じゃないんです」

 磯原が脚を投げ出した。佐由利は行儀よく揃えた足を、揃えたまま少し前にずらした。

「最初から、……ラジコンのことでメールをした時から、あなたに興味がありました」

 佐由利は驚いて磯原を見上げた。

「親睦会で声をかけてくれた時、あなたが急に綺麗になったのを見て、あれっ、こんな人だったかな……と驚きました。そして、急に綺麗になったんじゃなくて、元々そうだったはずだと思った。じゃあ、それまではなぜ隠れていたんだろうって。つまり、会社では仕事しかしたくない、そのために面倒を排除したいっていう、僕と同じ考えの人なのかな……って」

 佐由利は口を尖らせ、少し憤りをこめて吐き出した。

「私も、会社では仕事しかしたくありません。なのに一部の女子たちは面倒なんです。男性の興味の対象外になって、やっと平和が訪れるっていうか……。野球を好きで男性と話してれば取り入ったなんて言う。趣味が合って盛り上がってればオトしたって言う。性別を超えて親しくなったら、色目を使ったとか、媚びを売ったとか……」

「あの子の方が良くしてもらったとか、あの子の方が綺麗だ、モテるって対抗したりね。もしも僕があなたに一切興味がなくて、ラジコンにだけ興味があったら、こっそりメールなんか出さずにあの場で普通にラジコンの話をしたかもしれません。そうすると女性陣としては、自分に見向きもしない磯原が、仲本さんにだけはシッポを振るのか、っていう話になりがちですね」

 磯原が続けたので佐由利は笑ってしまった。涼子は磯原を女性に疎いと思っていたようだが、とっくに酸いも甘いも噛み分けて、達観しているということだ。

「……でも、私も同じです。三條さんに女子力の低さをバカにされて、本気出したら知らないぞって、そういう対抗意識があって綺麗にしようとした分もあります。だけどホントは、もう退職しちゃうから……磯原さんに、私のこと、気づいてほしくて……少しでも綺麗だと思われたくて……」

 もじもじ、ごにょごにょと佐由利が言っていると、磯原が急に居住まいを正した。

「――そうだ、最初の話が飛んでます」

 真剣な口調で磯原が言った。

「あなたの話は何だったんですか。僕がスケッチブックを渡したのと、あなたのメールは入れ違いでした。あなたがメールで伝えてきた『お詫び』は聞きました。この公園に来て、あなたの『話したいこと』のほうは何かって聞いた時、あなたはスケッチブックの話から入りましたよね。つまり、メールに書いてた『話したいこと』は聞いていません」

 佐由利は一旦磯原から目をそらし、下を向いて満面の笑みを浮かべた。こんなにうれしい気持ちで言えるなんて思わなかった。

「私、磯原さんが好きです」

 迷いなく言った。

「磯原さんの気持ちがどうであっても、私はあなたが好きですって……それを言いたくてメールを入れました」

 磯原はしばらく黙って、脚の上で組んだ手を少し組み直すと、前を向いたまま言った。

「……やっと言ってもらえました。僕、ここに来て、僕がいかにあなたのことを好きかってことをずうっと説明させられていて……不公平でしょって思って待ってました。話があるって言ってくれたのは、きっとそういう話だろうって」

「ずっと、私の気持ちなんて、バレてたってことですか?」

「……わりと。いや、実際は、いろいろ迷うところはありましたが」

 もう少しの沈黙を幸福に味わってから、磯原は立ち上がった。

「もう一軒、一緒に行ってくれますか。……そして、これからも会ってくれますか」

 夢みたいだ、と思って佐由利はじっと磯原を見ていた。磯原は佐由利の前に回ってきて、手を差し伸べた。

「……恥ずかしいし、不安になるから、返事をしてください。わかっていても不安なものなんですよ、こういうの」

 佐由利は慌てて、立ち上がりながら磯原の手を取った。

「わかってるなんて、図々しい言い方するんですね。でも、もちろんです。一緒にいたいです。磯原さんと、ずっと」

 磯原は笑顔になり、佐由利の手をギュッと握った。佐由利もそっと握り返した。


 深夜に帰宅した佐由利は、磯原のスケッチブックをずっと眺めていた。

 髪をアップにして、腕を出して、輝くようなピンクがかったオレンジ色のワンピースを着ている女性が水彩で描かれている。顔は描かれていないのに、表情が見えるようだ。

 バス停に立ってこちらを向いている姿。

 港に急ぎ足で向かう後ろ姿。

 船の中の説明書きを、読めもしないのに一生懸命覗き込む姿。

 次に描かれていたのは、両手に水を持って、揺れる船に体を取られながら歩いてくる姿。スカートの上にはショールが巻きつけられている。足取りの不安定さが上手く描かれていた。けなげで、せつないほどに可愛いと思った。必死になってくれる気持ちがこの足取りに現れている。

(……これは、あざといわ。私って、こういうのを女性たちから言われるんだな)

 社内一の仏頂面男も、そりゃあ落ちるだろう。自分のことながら佐由利は苦笑した。

 途中で休憩したカフェで、ひじをついて見上げている様子もやっぱり「あざとい」。

 もう一軒、売店でコーヒーを飲んだ時の、磯原の分を一緒に買っている後ろ姿も実にけなげだ。

 ハイビスカスの絵は一枚だけあった。これだけ、磯原の姿も描き込まれていた。丘の上にのびるハイビスカスの道を、見上げる二人の後ろ姿。佐由利はこれを、どんな記念写真よりも素敵だと思った。

 パラソルをさして砂浜に座る後ろ姿。実際に磯原から見えたはずの光景よりも遠くからの構図に捉えてある。

 最後の二枚は――うつむいた横顔を隠すように立つ姿と、ギュッと両手を握って、立ち尽くしている姿。これは何だろう、と佐由利は考えた。そして、あまり時間をおかずに答えを見つけた。

『……早く、一人になりたいですよね』

 あの日、磯原に向けてそうつぶやいた瞬間と、その後だ。佐由利はつい、声に出して笑ってしまった。

 これでは好きですと言っているも同然だ。水彩画のにじんだアウトラインですら、もっと一緒にいたい気持ちがあふれていて、あまりにも雄弁すぎる。磯原が「じゃあ、もう少しだけ一緒にいましょう」と答えるわけだ。

 自分の姿を磯原の目を通して客観的に見て、佐由利はちょっとだけ自分を省みた。女の敵は女――自分は女性たちの不当な嫉妬の被害者でしかないつもりでいた。でも、この姿の雄弁さはあざとい。アピールがすぎる。当人に自覚がない分、たちが悪い。

 それでも、と佐由利は思った。

 女性同士でバトルしてもしょうがない。勝負する相手は好きな人本人でなくては。

 佐由利は携帯電話を手にして、交換したばかりの磯原の連絡先を画面に読み出して確かめた。これから新しい恋が始まる。できれば最後の恋にしたい。

 磯原のスケッチブックを開いて飾り、しばらく眺めてから、佐由利はクローゼットの中をまた模様替えした。次の職場で毎日着る地味でつまらない服を手前にたくさん揃え、月に何度かしか使わないだろうお洒落で華やかな衣類を奥に。次の職場では最後まで、隠れ蓑に身をひそめることになるだろう。

 会社では仕事しかしない。でも、好きな人の前ではとびっきりの自分でいたい。

 幸福に満たされた甘いため息を一つついて、佐由利はクローゼットを閉じた。

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[良い点] 暮伊豆さまから「面倒くさい女を描かせたら天下一」という噂を聞きつけ、やって参りました。 いやあ、一気に読ませていただきました。心理描写がお見事です。微妙なお年頃の女性の、口には出さないけ…
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