第3話 春、少年は村を出る
王立魔術学院からの知らせが届いたのは、雪解けの水が小川を満たしはじめたころだった。
村の外れにあるフォルク家の小さな家にも、春はゆっくりと訪れていた。
庭先では、母のマリナが干していた薬草を籠に移している。
湿った土の匂いに、若い草の青い香りが混じっていた。
冬のあいだ硬く閉じていた森の枝にも、淡い新芽がつきはじめている。
その日、ユリスは家の前で旅靴の手入れをしていた。
何度も履き慣らした革靴の紐を解き、乾いた布で土を払う。
馬車旅とはいえ、乗り換えの町や王都では歩くことも多い。
父に教わった通り、擦り切れた部分に油を薄く塗り込んでいく。
「ユリス」
家の中から、母の声がした。
振り返ると、マリナが一通の封書を手にして立っていた。
白い封蝋には、見慣れない紋章が押されている。
塔を囲む、六つの星。
ユリスは手を止めた。
「それ……」
「王都からよ」
マリナの声は、いつもより少しだけ硬かった。
胸の奥が、静かに跳ねる。
ユリスは布で指先の油を拭い、封書を受け取った。
指先に触れた紙は、村で使うものよりずっと厚く、なめらかだった。
王立魔術学院。
その名を見た瞬間、息が詰まった。
手紙には、ユリス・フォルクの入学を認めること、春の入学式までに王都アルヴェリアへ来ること、そして入学後まもなく新入生全員を対象とした基礎魔術適性測定が行われることが、整った文字で記されていた。
基礎魔術適性測定。
魔力量、属性、術式構築力、制御力。
入学した者たちが、これからどのように魔術を学んでいくべきかを見極めるための測定だという。
合格か不合格かを決めるものではない。
だが、それでもユリスの手は震えた。
測られる。
自分の魔法が。
自分でも正体のわからない、この力が。
「お兄ちゃん?」
背後から声がした。
振り返ると、ニナが戸口から顔を出していた。
まだ少し寝癖の残った髪を揺らし、ユリスの手元を見つめている。
「なに、それ」
「学院からの手紙」
ユリスがそう答えると、ニナは一瞬だけ目を輝かせた。
村から王都の学院へ行くことが、どれほど特別なことなのか、子供のニナにもわかっていたのだろう。
「じゃあ、お兄ちゃん、王都に行くの?」
その言葉に、ユリスはすぐには答えられなかった。
王都。
アルヴェリア。
エルディア大陸のほぼ中央に位置する、王国最大の都市。
東西南北へ伸びる街道が交わるその地には、人も、物も、金も、知識も集まる。
政治の中心であり、商業の中心であり、そして魔術研究の中心でもある。
白き王都。
そう呼ばれる理由は、遠くからでも見える白塔群にあった。
王都を囲むようにそびえる白塔は、都市全体を守る巨大な結界――白塔式都市結界の要である。
幼いころ、村に来た行商人がそう話していた。
そのときのユリスは、ただ遠い場所の話だと思っていた。
自分には関係のない、物語の中の都だと。
けれど今、その王都が、目の前にあった。
紙一枚の向こう側に。
「……行くよ」
ユリスは、小さく答えた。
言葉にした瞬間、胸の奥が重くなった。
ニナの表情が揺れた。
王都に行く。
それは、ユリスがこの家を離れるということでもあった。
「いつ?」
「入学式は、春の三月。王都までは何日もかかるから……もう、あまり時間はないと思う」
「そんなにすぐ?」
ニナの声が細くなった。
ユリスは答えられなかった。
代わりに、手紙を握る指に力が入った。
家の奥で椅子が軋む音がした。
父のガルムが、ゆっくりと立ち上がっていた。
無口で、滅多に表情を変えない父は、ユリスの手紙を一瞥すると、短く言った。
「決めたのか」
ユリスはうなずいた。
「行きます」
ガルムはしばらく黙っていた。
反対されるかもしれない。
そう思った。
お前には危ない。
村に残れ。
そう言われれば、ユリスはきっと少しだけ安心してしまう。
王都に行かなくていい理由を、誰かに与えてほしかったのかもしれない。
けれど、父は何も言わなかった。
ただ、壁にかけていた古い外套を手に取る。
「馬車の手配をしてくる」
「父さん」
「王都まで歩いていく気か」
それだけ言って、ガルムは家を出ていった。
扉が閉まる。
ユリスは、しばらくその場に立ち尽くした。
「……反対、しないんだ」
ぽつりとこぼした言葉に、マリナが微笑んだ。
「止めたい気持ちが、ないわけじゃないと思うわ」
「それ、いいのかな」
「いいのよ。それでも父さんは、あなたが決めたなら送り出す人よ。だから今、あなたが無事に王都へ着けるように動いているの」
マリナはそう言って、ユリスの手から手紙をそっと受け取った。
その目が、一瞬だけ揺れた。
ユリスはそれを見逃さなかった。
母は、あのときも同じ顔をしていた。
ニナが怪我をした日。
ユリスの魔法が、結果だけをねじ曲げてニナを救った日。
マリナは青ざめていた。
あの表情が、ずっと胸に刺さっていた。
母さんは、俺を怖がったのだろうか。
聞きたくて、聞けなかった問いだった。
――その夜、家の中はいつもより静かだった。
マリナはユリスの旅支度を整えていた。
替えの服、丈夫な靴下、針と糸、小さな革袋に詰めた薬草。
ユリスはベッドの横に座り、それを見ていた。
「そんなに持っていけないよ」
「持っていきなさい。王都では、薬草ひとつ買うにもお金がかかるわ」
「学院にも医務室くらいあると思うけど」
「それでも、母さんの薬草の方が効くわ」
少しだけ得意げに言う母に、ユリスは小さく笑った。
マリナも笑った。
けれど、笑みはすぐに消えた。
ユリスは膝の上で手を握る。
今なら、聞ける気がした。
聞かなければ、王都へ行ってもずっと引きずる気がした。
「母さん」
「なに?」
「あの日のことなんだけど」
薬草袋の紐を結んでいたマリナの手が止まった。
ユリスは顔を上げられなかった。
「ニナが怪我をした日。俺の魔法を見て……母さん、怖かった?」
静かな時間が落ちた。
薪のはぜる音だけが、部屋に響いた。
やがて、マリナは小さく息を吐いた。
「怖かったわ」
ユリスの胸が、冷たくなる。
やっぱり。
そう思った。
けれど、次の瞬間、マリナは首を振った。
「でも、怖かったのはあなたじゃない」
ユリスは顔を上げた。
マリナは、まっすぐユリスを見ていた。
「あなたの力を見た人たちが、あなたを放っておかなくなることが怖かったの」
「俺の、力を?」
「ええ」
マリナは薬草袋を置き、ユリスの隣に腰を下ろした。
「母さんは薬草師だから、いろんな人を見てきたわ。怪我をした人も、病に倒れた人も、魔力を使いすぎて体を壊した人も」
ユリスは黙って聞いていた。
「すごい力を持っている人ほど、周りはその人に期待する。最初は感謝するの。けれど、いつの間にかそれが当たり前になる」
マリナの声は穏やかだった。
けれど、その奥に沈んだ痛みがあった。
「助けてくれてありがとうが、どうして助けてくれないのに変わる。できて当然だと言われる。失敗することを許されなくなる」
失敗することを許されない。
その言葉が、ユリスの胸の奥に深く沈んだ。
「あなたの魔法が怖かったんじゃないわ」
マリナは、ユリスの手をそっと包んだ。
「あなたが、自分の力を嫌いになってしまうこと。あなたの力を見た誰かが、あなたを傷つけること。あなたが、優しい子のまま壊れてしまうこと。それが怖かったの」
ユリスの視界が、少しにじんだ。
ずっと聞きたかった言葉だった。
ずっと、聞くのが怖かった言葉だった。
「母さんはね、ユリス」
マリナの手は温かかった。
「あなたを怖がったことなんて、一度もないわ」
ユリスは、うなずいた。
声を出すと、泣いてしまいそうだった。
マリナは小さな布包みを取り出した。
白い布で丁寧に包まれた、小さな薬草守りだった。
「これも持っていきなさい」
「薬?」
「薬というより、お守りね」
マリナは布包みをユリスの手に乗せた。
「苦しくなったときは、この香りを嗅ぎなさい。爽やかな香りが、少しだけ息をしやすくしてくれるから」
ユリスは布包みをそっと鼻に近づけた。
薄荷に似た、清涼な香りがした。
胸の奥まで抜けるような、爽やかな香りだった。
冷たすぎず、強すぎず、春の朝の風のように静かに息を通してくれる。
「……ありがとう」
「無理をしないこと」
「うん」
「ひとりで抱え込まないこと」
「……うん」
「それから」
マリナは少しだけ困ったように笑った。
「帰ってくること」
ユリスは布包みを握りしめた。
「帰ってくるよ」
その言葉だけは、迷わずに言えた。
――出発の朝は、よく晴れていた。
春の光が、村の屋根を淡く照らしている。
家の前には、王都へ向かう乗合馬車が止まっていた。
村から王都まで直接行くわけではない。
途中の街で何度か乗り換えながら、街道を進むことになる。
着替えを詰めた鞄。
母の薬草袋。
父が直してくれた古い外套。
そして、マリナからもらった薬草守り。
ユリスが荷物を背負うと、ニナが無言で近づいてきた。
昨日から、ずっと元気がなかった。
「ニナ」
声をかけると、ニナは唇をきゅっと結んだ。
そして、両手で何かを差し出した。
小さなお守りだった。
布は少し歪んでいて、縫い目もまっすぐではない。
きっと、何度もやり直したのだろう。
糸の端が少しだけ飛び出していた。
「これ……私が作ったの」
ユリスは受け取った。
「ありがとう」
「下手だけど」
「そんなことない」
「本当に?」
「本当に」
ニナは少しだけ安心したように息を吐いた。
けれど、すぐに目を伏せた。
「お兄ちゃん」
「うん」
「王都で、偉くならなくてもいいよ」
ユリスは言葉を失った。
ニナは顔を上げた。
目には涙が浮かんでいた。
「すごい魔術師にならなくてもいい。みんなに褒められなくてもいい。学院で一番にならなくてもいい」
声が震えていた。
「ちゃんと帰ってきてくれれば、それでいい」
ユリスは、何も言えなかった。
ニナは袖で目をこすった。
「あとね」
「うん」
「お兄ちゃんが、今度こそちゃんと失敗できますようにって、お願いしておいた」
普通なら、おかしな願いだった。
成功できますように。
うまくいきますように。
魔術師を目指す者に贈るなら、きっとそう願うべきなのだろう。
けれど、ユリスにとっては違った。
失敗できること。
間違えたものが、失敗として終わってくれること。
そして、やり直せること。
それは、今のユリスが一番欲しかったものだった。
ユリスはお守りを胸に当てた。
「ありがとう、ニナ」
その声は、自分でも驚くほど震えていた。
ニナは我慢しきれなくなったように、ユリスに抱きついた。
「行かないでって言ったら、困る?」
「困る」
「だよね……」
「でも、嬉しい」
ニナはユリスの服をぎゅっと握った。
「手紙、書いてね」
「書く」
「絶対?」
「絶対」
「王都のこと、全部教えて」
「全部は無理だよ」
「じゃあ、面白かったことだけでいい」
「うん」
「怖かったことも」
ユリスは少し驚いた。
ニナは顔を上げた。
「怖かったことも書いて。お兄ちゃん、そういうの隠すから」
ユリスは小さく笑った。
「……わかった」
ガルムが馬車のそばで待っていた。
いつものように無口だった。
ユリスが近づくと、父は古びた短剣を差し出した。
「持っていけ」
「これ、父さんの」
「旅道具だ。武器と思うな」
ユリスは短剣を受け取った。
革の鞘は使い込まれていたが、手入れは行き届いている。
「ありがとう、父さん」
ガルムはうなずいた。
それだけだった。
けれど、ユリスが馬車に乗ろうとしたとき、父が低く言った。
「ユリス」
「はい」
「怖いか」
ユリスは少し迷ってから、正直に答えた。
「怖いです」
ガルムはユリスを見た。
その目は厳しくも、静かだった。
「なら、行け」
「え?」
「怖くない場所では、人は変わらん」
それだけ言うと、ガルムはユリスの肩に手を置いた。
大きく、硬い手だった。
「帰る場所はある」
その一言で、胸の奥にあった不安が少しだけ形を変えた。
消えたわけではない。
けれど、抱えていける重さになった。
ユリスは深く頭を下げた。
「行ってきます」
馬車が動き出した。
車輪が土の道を軋ませる。
家が少しずつ遠ざかっていく。
マリナが手を振っていた。
ガルムは腕を組んで立っていた。
ニナは両手を大きく振りながら、泣いていた。
ユリスは馬車の窓から身を乗り出すようにして手を振り返した。
村の家々が遠ざかる。
小川の橋を越える。
丘の道に差しかかる。
あの日、ユリスが二度と願わないと誓った丘が見えた。
胸が痛んだ。
けれど、目を逸らさなかった。
あの場所で、自分は逃げることを覚えた。
そして今、逃げたままではいられない場所へ向かっている。
馬車が丘を越えると、村はゆっくりと見えなくなった。
ユリスは席に戻り、鞄の中から二つのお守りを取り出した。
母の薬草守り。
ニナの不格好なお守り。
薬草守りを少しだけ開くと、爽やかな香りが胸に広がった。
息がしやすくなる。
ニナのお守りを握ると、縫い目の不揃いな感触が指に触れた。
失敗できますように。
そんな願いを持たされて王都へ向かう魔術師など、きっと自分くらいだろう。
ユリスは小さく笑った。
王都アルヴェリア。
王立魔術学院。
基礎魔術適性測定。
そこではきっと、自分の魔法が測られる。
自分でもわからないものに、名前をつけられるかもしれない。
怖かった。
けれど、もう戻りたいとは思わなかった。
ユリスは、魔術師になるためだけに王都へ行くのではない。
自分が何者なのかを知るために、村を出るのだ。
春の光の中、馬車は王都へ続く街道を進んでいく。
失敗できない少年は、失敗を学ぶために、白き王都へ向かった。
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