第2話 願わないはずだった
冬の霧は、夏よりもずっと重かった。
ミストホルンの村を包む白い霧は、朝になっても晴れない。
畑の畝も、井戸の石組みも、遠くの森も、すべて輪郭を失っていた。
家々の屋根には薄く霜が降り、煙突から上がる煙だけが、かろうじて人の暮らしを示している。
ユリス・フォルクは、家の前で薪を割っていた。
斧を振り下ろすたび、乾いた音が冬の空気に吸い込まれる。
あの日から、半年が過ぎた。
ユリスは十五歳になっていた。
あの日。
砕けた木。
血を流すニナの腕。
村人たちの目。
そして、自分の口からこぼれた言葉。
もう、願わない。
二度と、願わない。
ユリスはそれを守ってきた。
火をつけるときは火打ち石を使った。
壊れた柵を直すときは、父に教わった通り、釘と木槌を使った。
重い荷物を運ぶときも、寒さで指先がかじかんでも、魔法に頼ろうとはしなかった。
願えば、きっと叶ってしまう。
叶ってしまうから、怖かった。
「お兄ちゃん」
背後から声がした。
振り向くと、ニナが扉の隙間から顔を出していた。
毛布を肩にかけ、小さな手で扉の端を握っている。
「外、寒いよ」
「ニナこそ、そんな格好で出てくるなよ」
「だって、母さんがお兄ちゃんを呼んでこいって」
ニナは笑った。
半年前、血で濡れていた腕には、もう包帯はない。
ただ、薄い傷跡だけが残っている。
冬の白い光の中で、それは妙にはっきり見えた。
ユリスは一瞬、斧を持つ手に力を込めた。
「……すぐ行くよ」
そう答えると、ニナは満足そうに頷いた。
けれどその頬が、いつもより赤いことに、ユリスはそのとき気づかなかった。
――異変がはっきりしたのは、その日の夜だった。
ニナは夕食の席につかなかった。
母のマリナが様子を見に行き、すぐに顔色を変えて戻ってきた。
「ユリス、お湯を。あなた、薬草箱を取って」
父がすぐに立ち上がった。
ガルム・フォルク。
無口で、滅多に慌てることのないユリスの父が、そのときだけは椅子を倒しそうな勢いで動いた。
マリナは村の薬草師だった。
怪我をした者も、熱を出した子供も、村人はまず彼女のもとを訪ねる。
その母の顔から、血の気が引いていた。
その様子を見た瞬間、家の中の空気が変わった。
ユリスは返事もせずにかまどへ向かった。
鍋に水を入れ、火にかける。
火打ち石を打つ指先が震えた。
ベッドの上で、ニナは浅い息を繰り返していた。
額に置かれた母の手が、すぐに離れる。
「熱い……」
マリナの声は低かった。
ユリスは桶にぬるい湯を張り、浸した布を絞って、母に渡す。
マリナはその布をニナの額に乗せた。
「母さん、ニナは」
「風邪かもしれない。けれど……」
言葉がそこで止まった。
ただの風邪ではない。
その続きを、ユリスは聞かなくても分かった。
ニナの呼吸は速く、喉の奥で小さく引っかかっていた。
眠っているのに苦しそうで、ときおり眉を寄せる。
「薬は?」
「飲ませたわ。でも、まだ効いていない」
母は薬草をすり潰し、湯に溶かし、少しずつニナの口元に運んだ。
薬草師として、村人の怪我や病を何度も見てきた手だった。
迷いのない手つきだった。
けれど、その手が少しだけ震えていた。
夜は長かった。
何度も布を替え、何度も薬を飲ませた
父は黙って薪を足し、部屋の温度を保った。
母はニナの胸に耳を当て、脈を取り、薬草の配合を変えた。
それでも、熱は下がらなかった。
「……母さん」
夜明け前、ユリスはかすれた声で言った。
「俺が」
「だめ」
マリナは、ユリスが最後まで言う前に遮った。
ユリスは息を止めた。
母はニナの額の布を替えながら、こちらを見なかった。
「だめよ、ユリス」
「でも、このままじゃ」
「分かってる」
母の声が少し強くなった。
「分かってるわ」
それ以上、何も言えなかった。
ユリスは自分の手を見た。
何にも触れていない。
誰の血もついていない。
それなのに、その手はひどく汚れて見えた。
ニナを助けたい。
その願いが、胸の中で形になりかける。
だめだ。
願えば、何かが壊れる。
倒木は止まった。
ニナは助かった。
でも、腕を傷つけた。
願ったことは叶う。
けれどいつも、思い通りにはならない。
「お兄……ちゃん……」
小さな声がした。
ユリスは顔を上げた。
ニナが目を開けていた。
熱で潤んだ瞳が、ぼんやりとユリスを見ている。
「ニナ」
「寒い……」
真っ赤な顔で、ニナはそう言った。
部屋は暖かい。
毛布もかかっている。
それでも、ニナは寒いと言った。
ユリスの喉が詰まった。
助けたい。
でも、怖い。
助けたい。
でも、また間違えるかもしれない。
母の薬草箱が、ベッドの横に置かれている。
木でできた古い箱だ。
中には乾燥させた薬草、小瓶、布、匙、母が何年もかけて集めた道具が詰まっている。
桶には、ニナの額を冷やすための布が浸されていた。
ユリスはそれらを見た。
そして、初めて考えた。
ニナの熱を消す。
違う。
病をなくす。
違う。
ニナを完全に治す。
それも違う。
そんな大きなことを願えば、きっと何かが壊れる。
大きく願えば、大きく間違える。
なら。
ほんの少しだけ。
ほんの少しだけでいい。
母の薬が効くくらいに。
ニナの体が持ちこたえられるくらいに。
熱が、ほんの少しだけ軽くなるように。
ユリスは拳を握った。
「母さん」
マリナが振り向く。
ユリスは震える声で言った。
「俺、ニナを治すとは願わない」
「ユリス……」
「熱を全部消すとも願わない。病気をなくすとも願わない。ただ……」
息を吸う。
怖い。
それでも、目を逸らせなかった。
「薬が効くくらいに。ニナが耐えられるくらいに。ほんの少しだけ、楽にしたい」
母の顔が歪んだ。
止めたいのだと分かった。
けれど、止めきれないのだとも分かった。
ニナの息がまた苦しげに揺れる。
マリナは唇を噛んだ。
「……何が起きるか分からないのよ」
「分かってる」
「分かっていないわ」
「だから、知りたいんだ」
ユリスは、自分でも驚くほどはっきりと言った。
「俺のこれは、何なんだ。どうすれば間違えないんだ。どうすれば、傷つけずに使えるんだ。何も分からないまま逃げてたら、また今みたいになる」
母は何も言わなかった。
父も、黙っていた。
ただ、かまどの火だけがパチパチと小さく鳴っていた。
ユリスはニナのベッドのそばに膝をついた。
手をかざすことさえ怖かった。
だから、かざさなかった。
祈るように、ただ目を閉じた。
ニナを治すんじゃない。
熱を消すんじゃない。
全部を変えるんじゃない。
ほんの少しだけ。
薬が効くところまで。
母さんの治療が届くところまで。
ニナの体が、戻ってこられるところまで。
願った瞬間。
部屋の空気が、ぴんと張り詰めた。
桶の中で、水音がした。
次の瞬間、桶の湯が白く泡立った。
「ユリス!」
母の叫びと同時に、湯が沸騰した。
ぼこぼこと泡が弾け、湯気が一気に立ち上る。
ユリスは反射的に桶から身を引いた。
熱いしぶきが床に散る。
さらに、乾いた音が響いた。
薬草箱だった。
ベッドの横に置かれていた母の薬草箱に、細い亀裂が走った。
次の瞬間、箱の側面が割れ、中の小瓶や乾燥薬草が床にこぼれた。
ユリスの心臓が止まりかけた。
まただ。
また、壊した。
「ごめ……」
「待って」
母の声だった。
ユリスは息を止めた。
マリナはニナの額に手を当てていた。
驚いた顔をしている。
信じられないものを見るように、何度もニナの頬、首筋、胸の動きを確かめる。
「熱が……」
父が近づいた。
「下がったのか」
「完全には。でも……さっきより、呼吸が落ち着いてる」
ニナの眉間のしわが、少しだけほどけていた。
荒かった息が、ほんの少しだけ深くなる。
ほんの少しだけ。
けれど確かに、苦しさが遠のいたように見えた。
母は床にこぼれた薬草を拾い集めた。
割れた箱の中から、まだ使える小瓶を取り出し、新しい配合を作る。
「薬を変えるわ。今なら、効くかもしれない」
その言葉に、ユリスは膝から崩れ落ちそうになった。
成功した。
いや、違う。
桶の湯は沸騰した。
薬草箱は割れた。
また何かを壊した。
でも、ニナは。
ニナは、少しだけ楽になった。
マリナは薬を飲ませた。
しばらくすると、ニナの呼吸はさらに落ち着いた。
夜が明けるころには、ニナは眠っていた。
苦しげな眠りではなかった。
深く、静かな眠りだった。
ユリスは部屋の隅で、割れた薬草箱を見つめていた。
父が隣に腰を下ろす。
「ユリス」
「……また壊した」
「ああ」
父は否定しなかった。
それが少し痛かった。
「でも、ニナは助かった」
「まだ分からない」
「そうだな。まだ分からない」
父は床に落ちた木片を一つ拾った。薬草箱の欠片だった。
「物を直すときは、壊れた場所だけを見るな」
ユリスは顔を上げた。
父は欠片を手のひらで転がしながら言った。
「なぜ壊れたかを見るんだ」
その言葉は、前にも聞いたことがあった。
壊れた柵。
割れた戸板。
崩れた石垣。
父はいつも、同じことを言っていた。
「お前の魔法も同じかもしれん」
「俺の……」
「何が起きたかだけ見ても分からない。なぜそうなったかを見なきゃならない」
ユリスは桶を見た。
湯が沸騰した桶。
薬草箱が割れた場所。
そして、眠るニナ。
願いは叶った。
けれど、代わりに何かが壊れた。
ただ、今回は少しだけ違った。
全部を救おうとはしなかった。
完全に治そうとはしなかった。
ほんの少しだけ、と願った。
だから壊れたものも、家も、壁も、人の体も、全部ではなかった。
桶の湯。
薬草箱。
壊れた。
でも、取り返しのつくものだった。
ユリスは、自分の手を見た。
やはり震えていた。
けれど半年前のように、ただ汚れているだけには見えなかった。
分からない。
自分の力が何なのか。
どうして願いだけが叶うのか。
どうして過程が壊れるのか。
どうすれば、間違えずに済むのか。
何一つ、分からない。
でも。
分からないから、逃げてはいけない。
――朝方、ニナの熱は少しずつ下がり始めた。
母は疲れ切った顔で、それでも小さく息をついた。
「峠は越えたと思う」
その言葉を聞いた瞬間、ユリスは初めて自分がずっと息を詰めていたことに気づいた。
ニナはまだ眠っている。
けれど顔色は、夜よりずっとましになっていた。
ユリスは家の外に出た。
霧はまだ残っていた。
けれど、東の空は白く明るくなっている。
遠くに、王都アルヴェリアの白塔が見えた。
冬の霧の向こうに、細く、白く、まるで空に突き刺さる針のように立っている。
半年前、ユリスはあの塔を見ながら誓った。
もう願わない。
二度と、願わない。
でも、その誓いではニナを救えなかった。
願わなければ傷つけない。
そう思っていた。
けれど、願わなければ失うものもある。
ユリスは拳を握った。
「俺は……」
声は白い息になって消えた。
「俺は、この力を知らなきゃいけない」
怖いから使わないのではなく。
怖いからこそ、知らなければならない。
危ないから隠すのではなく。
危ないからこそ、学ばなければならない。
自分の願いが、なぜ形になるのか。
なぜ何かを壊してしまうのか。
どうすれば、誰かを傷つけずに済むのか。
その答えは、この村にはない。
ユリスは白塔を見つめた。
王立魔術学院。
かつて憧れた場所。
今は、逃げていた場所。
けれどもう、逃げない。
ユリスは静かに息を吸った。
「王都へ行く」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
霧の向こうで、白塔は何も答えなかった。
ただ、冬の朝の光を受けて、冷たく輝いていた。
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