第9話
「もうちょっと待って、ヨシカさん」
「旦那!」
ふたりがふり返ると、オハラが走ってきた。今日はエプロンを付けておらず、ベージュのベストを着ていた。
「なかなか帰ってこないと思ったら、来ちゃったんですね」
オハラは騒ぎの向こうのワシノスを見ると、頭の後ろで手を組んで、あーあと気楽な声で面倒がった。
「花は咲きそうか?」
クロスはオハラにたずねる。
「あ、いや、まだ。夕方までは咲かないだろうってナトリーさんが。昨日の夜からあの人、ふもとのムカエギの番人になってますよ」
オハラの冷やかしに返事をせず、クロスは前を向くと声を上げた。
「ムカエギの花はまだ咲きそうにないそうです」
村人たちがうしろをふり向く。
「ちょっとすいません、通してください」
クロスは飄々と村人たちのあいだをすり抜けた。ワシノスはクロスを指差して叫んだ。
「お前は、ジョウ・クロス!」
ワシノスの前までたどり着くとクロスは、笑みを浮かべてあいさつをした。
「おひさしぶりです、隊長」
ワシノスはからだをわなわなと震わし、額に青筋を浮かべた。
「モリスの犬め!先回りしていやがったな!」
ヨシカはこっそりと、オハラの左手の指輪に目をやった。この指輪を送られた人間が、モリス宰相の部下とういうことになる。
「そうです」
クロスは落ちついた声でワシノスの暴言を素直に認めた。そして周りに聞こえないように一歩、ワシノスに近づき、さらに声を落とした。
「お察しでしょうが、あなたの計画されていることはもうすでにモリスの耳に入っています。わたしは計画が露見しないうちにあなたをマホ市に帰すように指示を受けました。この計画は下手したら、クーデターだと決めつけられます。今ならまだ、もみ消せます」
ワシノスは焦りもせず、冷淡に返した。
「かまわん。すべて覚悟の上だ。だからこのカラ喰いが出る時期にはるばる遺された土地までやってきたのだ」
クロスは肩を落とした。自分と相性の悪いこの男を、最初から口で説得できるとクロスは期待していなかった。けれど、やけくそになるわけにはいかなかった。
「けれど、まさか、隊長に禁書を読ませるとはね。ミハルさん」
ヤヒクとロイのうしろから、馬車酔いから復活したミハルが、なぜか照れくさそうに出てきた。はじめてミハルを見る人は、十代の少年に思うだろうが、実際はクロスよりいくつも年上で、三十あたりである。それなりの立場にいるのに、貫禄がないのはあまりよくないと、幼すぎる自分の顔を隠すために伊達眼鏡をかけている。
「クロス君、お元気そうで。研究所に籍が残っているのは知っていたけど、姿が見えないから七不思議になっているよ」
「なぜクロスが禁書の存在を?」
ワシノスが気に食わなさそうにミハルに聞いた。
「前任の国営図書特別書庫管理長はクロス君なので」
「そういうことです、ワシノス隊長」
「あんたらの世間話をいつまで待てばいい?」
しびれを切らしたエトウが苛立ちに顔をゆがめる。ワシノスは乱暴にクロスを押しのけると前へ出た。
「我々がなぜ、この危ない時期に命を懸けて、ここまで来たかというと、目的はひとつ」
ワシノスは右手の人差し指を高くかざした。
「カラ喰いを生け捕りにするためだ」
村人たちがざわめく。悲鳴を上げる者もいた。ヨシカは歯を食いしばり、手袋をはめた手でスカートを強く握りしめた。
「大丈夫?」
オハラが震えるヨシカの顔を覗き込んだが、ヨシカはオハラの心配を無下にして、まっすぐとワシノスから目をそらさなかった。
「それは、さすがに無謀ではないでしょうか……」
村長がとまどいながらいった。
「それがそうでもない。ミハル、写しを」
ミハルは肩から提げていた大きく厚みのある革のカバンから禁書の写しの束を出して、ワシノスに渡した。
「禁書を写すのは御法度でしょう!」
クロスが悲鳴に近い声を上げる。
「断るのも可哀想かなって。それにわたしもイユイ村に来てみたかったし」
クロスは眩暈がした。
「これは四十九年前、マツバ族と共存するこのイユイ村の文化を保護するために、また、都の人間がカラ喰いに手を出さないために、当時の研究者がすべての研究をまとめ、禁書にした写しだ」
ワシノスは堂々と四十九年前の研究者の意思を軽視した。
「人間は神秘を持って生まれてくる。この禁書はその一文ではじまる。神秘というのはいわずもがなサギランのことだ」
ワシノスは演説に力がはいる。




