序章
……どんな教育現場にも、ちょっとおかしな先生というのが一人や二人は居るものではないでしょうか?
この私――中原沙希が進んだ大学にも、若狭教授という、答えのよく分からない問題を課題として出す、変わった男の先生が居ました。
例えば過去には、降り出した大雨でペットボトルを効率よく満タンにしたい場合、キミたちならばどうするかという問いがありました。
ある生徒は巨大な漏斗をペットボトルの口に挿すという回答をし、またある生徒は、雨どいの落下口にペットボトルを置くという考えを発表しました。
因みに私は、大量のタオルを干して雨を吸わせ、それを絞って回収するという方法を導き出したのですが………………教授の答えは、
『近くに流れる川の水を汲めばいい』
というものでした。
私たちは当然のようにブーイングをしましたが、若狭教授の言い分としては――雨が川に落ちた時点で、その川の水も、雨の一部ということになるから――だそうです。なぜなら、混ざった水の出所を分けることは出来ないから――。
確かにそうかもしれませんが、意地が悪いと思ってしまうのは、私の器量が小さいからなのでしょうか……?
話は逸れますが、私の通う大学は、二年前に創立されたばかりの極めて新しい学校です。現在はまだ二年生までしか居ないため、学内は収容人数の半分しか通っていないということで、全体的にスカスカの状態です。もちろん、サークル棟もまだ空きが有るので、各サークルが好き勝手に使っています。
私はその中の、郷土史研究会というサークルに所属していました。
部員は私と先輩のたった二人で、これといった活動も今のところはしていないのですが、部室は最低限の調度品のみで物が少なく、適度な開放感があって結構落ち着けるので、時間があればよく顔を出したりしています。
今日は午前中の講義のみで終わりだったので、私はお昼にドーナツを買って、その部室へ持っていくことにしました。
まだ新築の匂いが残る本館から、リノリウムの渡り廊下を進んで、サークル棟のある二号館に入ると、階段を上って、横並びになっている部屋の中から『郷土史研究会』の札が掛かったドアを開けました。
殺風景な室内には、窓から見える六月の曇天を背に、樹脂製の椅子に座って机の前で本を読む男性が居ました。彼は、先ほど説明したもう一人の部員であり、先輩の、前崎玲一さんです。
僅かに癖のある短い黒髪。すらりとした体型には、モスグリーンのVネックセーターに黒いカーゴパンツを纏わせ、ブラウンのシックな靴を履いた長い足を優雅に伸ばしています。私への反応は、がさつな先輩ですが、頭脳は明晰な方なのです。
「前崎さん、お疲れ様です」
私が挨拶をすると、前崎さんは上目遣いの視線をこちらに向けました。
「ああ、中原か……」
そっけない返事もいつもの事です。
「また本読んでるんですか? たまには活動らしい活動をしましょうよ」
「何を言ってるんだ。読書というのは、知的財産を増やす立派な活動だろう」
前崎さんは、すぐにこうやって話を正当化する悪い癖があります。
「いや、そうじゃなくて…………まあ、いいです。それより、差し入れにドーナツ買って来たんですが、一緒に食べませんか?」
私が、可愛い熊のイラストが描かれたドーナツの箱を見せると、前崎さんは、読んでいた文庫本のページに指を挟み、怪訝そうに顔を上げました。
「キミがそんなことを言うなんて珍しいな」
「そ、そうですか?」
「ああ。差し入れなんて…………何か企んでるんじゃないのか?」
「た、企んでなんかいませんよ! 前崎さんは疑り深いですね」
私は必死に否定します。それでも前崎さんは、怪しむ 様子を消しませんでした。
「常に金欠を嘆いている人物が、何もないのにドーナツを差し入れるとは思えないんだよ」
「し、失礼な……。私だって、ドーナツを買うお金くらいはありますよ」
貧乏学生の身であるのは確かですが……。
「しかしだな、その箱のデザイン、駅前有名店のモノだろう? スーパーやチェーン店より値が張るはずだ」
「確かにそうですけど……食い下がりますね……じゃあ――――」
「まあ、せっかくだ。頂こう」
――いらないんですか? と言おうとしたところで、私の言葉は、瞬時に遮られました。
「――もうっ。だったら最初からそう言ってくださいよ。……ついでに、コーヒー淹れますね」
前崎さんは、ああ、と小さく返事をして、再び本を読む作業に戻りました。
私は扉つきの小物棚から、前崎さんが常備しているペットボトルのミネラルウォーターをケトルに入れ、コンセントを繋ぎました。次にインスタントコーヒーを取り出すと、二つの紙コップに同量の粉末を入れます。前崎さんはブラックのままで。私はミルクとスティックシュガーも加えました。
しばらくしてお湯が沸くと、ブラウスやスカートに染みをつけないよう、気をつけながら注ぎます。紙コップは取っ手付きの、ちょっとリッチなモノでした。
「どうぞ、前崎さん」
「ん……」
私はコーヒーをテーブルに置くと、再び棚の中から百円ショップで買った紙のお皿を二枚取り出し、箱から出したドーナツをその上に一個ずつ置きました。
「前崎さん。オールドファッションドーナツとチョコレートドーナツどっちがいいですか? 好きなほうを選んでください」
前崎さんは二つのドーナツをちらりと見比べた後、
「……じゃあ……それ」
予想通り、甘さ控えめのオールドファッションドーナツを指差したため、私は残ったチョコレートドーナツのお皿を手元に寄せました。
それから私は、壁際のパイプ椅子を机の前に運び、前崎さんの右側、窓が左手に見える位置に座ります。
コーヒーの豊かな香りが漂う中、私たちは、いただきますと、ドーナツを手に取りました。
一口食べた瞬間、もっちりとしたドーナツ生地の食感と、コーティングされたチョコレートのパリパリ感が、絶妙なハーモニーを作り出します。カカオの独特な風味と生地に練り込まれた上品な甘さが口の中でマッチして、思わず表情が緩みました。
「ん~っ。さすが人気店のドーナツだけあって、おいしいですねっ! 前崎さんはどうですか?」
「……まあまあ」
そうは言いつつ、前崎さんも心なしか上機嫌に、口の端を親指で拭いました。評価は悪くないようです。
「もう~素直じゃないですね……あ、ところで、折り入って前崎さんに訊きたいことがあったんですが……」
私は、前崎さんのテンションを窺いながら、タイミングを見計らって自然に切り出したつもりでした。
けれど前崎さんは、
「断る」
と、目もくれず、近寄ろうとした私を抑揚の無い言葉で一刀両断しました。
「ちょっ、まだ何も説明してないのに、そんな冷たいこと言わないで下さいよ! ドーナツだって食べたじゃないですかっ!」
前崎さんは、慌てる私を一瞥したかと思うと、冷然と首を傾げました。
「キミはおかしな事を言うな。差し入れだと持ってきたのは他ならぬ、中原……キミだろう? 冷蔵庫に残しておいたケーキを勝手に食べたのとはわけが違う。つまり、それとこれとは全く別だということだ」
「そ、そうですけど……ああ! もう、分かりましたよっ! 本当は前崎さんに訊ねたいことがあったから、ドーナツ買ってきて差し入れしましたっ! これでいいですかっ?」
「なんで怒っているんだか……まあ、何かあるだろうとは予想していたけども」
「じゃあ聞くぐらい聞いて下さいよっ」
前崎さんは、まるで駄々をこねる子供を見るかのような目を私に向けた後、
「…………仕方ないな」 と、根負けしたように呟きました。
予定していた展開とはだいぶ違いましたが、私はなんとか本題へ入れることに安堵して、仕切り直すように咳払いを挟んでから、話を始めました。
「前崎さんは若狭教授って知ってますか?」
「若狭……?」
「四角い眼鏡掛けてて、白髪交じりで、おでこの広い……」
「ああ、あのいつも汚れたマウンテンベストみたいなの着てる人か……。知ってるよ。中々ひねくれた人物だ」
前崎さんも充分ひねくれていると思いましたが、口にはしませんでした。
「で、その人がどうしたんだ?」
「あ、はい。実はその教授が、今日の講義でおかしな課題を出してきたんです」
私は机の下に置いていた鞄の中から、その内容をメモしたノートを取り出しました。
「明日までに解かなければならないんですが、どうにも分からなくて……。それで、前崎さんなら何か分かるかな、と」
「ふーん……どんな問題なんだ?」
「え、えっとですね――――――」
私は前崎さんの気が変わる前にと、急いでノートをめくり、そこに記した情報を、読み上げていきました――。




