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④個人的体験における自我の喪失ープロローグ

性において、人間は何を体験するのだろうか。

性において「体験」と呼ぶことのできるものが、

起こりうるのだろうか。もちろん言うまでもなく、

セックスとは性欲を処理するということだけのものではないし、

性欲=欲望を処理するという言い方自体がおかしいように思われる。

欲望は処理される、というものではないだろう。

自己が意図するのとは全く別の方向へ突き動かし、

外側の世界へと向かわせることもある。常に、自己が欲望をコントロールし、

適当に処理するというものではない。欲望と”私”(自己・自我)とは、

全く別物なのだ。ただ、欲望が”私”を出し抜いたり、

”私”が欲望を無視したりすることが、時折ある。

例えば、最も嫌悪(恐怖と置き換えてもよい。)を感じているのに、

それをつい垣間見たり、触れたくなったりするときや

「聖女が放蕩児の恥ずべき情念と、彼女自身の情念とが

同一のものであることを知らない。」

(ジョルジュ・バタイユ |澁澤龍彦 訳『エロティシズム』二見書房 P4)

時のように。


精液の放出、受精、妊娠、繁殖といったこともまた、

性における体験と言うことができるだろうか。

いや、そのようなことは生物学的な領域から語った方が、

より適切だろう。体験とは呼び難い。なぜなら、もしセックスが

精液の放出や受精、妊娠、繁殖のためであるならば、

人間は性行為において裸体であることを求めないはずだ。

皮膚に触れることや、肉をつかむこと、唇や手の行為などはあり得ず、

ただ、性器という局部にのみ集中された行為として終わってしまうはずだ。

それは行為というものでもなく、”作業”として完結してしまうはずだ。

衣服を取り去ることも、目で見て、皮膚で感じることもなくなって

しまうのではないだろうか。そのような欲求、目、皮膚、唇の欲望が

生まれることもなかったのではないだろうか。


性とは、よく言われるような性欲の処理の単なるひとつの

方法などではない。しかし、厳密に言うと、現代においては

純然たる性欲をもち得ているか、ということさえも、

問題提起されるかもしれない。


容易に得ることができ、感じ、酔うことができる単なる性的欲求と

快感も、セックスにおける重要な体験ではある。

タブーとする世間一般の考え方、また、禁欲的な文化の中で育ち、

誰もが持つ性欲というものを、自分の内に認めることができない場合、

純然たる性欲が歪み、破壊されていることがある。

そのような状況では、単なる性的快楽・会館は、非常に重要なものになる。

しかしながら、性における体験とは、それだけではないはずだ。


日常的な地平を離れたところでは、セックスとはもっと衝撃的、

暴力的、無神経で理不尽なものになり得る。日常を離れた時、

人間は誰でも奇妙なものや信じがたいものを体験し、

自分自身がそれになってしまうこともある。


その衝撃、暴力、理不尽さで、単なる快楽ではなく、

もっと苦痛とともにあるような、苦痛と背中合わせになるような快感、

時には恐怖や狂気さえも引き起こしかねないものを、

日常の地平を離れた性において、体験し得るのではないだろうか。

そこに至る入口は、日常の中のあらゆる場所に無数にある。

なぜなら、性とは日常だからだ。日常からの脱却、回帰、

いずれもそこに関わらざるを得ない。


繰り返しやってくる日々の中で、実利に満ち、利益の計算で全てを計る世界、

目に見えるものしか信じられない世界から、抜け落ちることがあってもよい。


私は敢えて、そこから抜け落ちることを考えたい。抜け落ちているからこそ、

よく見えることがあるからだ。現実世界の中には、全く違うところへ

抜け落ちてゆく穴が、あちらこちらにあるはずだから。

例えば、

「暗黒の深淵が、この現実世界のそこかしこにひらいて沈黙をたたえており、

現実世界はそのところどころの深淵にむかって漏斗状に傾斜しているので、

この傾斜に敏感なものたちは、知らず知らずのうちにか、あるいは意識して

この傾斜をすべりおち、深淵の暗黒の沈黙の中へ入りこんでゆく。」

(大江健三郎『後退青年研究所』新潮文庫P278)ように。


”深淵の暗黒の沈黙”そこは、形而上の地平と言ってもよいかもしれない。

日常から落ちてゆくところであり、まさにそれが日常でもあるところ、

だとも言える。


           ーつづくー



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