第7話 ただ、走れメロス
羊小屋を飛び出したメロスの背後で、雨の音が遠ざかっていく。
今日は、これまでとは違った。
成功する方法ではなく、走る理由だけを胸に置いていた。
「小細工は、もうやめる。成功するから走るんじゃない。約束したから走るんだ」
最短ルートの計算も、山賊を避けるためだけの迂回路も、世界の先を読もうとすることも、全部やめる。ただし、何百回もの失敗から覚えたことまで捨てるつもりはなかった。
「ただ、まっすぐ走る。それだけでいい」
村を発ち、氾濫した川に飛び込んだ。
死に物狂いで濁流へ飛び込んだ。だが、流れの癖はもう知っている。逆らう場所と、流れに身を任せる場所を、考えるより先に体が選んだ。
山賊が現れた。
避けることも、遠回りすることもせず、メロスは正面から戦った。何百回も見た踏み込みと癖が、もはや考えずとも分かる。最小限の動きで、山賊を退けた。
それでも体力は、みるみる奪われていった。だが、最初の一度とは違う。同じ道を走っているのに、無駄な力だけが削ぎ落とされていた。
真昼の太陽が、容赦なくメロスを焼いた。
ついに、力尽きた。
道端の草の上に、崩れるように倒れ込んだ。
「もう、動けない」
ただ純粋な、肉体の限界だった。けれど、顔を上げたメロスは気づいた。最初の一度には辿り着けなかった、街道脇の岩場まで来ている。
「私は、これほど努力したのだ。約束を破る心は、みじんも無かった。ああ、それなのに」
弱気が、頭をもたげる。
「私は、なんという不甲斐ない男だろう」
その時、足元から、微かな水の音が聞こえた。どこかで一度、遠くに聞いた覚えのある音だった。近道ばかり探していた頃には、足を止める価値もないと聞き流していた音。
岩の間から、清らかな泉が、こんこんと湧き出ていた。突然現れたものではない。自分がここへ辿り着けず、あるいは目を向けることさえしなかっただけなのだ。
メロスは、這うようにして、その水にすがりつき、両手で掬って飲んだ。
ほっと、長い息が出た。
同時に、少しずつ、正気と、体力が戻ってくるのが分かった。
「歩ける。いや、走れる。行こう」
肉体の疲労回復とともに、わずかながら希望が生まれた。
義務遂行の希望である。
わが身を殺して、名誉を守る希望である。
「日没までには、まだ間がある。私を、待っている人があるのだ」
メロスは、身をひきしめて、また走り出した。
日は、ゆらゆらと、地平線に落ちかけていた。
塔楼が、夕陽を受けてきらきら光っているのが見えた。
「ああ、メロス様」
うめくような声が、風と共に聞こえた。
「誰だ」
メロスは走りながら尋ねた。
「フィロストラトスでございます。あなたの友人、セリヌンティウス様の弟子でございます」
「もう、駄目でございます。無駄でございます。走るのは、やめてください。もう、あの方をお助けになることはできません」
「いや、まだ陽は沈まぬ」
「ちょうど今、あの方が死刑になるところです。ああ、あなたは遅かった」
「まだ、陽は沈んでいない」
メロスは、それだけを繰り返し、フィロストラトスの声を振り切って、走り続けた。
「間に合え、間に合ってくれ」
メロスは、最後の力を振り絞って走った。
刑場が見えた。
まさに、磔の柱にセリヌンティウスの体が引き上げられようとする、その瞬間だった。
「待て、その人を殺してはならぬ。メロスが帰ってきた」
声を限りに叫びながら、群衆を掻き分けて、メロスは刑場に躍り込んだ。
「セリヌンティウス」
メロスは、涙をいっぱいに浮かべて言った。
「私を殴れ。ひどく殴れ。私は、途中で何度も自分を疑った。走ることさえ投げ出しかけた。君との約束を守れない自分でいいのではないかと、一瞬でも思ってしまった」
セリヌンティウスには、メロスが何を見てきたのか分からない。それでも、その顔に刻まれた苦悩だけは察したように頷いた。
「メロス、私を殴れ。同じくらい強く、私を殴れ。私は、この三日間の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。だが、君は帰ってきた」
メロスは、力の限り、友の頬を殴った。
セリヌンティウスも、負けぬ力で、メロスの頬を殴り返した。
「ありがとう、友よ」
二人は同時にそう言い、しっかりと抱き合った。
群衆の中から、それを見ていた王――ディオニスが、静かに二人へと歩み出た。
「おまえらの望みは、かなったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった」
ディオニスは、深く頭を垂れた。
「どうか、わしをも仲間の一人に、入れてくれまいか」
どっと、群衆の間から、歓声が上がった。
「万歳、王様万歳」
その声が、幾重にも重なり、刑場を包んでいく。
その時、一人の少女が、緋のマントを抱えて、メロスのそばへ駆け寄ってきた。
メロスは、まごついた。
見ると、自分の体は、ここに至るまでの道中で、すっかり裸同然になっていた。
親友が、そっと耳打ちした。
「メロス、君は、いい男だ。裸になっているのを、恥ずかしく思うがいい」
勇者は、ひどく赤面した。
近道を探すたびに遠ざかった結末へ、メロスは結局、最初と同じ道を、自分の足で走り切ってたどり着いた。
成功が約束されていたから走ったのではない。約束を守ろうと走り続けた、その先に成功があった。
何百回にも及んだ、終わらないはずの三日間は、こうして、ようやく、その物語本来の結末へと、たどり着いたのだった。
世界は、二度と白く塗りつぶされなかった。




