第1話 走れメロス
メロスは激怒した。
必ず、かの邪知暴虐の王を除かなければならぬと決意した。
メロスには政治がわからぬ。
メロスは、村の牧人である。
笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。
けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。
きょう未明、メロスは村を出発し、野を越え山越え、十里はなれたシラクスの市にやって来た。
メロスには父も、母も無い。
女房も無い。
十六の、内気な妹と二人暮らしだ。
この妹は、村のある律気な一牧人を、近々、花婿として迎える事になっていた。
結婚式も間近かなのである。
メロスは、それゆえ、花嫁の衣裳やら祝宴の御馳走やらを買いに、はるばる市にやって来たのだ。
まず、その品々を買い集め、それから都の大通りをぶらぶら歩いた。
友人セリヌンティウスは、この市で、石工をしている。
その友の家を訪ねる前に、メロスは、市の様子がいつもと違うことに気づいた。
「おかしい。祭りでもあるまいに、みんな暗い顔をしている」
老爺に尋ねると、この町の王が、次々と人を殺しているのだという。
「王様は、人を殺します」
「なぜ殺すのだ」
「悪心を持っているからです」
老爺の話に、メロスの心は、みるみる怒りで満たされていった。
「呆れた王だ。生かして置けぬ」
メロスは、単純な男であった。
買い物を背負ったまま、のそのそと王城に入っていった。
たちまち、隠し持っていた短剣を見つけられ、番人に捕らえられた。
引き出されたメロスに、王ディオニスは、静かな眼で問うた。
「なぜ、そんな短剣を持っていた。言え」
「市を暴君の手から救うのだ」
メロスの答えに、王は、笑った。
「おまえがか」
「そうだ。私は、一人の人間として、悪逆の王を除かねばならぬと決意して来たのだ」
問答の末、メロスは、三日間の猶予を乞うた。
「妹の結婚式を挙げさせてから、必ず、ここに帰って来る」
「戻ってこなかったら?」
「その時は、私の身代わりに、私の友人を殺すがいい」
セリヌンティウスは無言で頷き、メロスをひしと抱きしめた。
友と友の間は、それでよかった。
セリヌンティウスは、縄打たれた。
メロスは、すぐに出発した。
初夏、満天の星である。
その夜、一睡もせず十里の路を急ぎに急いで、村へ到着したのは、翌る日の午前、陽は既に高く昇っていた。
妹は、疲労困憊の兄の姿を見て驚いた。
「なんでもない。市に用事を残してきた。またすぐ市に行かなければならぬ。あす、おまえの結婚式を挙げる」
妹は頬を赤らめた。
メロスは家へ帰って神々の祭壇を飾り、祝宴の席を調えると、間もなく床に倒れ伏し、深い眠りに落ちた。
目が覚めたのは夜だった。
メロスは起きてすぐ、花婿の家を訪れ、結婚式を明日にしてくれと頼んだ。
婿の牧人は驚き、渋ったが、夜明けまで議論を続けて、やっと承知させた。
翌日、結婚式は、つつがなく執り行われた。
祝宴のさなか、空が曇り、雨が降り始めた。
メロスは、少し眠ってから出発しようと考え、宴を抜け出し、羊小屋に入った。
そのまま、深く寝入ってしまった。
眼が覚めたのは、翌る日の薄明の頃である。
メロスは跳ね起きた。
「南無三、寝過したか」
いや、まだまだ大丈夫。
これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。
雨も、いくぶん小降りになっている様子である。
メロスは、悠々と身仕度をはじめた。
身仕度は出来た。
さて、メロスは、両腕を大きく振って、雨中、矢の如く走り出た。
――だが。
きのうの豪雨で、山の水源地は氾濫していた。
濁流に阻まれ、死に物狂いで泳ぎ切ったものの、体力を大きく失った。
峠では山賊に襲われ、これも辛くも退けたが、さらに消耗した。
灼熱の陽射しが、容赦なく体力を奪っていく。
「動け、俺の足」
意識が朦朧とする中、メロスは、街道脇に岩の連なる場所へ辿り着くより前に倒れた。
意識が、闇へ沈みかけた、その時だった。
見えるはずのない光景が、脳裏に閃いた。遠く離れたシラクスの刑場。セリヌンティウスが、磔の柱に引き上げられていく。
「メロス……」
届くはずのない友の声が胸を貫いた瞬間、世界が白く塗りつぶされた。
気がつくと、メロスは、羊小屋の中にいた。
眼が覚めたのは、薄明の頃だった。
メロスは跳ね起きた。
「南無三、寝過したか」
そう口にした瞬間、既視感が、全身を貫いた。
「いや、待て。これは」
雨の音。
小屋の隙間から差し込む、薄明の光。
全部、確かに経験したはずのものだった。
「俺は今、確かに、刑場の光景を見た」
混乱するメロスをよそに、世界は何事もなかったかのように、また同じ朝を始めようとしていた。
「もう一度、走るしかないのか」
メロスは、拳を握りしめた。
激怒は、まだ収まっていなかった。
そして今度は、その激怒に、わずかな戸惑いが混じり始めていた。
「神よ、私に、友を救う機会と、正しき行いをする機会を、再び与えてくれたことに感謝する」
そういうと、メロスは走り出した。




