見殺しにされた底辺荷物持ち、絶望の底で最適解に辿り着く
冷たい石畳の感触と、全身の骨が軋むような激痛で意識が覚醒した。
肺に溜まった血を咳き込みながら吐き出し、天谷湊は薄暗い闇の中でゆっくりと目を見開いた。
「……っ、ぁ……」
声を出そうにも、喉の奥からヒューヒューという情けない風切り音が漏れるだけだ。右脚はありえない方向に曲がっており、肋骨も数本いっている。生きているのが不思議なほどの重傷だった。
ここはどこだ?
霞む思考を必死に回転させ、直前の記憶を引っ張り出す。
そうだ。俺は雇い主であるAランクパーティ『紅蓮の牙』と共に、関東近郊に出現した未踏破ダンジョン『黒淵の顎』の第十五階層を探索していた。
彼らはトップランカーとしてテレビでも持て囃されるエリート集団だったが、その実態は傲慢で、ダンジョンを完全に舐めきっていた。未踏破領域のセオリーである「慎重な索敵」を怠り、結果としてフロアボス級の魔物の群れ――『ブラッド・ライカン』の群れを引き寄せてしまったのだ。
絶望的な数に囲まれた時、リーダーの剣士である恭平は、あろうことか荷物持ちである湊の背中を全力で蹴り飛ばした。
『わりぃな、湊! 誰かが囮にならねぇと全滅するんだよ! お前が索敵ミスったことにしといてやるから、せめて世間様のためにお前の安い命を使ってくれや!』
歪んだ嘲笑と共に放たれたその言葉。
群がってくる魔物たちの牙から逃れるように、湊はフロアに開いていた底なしのクレバス(亀裂)へと突き落とされた。
あの時の恭平の顔、他のメンバーたちの安堵したような醜い顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
「ふざけ……んな……」
口の中に広がる鉄の味と一緒に、呪詛を吐き出す。
なぜ、俺がこんな目に遭わなければならない?
ただ、人より少しだけシステムから与えられた運が悪かっただけなのに。
この世界にダンジョンが現れて以来、人類は足を踏み入れた者に与えられる「スキル」と、魔物を倒すことで自動的に割り振られる「ステータスポイント」によって強さを定義されてきた。
剣を振るえば筋力が、魔法を使えば知力がシステムによって自動で上がり、人々はそれを「天性の才能」と呼んだ。
だが、湊に与えられたのは【ポイント保留】という、誰からも見放される最悪のハズレスキルだった。
魔物をどれだけ倒しても、パーティメンバーがどれだけ強力な敵を討伐しても、湊のステータスには一切のポイントが割り振られない。初期値のまま、一生強くなることができない「無能の証明」だった。
だから底辺の荷物持ちとして、他人に頭を下げて生きるしかなかった。
それでも、湊は決して諦めてはいなかった。
「ステータスが上がらないなら、生身の肉体を極限まで鍛え上げるしかない」
そう信じて、狂ったように自己管理を徹底した。毎日の食事は鶏胸肉400g、納豆、シーチキン缶を主食とし、炭水化物である米は炊いたあとのグラム数までミリ単位で計量して摂取した。重いだけの肉体ではモンスターの攻撃を躱せないため、体重を60キロまで意図的に落として極限のキレと瞬発力を追求した。
ダンジョン探索の合間を縫ってジムに通い詰め、血を吐くような努力の末に、生身での最高重量はベンチプレス60キロ、バーベルスクワット100キロを記録するまでになった。
常人であれば、アスリート並みの肉体だと称賛されただろう。
だが、ここはステータスという絶対的な「理」が支配するダンジョンだ。
どれだけ生身を鍛えようと、ステータスの「筋力」に自動で数百ポイントが割り振られたトップランカーの足元にも及ばない。ゴブリン一匹の膂力にすら、努力で培った筋肉はいとも容易く蹂躙される。
他人が運任せで手に入れる「強さ」の前に、俺の血の滲むような努力はすべて無駄だったのだ。
「……あ、あぁ……」
痛みに顔を歪ませていると、暗闇の奥からズルズルと何かを引きずるような粘着質な音が聞こえてきた。
生臭い、死臭のような匂いが鼻を突く。
血の匂いに誘われてやってきたのだろう。ぼんやりと光るダンジョンの発光苔に照らされて姿を現したのは、全長2メートルを超える巨大なムカデのような魔物――『コープス・イーター(屍喰らい)』だった。
強さとしては下層の雑魚。だが、全身の骨が折れ、身動き一つとれない今の湊にとっては、圧倒的な死神に他ならない。
「……くる、な……」
カチカチと大顎を鳴らしながら、巨大なムカデが湊の顔めがけて這い寄ってくる。
このまま食われて、誰にも知られずに死ぬのか?
俺を突き落としたあの連中が、地上で悲劇のヒーローを気取り、俺の死を酒の肴にして笑い合うのか?
嫌だ。
絶対に、嫌だ……!
「死んで、たまるかぁあああっ!!」
湊は最後の力を振り絞り、右手に握りしめていた解体用のサバイバルナイフを、飛びかかってきたムカデの開かれた口の奥、最も柔らかい中枢へ向かって渾身の力で突き立てた。
鍛え抜かれた生身の肉体が発揮できる、最後の一撃。
『ギィイイイイイイイイイッッ!?』
脳天まで刃を突き立てられたムカデは、醜い断末魔の叫びを上げて痙攣し、やがてドロドロの液体となって崩れ落ちた。
奇跡だった。相手が最弱クラスの魔物であり、尚且つ無防備に口を開けて突っ込んできたからこそ成立した、偶然の討伐。
だが、その一撃が引き金となった。
頭の中に、これまで一度も聞いたことのない、無機質で透明なシステムの音声が響き渡った。
『対象の生命活動停止を確認』
『経験値の還元を実行します』
『条件を満たしました。スキル【ポイント保留】の累積値が規定ラインを突破しました』
なんだ……?
薄れゆく意識の中で、湊はその声に耳を疑った。
『割り当て保留ポイントが【10,000】を突破しました』
『スキル【ポイント保留】の規定値ライン達成ボーナスを解放します』
『固有能力【ステータス:手動割当】が起動します』
直後、湊の目の前に、青白く発光する半透明のウインドウが展開された。
そこに表示されていたのは、見慣れた、しかし決定的に何かが違う自分のステータス画面だった。
【名前】天谷 湊
【年齢】20
【HP】3 / 15
【MP】5 / 5
【筋力】12
【俊敏】10
【体力】15
【知力】8
【魔力】5
【保留ポイント】14,520
「保留ポイント……一万四千……?」
湊は痛みを忘れ、その数字に釘付けになった。
ダンジョンでのポイント取得は、パーティ内で経験値が分配される仕組みだ。この5年間、湊自身は敵を倒せなくとも、強力なパーティの荷物持ちとして数え切れないほどの魔物討伐の場に居合わせてきた。
【ポイント保留】。
それはステータスが成長しない呪いのスキルではなかった。
システムによる「運任せの自動割り振り」を強制的にシャットアウトし、獲得したすべてのポイントをプールし続けるという、前代未聞のスキルだったのだ。
「これを……自分で好きに振れるっていうのか……?」
震える手で、湊はウインドウに触れた。
試しに、「体力」の項目にポイントを【1,000】流し込んでみる。
直後――ドクンッ! と心臓が大きく跳ねた。
「ッ!?」
全身の細胞が爆発的に活性化する感覚。折れていた肋骨が、ありえない方向に曲がっていた右脚が、バキバキと音を立てて瞬く間に元の位置へと戻り、完全に修復されていく。
HPの最大値が一気に跳ね上がり、驚異的な自然治癒力が肉体を超常の速度で再生させたのだ。
「ははっ……なんだこれ、痛みが……全部消えた……」
立ち上がり、自分の両手を見つめる。
疲労感すらない。むしろ、生まれてから一度も感じたことのない万能感が全身を満たしていた。
その時、再び暗闇の奥から重低音の唸り声が響いた。
ドスッ、ドスッ、と地響きを立てて現れたのは、先ほどのムカデとは比較にならない巨大な魔物。
漆黒の体毛と、燃えるような赤い六つの目を持つ巨獣。未踏破ダンジョンの下層に生息するBランク相当の魔獣『アビス・パンサー』だ。
俺を落としたあのエリート気取りの連中すら、パーティで囲んで安全マージンを確保して倒しにかかるモンスターだ。
普段の湊であれば、見ただけで腰を抜かし、死を受け入れるしかない存在。
だが、今の湊の心境は全く違っていた。
「……試してみるか。俺の『最適解』を」
恐怖はない。ただ、目の前の暴力の権化に対して、自分の力がどこまで通用するのかという好奇心だけが胸を支配していた。
湊はウインドウを操作し、残りの未割り当てポイントを無造作に振り分ける。
【筋力】12 + 5,000 = 5,012
【俊敏】10 + 5,000 = 5,010
ステータスの平均値が1000を超えれば一人前の探索者と言われるこの世界で、その数値は熟練の探索者の領域だった。
『グルルルァアアアッ!!』
アビス・パンサーが咆哮を上げ、目にも留まらぬ速度で湊へと飛びかかってくる。
――遅い。
湊の眼には、音速を超えるはずの魔獣の動きが、まるでスローモーションのように見えていた。極限まで引き上げられた「俊敏」が、世界を止めているのだ。
「ふっ!」
湊は軽く地を蹴り、迎撃に出た。
その踏み込みだけで、硬い未踏破ダンジョンの岩盤がクレーターのように吹き飛ぶ。
一瞬で魔獣の懐に潜り込んだ湊は、なんの技術もない、ただの右ストレートを放った。
ドゴォオオオオオオオオオオオオオンッ!!
鼓膜を破るような爆音と共に、モンスターの巨体が、まるで紙くずのように弾け飛んだ。
強靭な毛皮も、鋼鉄の骨も、一切の抵抗を許されず、血の雨となって周囲に降り注ぐ。原型を留めているのは、吹き飛んだ直後に壁に激突して砕け散った下半身の残骸だけだ。
「……マジかよ」
自分の拳を見下ろす。
かすり傷一つない。血すら弾き返すような圧倒的な強度が備わっている。
今まで、どれだけ筋トレをしても、どれだけ食事を管理しても届かなかった絶対的な暴力。それが、たった数回のタップで手に入ってしまった。
他人が才能と運にすがり、ステータスの偏りに一喜一憂している中、俺だけがこの世界で唯一、状況に合わせてステータスを完璧にコントロールできる。
「は……あははははっ!」
気付けば、湊の口から乾いた笑い声が漏れていた。
これだけの力があれば、もう誰にも頭を下げる必要はない。
理不尽な暴力に怯える必要もない。
俺を突き落としたあの連中を、同じように蹂躙して絶望させてやることだって、造作もないことだ。
「……命のやり取りって、こんなに最高だったんだな」
降り注ぐ血の雨の中で、湊は獰猛な笑みを浮かべた。
温厚で常識人だった青年が、狂気的な戦闘衝動に脳を焼かれた瞬間だった。
「さあ、次はどのステータスを試してみようか。……もっと俺を楽しませてくれよ、未踏破ダンジョンのバケモノども」
ステータス画面を弄りながら、湊はさらなる獲物を求めて、未だ誰も足を踏み入れたことのない奈落のさらに奥へと歩き出した。
運任せの世界で、世界で唯一の『手動割当』を手に入れた底辺荷物持ちの逆襲が、ここから始まる。




