18.安全オオカミの印
ラズに連れられるままにブルーがベリー市場を抜けてみれば、〈ハニーレンガの道〉からなる大通りの向こうに、〈図書の町〉の役所がすぐに見えました。ブルーは文字を読めません。それでも、その建物こそがラズの言っていた場所なのだという事は何となく理解できました。さっそくラズと共に歩きましたが、大通りを行き交う人や車は多く、渡るのは大変でした。右を見て、左を見て、また右を見て、そうしてようやく渡ることが出来た後には、ブルーはすっかり目を回してしまいました。
「すごいなあ、人間の町って。森とは全然違うんだね」
心底驚いた様子の彼に微笑みつつ、ラズはさっそく役所の窓口で、安全オオカミに関する手続きをしました。専用の窓口はちゃんとあるようで、程なくしてふたりは役所の裏側へと通されました。そこには少々静かな施設が並んでいます。入ってみればお客さんは誰もおらず、静まり返っていました。ここで合っているのだろうか、と、何となくラズが居心地の悪さを覚えていた所へ、ようやく表れたのが白衣を着たオオカミ族の男性でした。
「すみませんね、お待たせしました」
どうやらお医者さんのようです。小さな眼鏡を手で抑えつつ駆け寄ると、さっそく少ししゃがみ、ブルーと目を合わせました。
「この子がこの度の安全オオカミ君ですね。どうぞこちらへ」
そして、通されたのは清潔そうな診療室でした。ヒト族などの人間用の診療室とは少し様子が違いましたが、設備などはあまり変わりません。診察台にあがるように言われ、ブルーはどうにか上ると、オオカミ族のお医者さんに言われるままに口を開けたり、閉じたりしていました。
「大人しいですね。嫌がるオオカミ君も多いんですよ」
「そ、そうなんだ」
ブルーは戸惑い気味にそう答え、耳を伏せました。何だか変な感じです。というのもオオカミ族はブルーのようなしゃべるオオカミとあまり見た目が変わらないのです。だけど、向こうは服を着ていて、自分は着ていない。向こうは二足歩行で手も器用だけれど、自分はそうではない。その違いをいちいち意識してしまって、複雑な感情がわいてくるのです。
「あの……ボク、問題ない?」
たまらなくなってブルーがたずねると、オオカミ族のお医者さんは穏やかに答えました。
「今のところなんも問題はありませんね。ああ、ただ、お注射をして、いくつかお薬を飲む必要はありますね。あと……できればお風呂も入れた方がいいね」
と、彼はラズに対し小声でこっそり付け加えました。ブルーは耳を倒しつつ、首を傾げました。お注射も、お薬も、そしてお風呂も、よく分からなかったのです。
「分からないけれど、それをしたら安全オオカミになれるんだよね?」
と、ブルーはラズとオオカミ族のお医者さんを見比べるようにたずねました。不安そうな彼に、ラズは微笑みかけました。
「大丈夫だよ、ブルー。もう少しだから」
けれど、ブルーの目はオオカミ族のお医者さんが持つ注射器に釘付けになっていました。ずっと人間の町とは無縁の場所で暮らしていたブルーは、注射器というものを初めて見たのです。けれど、その特有の形と存在感から、そこはかとない不安を覚えてしまったのです。耳を倒し、尻尾を巻くブルーの様子に、オオカミ族のお医者さんは声を和らげながら語りかけました。
「どうか怖がらないで。これはね、とても大事なお薬なんだよ。ブルー君だったね、君は危険オオカミという言葉を聞いたことはあるかい?」
「危険オオカミ……盗賊オオカミのこと?」
「そうだね。彼らも危険オオカミだ。しかし、危険オオカミの定義はそれだけではなくて、厄介な病気にかかってしまった者たちも含まれるんだ」
「厄介な病気……」
首を傾げるブルーに、オオカミ族のお医者さんはうなずきました。
「かみつきオオカミ病という病気を聞いたことはないかな。昔は吸血鬼病とも言っていたのだけれどね」
ぽかんとした様子のブルーに気づくと、オオカミ族のお医者さんは少し考え、すぐに思い出したように付け加えました。
「確か、ナイトメアの呪いともいわれる病気だね」
すると、ブルーの表情がすぐに変わりました。
「それなら知っている。……とっても怖い呪いなんだよね?」
「そう。非常に怖い病気だ。かみつきオオカミ病になると、それまでどんなに優しくて穏やかだった者も、人格が変わってしまうんだ。恐ろしいことにこの病気は治すことができない。だから、予防が大事なんだよ」
「予防……呪いの予防ができるの?」
「そう。このお注射でね」
オオカミ族のお医者さんは穏やかにそう言いましたが、ブルーはやっぱり初めて見るはずのその注射器の物々しさに耳を倒してしまいました。けれど、これを乗り越えないと、ラズと一緒にいられません。その事を思い出すと、ブルーはぐっと覚悟を決めて、お医者さんに言いました。
「分かった。そのお注射ってやつをお願いします」
程なくして、ラズはオオカミ族のお医者さんに言われるままにブルーの体を支えました。オオカミ族のお医者さんは手慣れた様子でブルーの背後に回ると、首根っこにぷすりと注射針を刺してしまいました。
「ひゃあんっ!」
初めての刺激に驚いたブルーは情けない悲鳴をあげてしまいました。そして、驚きと恐怖と不安で硬直している間に、お薬はすべてブルーの体の中へと入っていきました。
「これでよし。あとは飲み薬を処方しておきますね。安全オオカミの印も準備ができると思うので、窓口で一緒に受け取ってください。ああ、そうそう。お風呂ですが、安全オオカミ向けのお風呂の案内もあるので、もしよかったら窓口で聞いてみてくださいね」
「はい、お世話になりました」
ラズがお礼を言っている間に、ブルーはようやくショックから立ち直りました。ひりひりとした痛みはまだ首根っこに残っていましたが、それでも一つの山を越えて、晴れて安全オオカミになれそうだという事実に、ブルーは早くも誇りを感じていたのでした。