私が、めでたしめでたし♪な作品を作る理由
徒然はこんな人間があの作品を書いてるんだという位置づけでもあるので良かったら。
単純に不幸な話を書いても面白くないというのもあるんだけどね(笑)既に不幸の本質というものを完璧なまでに描いた作品と私は出会ってしまっていたから、もはやこれ以上書くことがないだろうしその必要性も感じ無いというのが私なりの理由です。
【嫌われ松子の一生】という作品があって、たぶん今はオンデマンドくらいでしか観ることも出来ないんじゃないかと思うんだけど。この作品、原作はまだしも今、映画を世に出せるかと言われたらかなり難しいのではないかと思う内容で。それぐらい観た人とそうでない人とでは人生観が違うというくらい衝撃的だったわけです。
ネタバレしないように気をつけますが、出来れば観てから続きを読んで欲しいなと思います。
まずこれを【不幸な】と書かずに【嫌われ】と現した所にセンスを感じさせられるわけですね。所々、ミュージカルにしていたのも観客の苦痛を少しでも和らげていたのではないかと私は思うわけですが。
それまでも世に悲劇的な物語は多々あったわけですが、その多くは客観的に遠くに感じる出来事であって、言い方が難しいけれどもある意味、客の望む悲劇だったんですよ。ロミオとジュリエットのように。
でも、この作品はそうではなかったわけです。前述した観客の苦痛を少しでもというのもコレをもしストレートに描いてしまったら最後まで観ていられる客が何人残るかどうかなんですよ。賛否両論ある中で「考えさせられる作品です」と評するのが関の山というのもわかります。
そもそも不幸の本質とは何だと思いますか?
例えばケーキを食べたこともなければ存在自体を知らない人が生涯ケーキを一度も食べた事が無いということを不幸だとは感じないように、不幸の本質はそれを避けることが出来たかもしれないという選択の余地があってこそ感じられるものなんですよ。
この作品でも主人公にとっていくつかの分岐点があり、結果から見ればことごとく誤った選択を選んでしまいその都度落ちていくわけです。選択が合っていたとしても、何かがズレることにより落ちる方向で収束していくんですけどね。
世の中のニュースとかを見てもわかると思うんだけど、なぜか不幸に行き着く人はその選択をことごとく間違えてると思いませんか。
それはけして悪心から来るものだけとは言えず、いつ誰にでも起こりうることで。だから観客も共感する部分があるゆえに耐えられなくなるのではないかと。
子供の頃の主人公を見ていたらなおさら誰にでもわかりうる感情があって、共感はできるけれども同意まではできないといった感じで。そこから生じる判断がその場しのぎにすぎない結果、やっぱりなという気持ちにさせられるのではないかと思います。
ある意味、孤独であるからこそ相談することもできず、相談する相手を間違えたこともまた孤独であるがゆえにであり。嫌われという冠名も孤独を暗に現してるのではないでしょうか。
松子さんも実はそうでもないんだけども、ずっと孤独を感じていた人で。人は周りに人がいると自分は孤独ではないと思い込むものなんですよ。むしろ今ある関係を崩して孤独になるくらいならと、今置かれてるその状況が既に孤独であるということを理解できないうちにいずれ理解させられるようになることになるというほうが正しいのかもしれないけどね。
私は孤独に慣れてるのでソレを不幸とすら感じられないのがある意味不幸なのかもしれないけども、距離感を作られているような相手とはそこまで親しくはならないし、なろうとは思わないですね(笑)




