2、マリアンジェとアシュレイ
数日後。
マリアンジェにセレーネから手紙が届いた。
無事に婚約が解消された、と。
話を聞いて激怒したセレーネの父親であるバレン伯爵が爆速で婚約解消を進めたのだ、と手紙には記されていた。ついでにダージュ伯爵も激怒して、カイロスはボコッボコに殴られて寝込んでいるらしい。
「よかった、婚約の解消が成立して……」
マリアンジェは胸を撫でおろした。
言葉には責任があり、沈黙には意味があり、紙の上での文言には力がある。
見たこと、聞いたこと、そこに思ったことが混ざってしまえば記憶は誤作動をして異なる記憶となってしまう場合もあるが、契約として紙となれば安心であった。感情という色に濁ることのない紙は白いままで、事実のみでいいのだ。
読み終えて、マリアンジェは丁寧に手紙を折った。
机の文箱に手紙をしまい、再び針を手に取る。マリアンジェはハンカチに刺繍をしている途中であった。
マリアンジェはホームメイドが得意だ。
料理も作れるし、ドールハウスも小物作りも上手であった。
しかし、壊滅的なものもある。
マリアンジェ曰く、裁縫および刺繍と編み物は別次元なのである。
ここで問題となったのが、王国には女性から男性に自ら刺した刺繍ハンカチを贈る古い習慣がある、ということだった。
男性は贈られたハンカチを身につけることで、女性との恋愛関係や婚約や結婚を公に周囲に周知させるのである。
お互いに売約済みである、と。
1ミリの隙間すらもない相思相愛だから横恋慕は禁止である、と。
刺繍には、花や星や月や鳥や鍵や扉や船などが色々とあり、それぞれに独特の意味があった。それらを組み合わせてメッセージとするのだ。刺繍糸の色も構図も大事だ。巧みな刺し手の女性は、そこに詩や歌まで組み込む。
どんよりと死んだ魚の目になってしまいそうなマリアンジェであったが、アシュレイと婚約を結んだからには頑張らねばならない。
一針、一針、ひたすら手元に意識を集中させる。
マリアンジェは真剣だった。
けれども、銀の針は規則正しいリズムを刻まない。ぐにゃと縫い目が歪む。刺繍糸が不格好に連なった。運針の跡がハンカチを斜めって並んだ。
その上、チクッと針先が指に刺さる。
「痛い……」
マリアンジェの目に涙が滲む。
「マリアンジェ、大丈夫?」
「治癒魔法はダメなのよね?」
「痛そうなのに……」
「マリアンジェ〜」
わらわらとマリアンジェの側で飛び回る精霊が心配をする。
小さな怪我や病気は、人間の本来持っている抵抗力や体力を奪う結果になるので治癒魔法は禁止されているのだ。
部屋で待機していた侍女が素早くマリアンジェの手当てをする。水差しの水で血を絞り出しながら洗い、清潔なガーゼで拭った。丁寧に薬を塗る。
「大丈夫です、精霊様。ありがとうございます」
とマリアンジェが言った時、窓辺にいた愛猫のクレオパトラがニャオンと鳴いた。精霊によって諸々の能力が底上げされているクレオパトラの視力は鷹の眼に等しい。
遠くにアシュレイの馬車が見えた。
ロックバード侯爵邸へと向かっている。
「たいへん! もう神殿に行く時間なの!?」
マリアンジェが立ち上がった。
複数の侍女たちが裁縫箱を片づけ、マリアンジェの髪の乱れを直す。ドレスの裾を整え、春用の薄いコートを羽織らせた。
階段を下りて玄関に到着すると、アシュレイの馬車が到着したところだった。
スルリと停車する。
侍従によって開かれた馬車の扉からアシュレイが足を踏み出した。
「マリアンジェ」
「アシュレイ殿下。お迎えに来ていただき、ありがとうございます」
笑顔でマリアンジェが出迎えた。
マリアンジェは精霊の愛し子である。
愛猫のクレオパトラからの頭突きによって前世を蘇らせたマリアンジェは、母親の寿命のために精霊の愛し子の座を獲得したのだ。
この世界では人間の寿命は神様が定めているが、精霊の言葉によって神様は願いを叶え、人間から人間への寿命の受け渡しが可能であった。
ただ、精霊は愛し子のお願いのみに耳を傾けるので、マリアンジェは神殿にて人間と精霊との橋渡しを役目としているのである。
アシュレイはマリアンジェの婚約者として同行して、王家の威光でトラブル回避の役割を果たしていた。
「あれ? マリアンジェ、指先に傷があるんじゃないかい?」
アシュレイが目敏い。精霊に強化されたクレオパトラ並みの視力である。
パッとマリアンジェが指を握って隠した。
「き、気のせいです」
ハンカチの完成まで伏せたいマリアンジェはしらばっくれる。
アシュレイは精霊たちに視線を向けた。
「何も知らないから!」
「ナイショだもの!」
「言っちゃダメなのよ!」
「め〜、なの!」
精霊たちの黙秘をアピールする態度があからさま過ぎて、露骨に知っていますと言わんばかりである。クレオパトラまでニャアニャアと否定するので、カンと頭の回転が鋭いアシュレイはピンときた。
指先の傷プラス婚約後の刺繍の風習イコール愛のお手製ハンカチ、とアシュレイの脳内で祝福の鐘のごとく反響する。
恋愛に関してはアシュレイは百戦練磨である。ハンカチの風習も熟知していた。ニママッと頬をゆるめた。
「そうか、気のせいかな」
「はい。気のせいです」
うんうんと一生懸命にマリアンジェが頷く。可愛い。ますますアシュレイがデレデレッと締まりのない顔になった。
「勘違いだよ」
「見間違え」
「アシュレイの顔が変なの」
「デレデレなの〜」
前半の二人のマリアンジェへのフォローと後半の二人のアシュレイへの容赦無さの温度差が酷い。
むむ、とした顔をして精霊たちが円陣を組む。
我が道しか進まない精霊たちだが、マリアンジェと暮らすことによって周囲を見回して気配りをすることを勉強してきていた。
「アシュレイはハンカチのこと、気がついちゃってるよね?」
「マズイかな?」
マリアンジェの実力を見ている精霊たちは額を寄せ合った。
「喜ぶんじゃない?」
「アシュレイはマリアンジェを愛しているもん」
ゆるやかにクレオパトラが尻尾を揺らす。ニャアンと甘く傲慢に、ベタ惚れだからマリアンジェが下手だろうが大喜びよ、とクレオパトラの片耳がピルルと動いた。
優雅な仕草でクレオパトラがサッサと馬車に乗り込む。精霊たちが続いた。
「さぁ、行こうか」
アシュレイが肘を90度ほど曲げて空間を作った。声が蕩けるように甘々である。笑顔がフラッシュするみたいに眩しい。
コキュン、とマリアンジェの喉が鳴った。
この世界は堕落される魔王の防衛ラインギリギリの溺愛体質の人がゴロゴロしている世界なのよね、とマリアンジェは気合いをいれた。
前世のマリアンジェが小説『愛こそすべて』に魅かれたのも多彩な登場人物たちの愛の深さであった。父親のロックバード侯爵もアシュレイもそのタイプである。いや、もしかしたら防衛ラインを突破しているかも知れない。
マリアンジェは背筋を伸ばした。
ふんわりとアシュレイの腕に手を添える。
アシュレイの婚約者でいるためには、愛よりも恋よりも根性が必要な時があるのだ。母親が父親と円満なように、末永くアシュレイの隣にいたいマリアンジェなのであった。
風がマリアンジェの首筋を滑って、襟元をくすぐった。
「アシュレイ殿下、風が吹いてきましたね」
「春の風は穏やかだね。まぁ、春一番みたいな強風もあるけどね」
「春一番はゴオォッて凄いですものね。この前、クレオパトラの毛が強風で広がって毛玉の鞠みたいになっていたのですよ」
「くっくっくっ、それは見てみたかったな」
にこやかにマリアンジェとアシュレイが微笑みあう。
「今日は孤児院に寄って、午後から神殿でのお仕事ですよね」
「忙しいけど、スケジュール管理はきちんとしているから無駄な時間は省いているよ」
「はい。お昼なのですけど、惣菜パンを用意しました」
マリアンジェが侍女からバスケットを受け取る。それをアシュレイが持った。
「惣菜パン? サンドイッチではないよね?」
「はい。サンドイッチとはちょっと違います。美味しいですよ、父には好評でした」
サンドイッチも手軽だが、サンドイッチよりも具材が多く単体でおかずも食べられる惣菜パンはロックバード侯爵から歓迎された。仕事を中断せずに執務机で片手で食べられるからだ。しかもボリューム満点で持ち運びしやすく、立ったまま食べられる点も侯爵家の騎士たちからも喜ばれた。
馬車から半分だけ顔をのぞかせた精霊たちがニコニコと笑う。
「仲良しだね」
「良きかな、良きかな」
「色褪せない人生って大事よ」
「ね〜」
ニャアン、とクレオパトラも目を細めて甘く鳴いたのだった。




