1、ラブラブな世界
マリアンジェはロックバード侯爵家の一人娘である。
婚約者は、研磨されたサファイアのような青い瞳の第二王子のアシュレイ。
婚約は政略であったが、アシュレイはマリアンジェを溺愛していたし、マリアンジェもアシュレイを深く愛していた。
その夜、マリアンジェは困っていた。隣にはアシュレイがいる。
場所は王宮の夜会のバルコニーであった。
換気のために出入口は開かれており、カーテンは共布のタッセルで束ねられていた。
少し夜気で涼もうとしただけなのに、マリアンジェとアシュレイの目の前では恋人たちの修羅場が繰り広げられていたのである。
令嬢の方はマリアンジェの友人だったので、味方をしたいと機会をうかがってオロオロとしていた。
「どうしたら……、彼女は友人なんです」
「マリアンジェ、少し様子を見よう。あちらは僕たちに勘づいていないから、両者の言い分をコッソリと聞いてみようよ」
「だいぶ興奮しているみたいですけど……」
「イザとなれば僕が止めるよ」
この世界は、神様が神殿に降臨する世界であった。
神様は人間の寿命を誕生時に定める。この寿命は、人間がどう足掻こうとも変更されることはない。
けれども神様は、人間の生き方まで確定はしない。どのように生きるかは、その本人次第であった。
ゆえにこの世界では、生きているうちに幸福にならずに何時に幸福になるのか、という思考が主流となって人間はジャンジャンバリバリ生活を楽しんで元気に働くのである。
また神様は、子どもを保護する神様であったために、成人まで子どもは無事に成長する。
親が子どもを亡くして泣くことのない世界であった。
そして子どもが、「寂しい、悲しい、寒い、痛い、お腹がすいた」と泣くことのない世界でもあった。
万が一に孤児になった場合でも福祉は手厚い。生活や学習面での不自由はしないし、差別もない。子どもは社会の宝として大事にされるのだ。
くわえてこの世界の特徴は、愛が激重の世界であるということだった。
神様がたんまりと愛を世界に振り撒いているので、夫婦は一夫一婦制である。浮気する者はほぼいないのだ。結婚すれば一途な相思相愛のイチャラブの世界なのである。
恋人であっても婚約者であっても、そのイチャラブの基本は変わらないので、マリアンジェの家であるロックバード侯爵家目的で以前に纏わりついてきたリシャールは著しく異色の存在であった。
どの世界にも社会通念に反する者はいるのだ。
リシャールは恋人がいるにも関わらず、マリアンジェとの婚約を求めてきた。
原因はリシャールが前世の記憶を所有していたからであるが、それは一途なこの世界の恋人たちの常識から完全に外れる振る舞いだった。
そして目の前の男性の方も、リシャール同様にこの世界では変わり種らしかった。
バルコニーの恋人たち、令嬢の方が叫ぶ。
「本気で言っているの!? 私との婚約を解消して、それなのに私に待っていろと?」
令息が令嬢を宥める。
「一時的なことだよ。僕が留学から帰るまでいったん婚約を解消しようと言っているだけだよ。それで留学から帰るまで待っていて欲しいんだ」
「だったら婚約を継続したままでいいでしょう!」
「でもさ、留学先で新たな出会いがあるかもしれない。その時に婚約者がいたら邪魔になるだろう?」
「あなた、バカ? 婚約は解消、自分は自由の身で恋愛、それで新たな恋愛に失敗したら国に戻って私と結婚!? でも新たな恋愛に成功したらその人と結婚。そんなものはあなたにだけ都合がよい話じゃないの。なのにどうして私があなたを待つ必要があるのよ!」
「だって君は僕を愛しているじゃないか」
「私の愛情を利用しないで! 私はあなたの便利な女性になるつもりはないわ!」
毅然とした態度の令嬢に令息は戸惑う。
「君と結婚をしないとは言っていないよ? でも」
「でも、じゃないわ! 本当にあなたはバカなの? 私は18歳よ、あなたが帰ってきた時に結婚できなければ何歳になっていると思うの? 貴族の令嬢としての結婚適齢期を過ぎてしまっている私では、次の結婚の条件は大幅に下がってしまうのよ」
令嬢は本気で彼が好きだった。
ただ好きだった。
婚約をしていれば待つこともできる。周囲も婚約者を待つのは当然と考えるだろう。
けれども約束もないのに待てなかった。
帰ってくるのは、2年後? 3年後? もっと後?
期待して待っていても、帰ってきた彼が新しい恋人を選んでいたとしたら?
婚約を解消されていたのに勝手に待って報われなかった令嬢と社交界で嘲笑される未来が、令嬢は容易く想像できたのであった。愚かな愛を選択する代償は大きい。令嬢は貴族社会からどのように見られてしまうのか、その現実を理解していたのだ。
「私をあなたの人生の生贄にしないで。あなたを愛しているけれども、私はあなたに都合よく使われるためにいるんじゃないわ」
「そんな言い方をしなくても……」
困惑した令息が軽く受け流そうとした。けれども令嬢は許さなかった。手袋の中で握っていた指を、一本一本ほどく。胸の中にあった想いが一気に崩れた。
「どんな言い方をすればいいわけ? ええ、婚約は解消するわ。そして私はあなたを待たない」
「待たない? でも僕たちは愛しあっているだろう?」
令嬢は令息を睨んだ。きっぱりと告げる。声が泣くように尖った。
「その愛を足蹴にしたのはあなたよ。私は私の心を守りたいの。あなただけで答えを決めて、その答えを私に押しつけないで」
頃合いを見計らっていたアシュレイが進み出た。
「悪いが、話が聞こえてしまった」
あわてて令嬢と令息が頭を下げる。
「アシュレイ殿下。お見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ありません」
令嬢は真摯に謝罪するが、令息は言い訳をした。
「いえ、あの、少し行き違いというか食い違いというか、その、婚約者同士のちょっとした諍いです」
単なる恋の拗れとして内輪の話に収めようと令息が言葉を継ぐ。令息も、自分の身勝手な理由による婚約の解消が噂になると社交界で眉をひそめられると自覚をしていたのだ。
「僕たちの問題ですので、どうかお忘れください」
令息が言葉を重ねるごとにアシュレイの青い双眸の温度が下がっていく。冷たい宝石のような眼差しだった。
「確かバレン伯爵家の令嬢とダージュ伯爵家の令息だったね」
アシュレイの言葉に令嬢が深く礼を執る。ばつの悪そうな令息の礼はぎこちない。
「はい。バレン伯爵家のセレーネにございます」
「ダージュ伯爵家のカイロスです」
はぁ、と呆れたようにアシュレイは溜め息を吐いた。
「カイロスね、覚えたよ」
アシュレイはセレーネに顔を向けた。
「婚約解消の件についての口添えを僕の方からバレン伯爵にしよう。セレーネ嬢の不利にならないように力添えをするよ」
パッとセレーネが顔を輝かせる。逆にカイロスは身体を固くした。
「アシュレイ殿下、婚約は家と家との契約です。ダージュ伯爵家とバレン伯爵家との間で解決をいたします」
カイロスの口元が小さく震える。
セレーネの愛に胡座をかいて、上手く言いくるめてセレーネを丸め込む予定であったのに、想定外なアシュレイの出現にカイロスは心臓が縮み上がり身体が竦んでいた。
「王家の干渉は不要に願います」
「へぇ? 婚約が契約と承知の上で、あの言葉?」
鼻を鳴らしたアシュレイが低く笑った。
「凄い度胸だね。真似できないよ、僕には」
ぐっ、とカイロスが息を詰める。口を開くが反論できない。カイロスの背中に冷や汗が流れた。
アシュレイは容赦しなかった。リシャールに似た自分本位なカイロスみたいな男をアシュレイは嫌悪していた。
リシャールは、マリアンジェの未来も気持ちも考えていなかった。
カイロスは、セレーネの外聞にも社交界の残酷さにも無頓着だった。
「カイロス。僕からダージュ伯爵に話そう。きちんと事細かに話すから安心するといいよ」
冷え冷えと口角を上げるアシュレイに、ガクンとカイロスの肩が落ちる。何とかアシュレイを翻意を促そうとカイロスが早口で捲し立てた。
「い、いえ、アシュレイ殿下のお手をわざわざ煩わせるほどのことではありません」
夜空には満開の月が花のごとく開いて輝き、不動の星が迷わぬ一本道を照らすみたいに座していた。
冬の名残りを孕んだ肌寒い風がバルコニーから室内に吹き込む。春は浅い。月影と星影を撓らせて、どこか遠くで咲いている花の香りのする風だった。
室内では優美な円舞曲が奏でられていた。音節が弾むように優雅である。
アシュレイの艷やかな髪に花の香りが纏わりつく。月の光、星の雫、花の芳香、音楽の旋律。美しい花の王のごとくアシュレイがカイロスを睥睨した。
「僕はね、おまえみたいなクズは虫酸が走るんだよ。汚泥のように疎ましい」
かつてのリシャールを彷彿させる利己的なカイロスは、アシュレイにとって唾棄すべき存在だった。
過去のアシュレイも遊び人であったが、お互いの合意があった。利害があっても本気の恋ではなかった。一方的に相手の気持ちと将来を搾取するような関係は言語道断だったのである。
マリアンジェが優しくセレーネの手を取った。
「あちらに行きましょう。デザートの新作テーブルがあるのです。あとはアシュレイ殿下にお任せすれば大丈夫ですから」
「はい、ありがとうございます。マリアンジェ様」
きゅっ、とマリアンジェがセレーネの手を包み込むように握った。かじかむ手に体温を移すように。ゆっくりとセレーネのレースの手袋が温まり、手袋の中の指先がじわりと温まった。
セレーネの手は冷たくなっていた。婚約者の横暴な要求に一人で立ち向かっていたのだ。自分の呼吸の数を数えるような緊張や不安で手先が冷えて動悸がするのは仕方のないことだった。
寄り添うようにマリアンジェとセレーネが歩き出す。
「あ! 行かないでくれ、セレーネ。婚約者同士の誤解だとアシュレイ殿下に執り成してくれよ」
カイロスに引き留めらたセレーネの眼差しはパチリと薪が爆ぜるみたいな熱を帯びていた。瞳の奥に火花が燃えている。
「……誤解ですか? あなたが言ったのです。婚約を解消して、その後も私に留学から帰るまで待っていろと。とても明確です、誤解なぞありません」
曖昧さを残すことなくセレーネが言い放つ。
「私は婚約の解消を了承して、あなたを待たないと言いました。あなたの利益の犠牲になって、私の貴重な時間を浪費するつもりはありません」
顔面蒼白となったカイロスがわなわなと慄く。全身から粘液が出ているみたいに汗を噴き出した。
そっとマリアンジェが口を引き結んだセレーネの手を引いた。
「参りましょう、セレーネ様」
「はい、マリアンジェ様」
マリアンジェとセレーネのドレスの裾が、シャンデリアの光を落とした床で揺れる。
夜のまばゆい光は財力の象徴であった。財力がなければ夜間に煌々とした光源の維持はできない。王宮はまさに権力と財力の具現化そのものだった。
壁には銀製の燭台が設置されていた。仄かに甘い蜜蝋の蝋燭の焔が灯っている。
その側にある椅子に、マリアンジェとセレーネは座った。
「マリアンジェ様、助かりました。あの場から私を連れ出してくださっこと、感謝いたします」
ほっと息を吐いて、セレーネが微笑む。
侯爵家のマリアンジェと伯爵家のセレーネは親しい友人である。だからこそマリアンジェはアシュレイに、セレーネとカイロスを諍いの仲介を頼んだのであった。
「大丈夫ですか、セレーネ様?」
「前々からちょっと折り合わないところはあったのです。今までは好きという気持ちだけで我慢してきました。けれども今夜のカイロスの言動は、バレン伯爵家の体面も私の将来へも配慮の欠けるものでした。政略面が強い婚約ではなかったので、父は婚約解消に賛成してくれるでしょう。……私も、もう無理です。二人でいる魔法がとけてしまいました」
花の花冠が萎れるように俯きかけたセレーネをマリアンジェが励ます。
「理不尽を突っぱねる態度はご立派でした。アシュレイ殿下もお味方をしてくださいますし、バレン伯爵家が悪いようにはなりませんわ」
一つ椅子を空けた場所には、新婚の夫婦らしい男女がいた。
「挨拶回りで疲れただろう。座っていて。お腹はすいていない?」
「平気よ、あなた」
「喉は渇いていないかい?」
「平気」
「休憩したら、ダンスを踊らない? 君とならば翼がはえたみたいに踊れる」
「ええ、楽しみだわ」
「俺も楽しみだ。今夜の凄く素敵な君と踊れるなんて、宝物の記憶になるよ。人生の贈り物だ」
「わたしも宝物の記憶になるわ。あなたと過ごした夜は永遠となって星になるの」
「永遠に? うん、永遠に君だけを見ていたい。君だけを見たい」
「約束よ。他の人見ないで。永遠にあなたはわたしのもので、わたしはあなたのものなの」
吐息が甘美に上擦る。
厳かで尊い愛の誓いのごとく甘く手と手を握って、イチャイチャラブラブしていた。
この愛が激重な世界では標準的なラブラブの夫婦であった。
それを横目で眺めてセレーネは微かな吐息を漏らした。膝の上できつく指を組む。
「……彼と結婚をするのだと思っていたのです。結婚して私も幸福になるのだと……」
マリアンジェがセレーネを抱きしめる。
「……相手が違う人になるだけです。違う場所に向かうだけです。セレーネ様は幸せになれます」
「……人生って思い通りになりませんね。彼でなくてはダメではなく、彼ではダメだったのですね」
「それが人生ですもの。人生って何かを得た時よりも失った時に大きく変わると思いますわ。あって当然と思っていたものは、失ったからではないと気がつかないことがあります。でも、セレーネ様は素敵な方です。セレーネ様は人を愛せる方です。セレーネ様を幸せにしてくれない方を追う必要はありませんわ」
にっこりとマリアンジェが唇をほころばせる。
セレーネはマリアンジェを抱きしめ返した。
「マリアンジェ様、大好きです」
「私もセレーネ様が大好きですわ」
美少女たちが抱き合う姿は可憐である。尊い。
性癖にぶっ刺さった者たちは、天井の天使絵を仰いだり、鼻血を手で押さえたりしていた。
その中に、隣国の王子オリアンドの姿があった。
「利用できると思わないか?」
オリアンドは自分の従者に呟く。
「殿下。横恋慕はタブーにございます」
「そんなことはしないよ。我が国の名前に泥がつく。マリアンジェ嬢の友人だよ」
目を細めてオリアンドは言った。
「マリアンジェ嬢は精霊の愛し子だ。是非とも我が国に招待したい。できれば俺の婚約者として」
「ですから横恋慕は」
従者の語尾を遮ってオリアンドは言葉をかぶせた。
「あの友人の令嬢は婚約を解消するらしい。令嬢を足場にしてマリアンジェ嬢に近づき、マリアンジェ嬢を俺に惚れさせれば文句はあるまい。マリアンジェ嬢の自分の意思なのだから」
マリアンジェは精霊の愛し子だ。
精霊の愛し子のいる地の神殿に神様は降臨する。ゆえに多くの国でマリアンジェは喉から手が出そうなほどの垂涎の的であった。
「マリアンジェ嬢が欲しい」
オリアンドの声音には剥き出しの欲望が滲んでいた。
「精霊の愛し子が我が国にいれば、神が降臨してくださる。この王国ではない、他国でもない。我が国こそが神の地に相応しい王国なのだ」
読んでいただき、ありがとうございました。
【お知らせ】
「ララティーナの婚約」の1巻目の漫画が紙書籍となってマッグガーデン様より11月13日に発売されます。
漫画は、白い蝶が舞っているみたいなクラリンドウの花のように綺麗な絵の、カ加羽先生です。
どうぞよろしくお願いいたします。




