赤錆に染まる爪
「おい、あれを見ろ」
荒木が雨の幕の向こうを指さした。
緑地公園のさらに奥、地盤が不自然に陥没した斜面の底に、小さな作業灯の明かりが揺れていた。
叩きつけるような豪雨のなか、その光に照らし出されていたのは、泥の中に四つん這いになって蠢く人影だった。
「……真壁?」
佐登の口から、掠れた声が漏れた。
同期の真壁だった。彼女の網膜デバイスのインジケーターは消灯している。自ら感覚システムを完全にオフにして、この凄惨な土砂降りのなかに身を投じているのだ。
「う、あ……動け、締まれ……ッ!」
真壁の声は、完全に枯れていた。
彼女は、破裂寸前まで膨れ上がった配水主管の継ぎ目に、文字通り体ごと覆いかぶさっていた。
継ぎ目のボルトはすべて錆びて脱落し、高圧の錆水が牙を剥くように隙間から吹き出している。真壁は、自らの制服の上着を強引に引き裂き、その泥まみれの布切れを、噴き出す錆水の隙間に力任せに押し込もうとしていた。
布を裂いては、錆びた鉄管に巻きつける。
滑る手元で、何度もノットを締め直す。
だが、そんな非効率な手作業が、都市を支える高圧配管の圧力に対抗できるはずもなかった。彼女が巻きつけた布は、すぐに泥水と錆を吸って肥大化し、噴き出す水圧によって哀れに弾け飛ぶ。それでも彼女は、狂ったように次の布を裂き、鉄にしがみついていた。
「おい、真壁! 何をやってるんだ!」
「佐登……!?」
真壁が顔を上げた。その顔面は飛び散った赤錆と濁流で汚れ、髪は額に張り付いていた。
「早く、手伝って! ここが破裂したら、第三ブロックの地盤ごと、上の本庁舎の土台が流される! 早く、このバルブを……!」
「そんなことしたって無駄だ! システム上、ここは稼働停止区域になってるんだぞ!」
叫ぶ佐登の視線が、真壁の「手元」に吸い寄せられた。
言葉を失った。
彼女の爪は、剥き出しの鉄錆と、摩擦で裂けた自身の指先から溢れる生血によって、真っ黒、かつ赤黒く染まりきっていた。
指先の皮膚は摩耗しきって、爪と肉の境界から絶え間なく赤い液体が滴り、配水管の茶色い錆と混ざり合っている。
不潔だ。非効率だ。狂っている。
これまでの佐登なら、そのあまりに「生身」すぎる、醜悪とも言える光景を嫌悪し、視界を塞いで逃げ出していただろう。
——だが、今の彼の身体は違っていた。
こめかみに擦りつけられた川泥の、冷たく強烈な質量を知ってしまった感覚が、彼女のその「赤錆びた爪」に対して、言いようのない、激しい畏怖を抱かせていた。
あれは、嘘のパッチでは決して塗り潰すことのできない、現実と命懸けで切り結んでいる肉体の、悲痛な叫びだった。
——ギギ、ギギギギギギギ……。
その時、大地の底から、先ほどよりも遥かに重く、巨大な地響きが立ち上った。
コンクリートの基礎が剪断破壊を起こすような、決定的な「亀裂」の音。
「ひ……っ!?」
佐登の背筋に、氷を突きつけられたような悪寒が走った。
真壁が抱きついていた鉄管の継ぎ目が、限界を超えて歪み、シューッという鼓膜を裂くような高圧の排気音を立て始める。
「真壁、離れろ! 崩れるぞ!」
「嫌……嫌よ! ここを離れたら、本当に全部終わるのよ……!」
真壁は赤錆びた爪を配管に食い込ませ、なおも体重をかけようとする。
——ドガッ!
次の瞬間、継ぎ目から濁った錆水が、まるで爆弾が炸裂したかのような勢いで噴き出した。
その物理的な「水圧の質量」が、真壁の身体を軽々と吹き飛ばし、彼女は泥濘の中へと叩きつけられた。
「う、あ……ああっ!」
佐登は恐怖に駆られた。
大地の鳴動は止まらない。すぐ足元の泥が、まるで生きた怪物の胃袋のように、ずぶずぶと自分の長靴を飲み込もうと波打っている。
一歩、引き抜こうとするが、まとわりつく泥の質量が異常に重い。
「荒木さん! 真壁!」
叫んだが、次の瞬間、佐登は踵を返していた。
泥だらけになりながら、這うようにして斜面を駆け上がる。
怖かった。壊れていくインフラが放つ、物理的な破壊の質量が、自分を圧し潰す未来が、死ぬほど恐ろしかった。
「ハァ、ハァ、ハァ……!」
冷たい泥を浴び、爪の間に黒い錆を侵入させながら、佐登はただ、あの快適で、温かく、すべてが美しく調律されていた「市役所」という名のゆりかごへ向かって、狂ったように走り続けていた。
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