下水道
疲れた
今日が転換点だ。あてもなく、そう感じる。
アパッチの足取りは、これ以上になく軽かった。
彼の一人での、腐食地区への侵入が意図しない形で、実を結んだのだ。
有頂天のまま、彼は同居人の職場に向かった。崩れそうな朱い空に、思いを馳せていると彼女が出てきた。
「お疲れさん」
彼女は微笑むだけで、言葉は返さなかった。
彼女は口数が少ない方だ。七日くらい口を利かない事も珍しくない。
アパッチは、そんな彼女が好きであり、一緒にいて心地がいいと感じていた。
「何食べたい?」
彼女は少し考える素振りを見せ、ひらめいたように提案した。
「久しぶりに、リカルドさんのブリトーでもどう?」
アパッチは心が躍った。
「ええやん」
リカルドのブリトーは、六十三区の中央に位置した、半分屋台のような店だ。
キッチンカーの横に、テーブルと椅子が一式揃っている。
外食は六十三区の居住者には、あまりにも贅沢な話だが、リカルドのブリトーは値段が張らないため、ちょっとした人気店だ。
「いらっしゃいアパッチ!久しぶりだね」
この店が人気な理由に、店長のリカルドの人柄の良さも、一役買っているだろう。彼の気前の良さと、快活さが心地よく感じる。
「ご無沙汰してたな。プロセスミートのブリトーを二つ頼む。飲み物はスーパーライトと、ホワイトバージンで。」
「飲みすぎんなよ」
アパッチは肩をすくめ、叱られた悪童の様な表情を見せた。
商品を受け取り、テーブルの一つに陣取った。
「ねぇキョウスケ」
彼女がアパッチのことをミドルネームで呼ぶのは、大概真面目な話をする時だ。
「ん?」
「私たちの共用の口座、覚えてる?」
アパッチと彼女の、毎月の給料の一部を貯めている口座のことだ。
「もちろん。それがどうかしたのか?」
「二百万貯まったの」
アパッチは目を見開いた。
「それはまた。新しい家でも買うか?」
彼女は目を伏せた。
「ちょうど二人分の、上級国民証買える額なの。二人で六十三区を抜け出して、もう少し良い生活をしてみない?」
六十三区に住む人間は、いわゆる底辺に該当する。六十三区以外にも、腐食地区に隣接する区は、明らかに貧乏人や、すねに傷のある人間の居所だ。
六十三区や他の地区を抜け、治安のいい発展した区に行くには、莫大な費用を要する、上級国民証が必要になるわけである。
「ごめん。それはできない」
アパッチには、六十三区を抜けて良い生活をする以上に、大切なものがあった。
「一緒に良い生活をするのは、やぶさかじゃない。でも、それを諦めても、俺は十七区に戻って、腐食災害の真相を知りたいんだ」
「それは本当に、キョウスケのやらないといけないこと?目の前の幸せを享受することが、間違っているとは思えないのだけど」
彼女の語気が強くなるのは、それだけで異常事態といえる。
「ごめん…でも俺が知りたいんだ。ほかの誰にも知れれたくない。」
「私では止められないようね」
彼女は少し寂しそうな顔をした。それこそ、飛び立つ雛鳥を見守る母のような瞳だ。憂いと、期待を含んだ目にアパッチは、ほんの少しだけ揺らいだ。
「帰りましょ。あなたに渡したいものがあるの」
帰り道、彼女に美沙螺たちの事を打ち明けた。
彼女は特等驚くこともなく、ことの顛末を受け入れた。不自然なくらい、すんなりと。
「いつか、こんな日が来るって、何となく予想できていたからね」
アパッチの人柄を見抜いたうえで、彼の背中を押す覚悟をしていたのだ。
アパッチのバラック小屋に、光がともる。
「これをあなたに」
彼女が自室から、布にくるまれた細長いものを取り出した。
「これがあなたを、守る獲物になる。」
布を解くと、銀色のボディが、白熱電球の下に晒された。
流麗な柄、武骨な鉄塊、生まれた時から握っていたと思えるほど手になじむグリップ。
「スレッジハンマーか?」
ヘッド部分の片側が鋭利になっていることを除けば、デフォルトのスレッジハンマーだ。
「本当は誕生日に渡す予定だったんだけどね。サバイバルナイフだけじゃ、心もとないと思って」
プレゼントを人からもらったのは、もう記憶の彼方になるほど前だ。
「ありがとう。大切に使うよ」
ハンマーをまじまじと眺めると、ヘッドに蛸の彫刻が施されていることに気が付いた。
「この彫刻は?」
「ただのハンマーじゃ味気ないかなと思って」
彼女なりの気遣いというわけだ。
「かっこいいな」
アパッチは鏡のように反射する、ピカピカの鉄塊を愛おしそうに眺めた。
「明日も仕事だから寝る」
彼女はこそばゆそうに、部屋に引っ込んでいった。
同居人ちゃんはアパッチと恋人関係とかではないです




