第四十話 ロッド先生2
朝の空気は、相変わらず静かだった。
目覚めると、光がゆっくりと室内に満ちていく。数値の確認を終え、アオはいつも通りに身支度を整えた。もう、この流れに戸惑いはない。良くも悪くも、ここでの生活に身体は順応し始めていた。
扉を出ると、廊下の先に人影があった。
「おはよう、アオ」
ロッドだった。いつもより少しだけ早い。
「……おはようございます」
「今日は基礎学力からだ。ミナトが先に準備してる」
並んで歩き出す。距離はほんの半歩分。それだけで、廊下の空気が少し柔らいだ気がした。
午前の授業は、いつも通りだった。
数式を追い、前提を確認し、問題を解く。ミナトは必要以上に口を出さない。アオが理解していることを前提に、次の段階へ進めていく。
説明が終わる前に、答えが揃う。
ミナトは一瞬だけアオを見るが、何も言わない。ただ、進度をさらに上げた。
(……やっぱり、ほとんど同じだ)
考え方は、もう迷わない。
違うのは、説明の切り口と前提の置き方だけだ。
そう思いながら、
アオは次の問題へ進んだ。
午前のセッションは、予定よりかなり早く終わった。
「今日はここまででいい」
ミナトはそう告げ、端末を閉じた。
「午後はローデリックが世界理解を担当する。……引き続き、集中力は維持できているな」
「はい」
それだけで会話は終わる。余計な評価はない。
昼を挟み、午後の時間。
ロッドは教室の扉を開き、アオを中へ促した。
「じゃあ、午後の授業を始めよう」
「今日は世界史だ。といっても、細かい年表じゃない」
室内は無駄のない広さで、壁面全体が淡く光っている。
「この世界を“どう分けて理解してるか”の話だな」
ロッドが操作すると、壁一面に大きな地図が浮かび上がった。
「惑星アーク・ヴェルスには、大きく三つの主要大陸と、八つの中規模大陸がある」
「ここ、シェイラは北大陸。その中のレイラン地区に位置している」
ロッドは空中に簡易的な投影を出す。
「植生も、生物も、大陸ごとにかなり違う」
「……でもな、面白いことに」
少し笑う。
「ベイラで取れる小麦は、どの大陸でも栽培されている」
アオはわずかに目を見開いた。
「同じ品種なのに、味は全然違う」
「ベイラの小麦は、香りが強くて、焼くとコシが出る」
「南へ行くと、草人――ヴェルダ人の土地だが……あっちは軽くて、ふんわりする」
ロッドは、少しだけ口元を緩めて続けた。
「うちではな、朝はしろパンを焼く」
「個人的には、ベイラ産より南の小麦の方が好みだ」
その言葉に、アオの意識が引っかかる。
「……家でも、毎朝しろパンでした」
思わず口に出ていた。
「携帯のパン焼き機を持たせてもらってて……」
「ほう」
ロッドの目が少しだけ輝く。
「青いバナナのマークのやつか?」
「はい」
「やっぱりか。あれ、作りがいいだろ」
「温度制御も細かいし、水質補正も優秀だ」
「粉や水が多少違っても、味が崩れない」
話が、自然と広がっていく。
どの設定が使いやすいか。
どの粉だと香りが立つか。
雑談のはずなのに、いつの間にか話し込んでいた。
「……ローデリック」
横から、静かな声が入る。
アヤセだった。端末を手に、淡々とこちらを見ている。
「このままだと、本日の進行が想定外の方向に伸びる可能性があります」
責める調子ではない。ただ、事実の確認。
「碧殿の進捗自体は問題ありません」
「ですが、長時間の非構造的な会話は、教育計画上の不確定要素になります」
ロッドは一瞬だけ口を閉じた。
「……失礼しました」
すぐに頭を下げる。
「少し話が逸れましたね」
アオの方を見る。
「ごめんな、アオ。授業に戻ろう」
「いえ……」
そう答えかけて、言葉を止めた。
アヤセはそれ以上何も言わず、視線を端末に戻した。
世界史の授業は、予定通りに再開された。
その後は、余計な雑談はない。
だが、空気が冷えたわけでもなかった。
夕方。
ロッドはアオを伴って、食堂へ向かった。
「さっきの話な」
歩きながら言う。
「南の小麦、申請すればたぶん手に入る」
「食事は基本自室から選べるが、素材指定やカスタムは食堂のシステムを使う」
端末の簡単な操作を見せる。
項目は多い。だが、分かりにくくはない。
「……思ったより、選択肢が多いですね」
「そうだな。慣れるまでは、迷う」
ロッドは小さく笑った。
「でも、自分で選ぶのは悪くない」
「生活の感覚が、残る」
アオは端末を見つめながら、ふと思った。
こうして誰かと並んで、どうでもいい話をしている。
それだけで、胸の奥が少し温かい。
「……ありがとうございます」
自然と、そう言っていた。
「久しぶりに……人と、雑談した気がします」
ロッドは一瞬、驚いたように目を瞬かせた。
それから、穏やかに頷く。
「そうか」
「なら、よかった」
「困ったことがあったら言ってくれ」
「授業中は怒られるからな」
冗談めかして言う。
「朝とか、今みたいな夕方なら、生活面の話くらいはできる」
アオは深く頭を下げた。
「よろしくお願いします」
部屋へ戻る途中、ロッドは一人になった。
廊下の途中で、ふと足を止める。
照明が静かに灯る中、天井を見上げた。
(……少し、話しすぎたかもしれない)
そう思った自分に、彼は小さく苦笑した。
距離を保つべき相手だ。
分かっている。
それでも――
ほんのわずか、救われたような顔を思い出してしまった。
ロッドは歩き出す。
その背中を、誰も呼び止めなかった。




