ー壱ー
「結界で守るから、そのまま階段を降りようよ。あいあい傘、というか、あいあい結界?」
「おまえがナントカ48みたいな美少女になるなら喜んで入るわ——あいあい結界」
「ほんとうに女装してみようかな。ウィッグとかいるよね……」
「おまえの見た目だとシャレにならないんだよ、変なスカウトされてもしらねぇぞ。芸能事務所とか興味ありますか、って、ふた開けたら脱ぐやつ」
自分で言っておいて、ぞくっと悪寒を覚えたリクは両肩をさすった。しかしこの街では、その類の話はよくある。
「実のところ、いっかいそれ、食らってるんだよね」ルイが言った。「明らかに《《脱ぐやつ》》っぽかったから、笑っちゃった」
「まじかよ。今度そいつ見たら言えよ、ぶん殴ってやる」
「頼もしいかぎり——ありがと」
軽く笑ってからルイは立ち上がり、ふたり分の結界を作るために錫杖に念を込める。
結界に守られながら階段を降りてゆく。五階から四階までの階段——その折り返しのスペースで足は止まった。
「マジかよ」
「まだ残ってるね、かなり」
四階フロアは雨雲の中に隠れたように見えなくなっていた。淡黒いガスが充満しており——ガスマスクをつけていたとしても呼吸するのをためらってしまうほどの光景。
「絶対に離れないで」
「お、おぉ……」さすがのリクも慄いている。
球体状の結界に守られながら、階段を降りる。なにも見えない。飛行機が雨雲に突っこんだとき、パイロットが見る景色はこんな感じかも……、とリクは思った。
二階までくるとガスはかなり薄くなり、
一階にはほとんどガスは届いていなかった。
「よかった。二階のあたりでわりと留まってくれたみたいだね」
「––––手をあげろ!」
外に出るやいなや、リクとルイは警官たちに囲まれてしまった。扇状に陣を構えた警官たち、その真ん中にいるひとりだけスーツすがたの男は、銃を持たずに腕組みをして立っている。
とても機嫌の悪そうな顔だ。
そもそもの目つきがかなりわるい。
頭頂部のところが、ちょっとしたモヒカンみたいに逆立っている黒髪の短髪は、とても洗いやすそうで、タオルだけで乾きそうな髪型だ。痩せこけた頬。見ようによってはダンディといえる風貌。
両手をあげる素振りすらせず、リクは警官たちにメンチを切った。
「んだよてめぇら」
「リク、いちおう、ね?」
困り笑顔を浮かべながら、ルイは錫杖を地面に置いて両手をあげた。
「ちっ……」
リクもいやいや両手をあげた。
片手には刀を持ったまま。
「ほう」
スーツの男が、ふたりを下から舐めるように見た。腕組みをほどき、右手をだるそうに挙手。それを見た警官たちはそれぞれ銃を下ろした。ひとりはどこかに連絡をし始め、残りはルイとリクに対し軽い敬礼をしてから、ガスが充満する階段の方へ駆け出した。
誤解が解けたことを悟ったリクとルイは両手を下ろす——「あ! ダメだ! 行っちゃいけない!」
階段に向かっていた警官たちは足を止めて、ルイに振り返った。
「そのさき、有毒のガスが充満しているんだ。空気より重たいガスだから、もう下まで降りてきているかもしれない」
警官たちは顔をこわばらせて、後退りする。
「ガスマスクと全身防護の鑑識、呼んどけ」スーツの男が言った。そしてこちらに視線をやる。「——前ら、こっちこい」
『お』が全く聞こえない『おまえら』でリクとルイを名指した刑事はアゴで道の奥を指して、歩きだす。
「事情聴取、かな?」
「べつにいらねぇだろ。見りゃわかんだろ、おれらのことくらい」
自慢の黒革ケースに雷切をしまうときは、いつも達成感があるのだが——きょうにかぎっては後味がわるかった。
スーツの男は喫茶店に入った。一五席ほどのちいさな店。一週間前からの新聞紙がラックに乱雑に突き刺さり、天井の近くで吊るされたテレビが民放のワイドショーを垂れ流している。店主がすでにタバコを吸っているものだから、禁煙のマークすら見当たらない。
カウンター席に背筋が曲がった老人がひとり、新聞を読みながらコーヒーを飲んでいるだけのガラリとした空間。その傍らのボックス席に男は座った。
彼の別名は、歌舞伎町のカラス——。気づいたときにはそこにいて、気づいたときには犯罪の証拠を掴まれる、と闇の事業を営む者たちの間では有名な警察関係者だ。
カラカラ、とドアの鐘を鳴らしてルイとリクが入店する。マスターの「らっしゃい……」がかすかに聞こえた。
ふたりはカラスの背中を見つけると、ボックス席の対面側に肩を並べて座った。
「……最近、うちらの検挙率、激減してんのよね」カラスがだるそうに言う。
「あ? しらねぇよ。へっぽこデカが愚痴を言いてぇだけなら帰るぞ」リクがすぐに噛みついた。
噛みつくというよりは、犬が電柱のてっぺんにいる鳥に吠えるようなものだった。刑事は無反応。ルイがリクの太腿をぽんぽん叩き、なだめる。
リクはそっぽを向いてフンっ、と鼻息を鳴らした。
「それは、つまり、犯罪因子のある人間が悪魔化して——それを僕らみたいな人種がすぐに狩ってしまうから、逮捕ができないってことです?」
カラスは全体重を長椅子の背もたれに預け、天井を見上げた。シーリングファンが低速で回っている。やる気のない店主に似て、やる気のなさそうな回転速度だ。
「そうゆうこと。あと悪魔さん方が増えてるってことでもあるのよね実際。ここ五年かそこいらで急にさー」
天井に向かって言った数秒後、カラスは、がくんと顔の角度を落とした。鋭い視線がこちらを刺す。
「あんたらどこの所属?」
「聖・ジェイド協会です」ルイが答えた。
カラスは軽く前のめりになった。
「イースじゃねぇの?」
「はい、ぼくらはもう所属していません」
「つまり所属していた、と。なんで抜けたの?」
「方向性のちがい、ですかね」
「へー。この街の教会ほとんどがイースだってのに。変わったのもいるのね」
リクはそんなに喋っていいのかよ……、という視線をルイに送る。
しかしルイは察していた——イース(E•A•E•C)の実情を、おそらくこの刑事さんは知っている。この人は、いろいろ知った上でぼくらと話している。下手に嘘をつけば《《ばつが悪くなる》》だけだ——と。
ナイフのような眼光は、ルイの仕草に一瞬でも迷いや動揺があれば、そこに《《探り》》突き刺そうとしていた。
まばたきを忘れるほどの緊張感は、このくたびれた革靴みたいな喫茶店にはどうしても似合わない。いやな空気を察したカウンターの老人客は、「ごちそうさん」といって小銭をそこに置いた。




